マクスウェルの悪魔
一度砕け散ったものは、もう二度と戻ることはない。ガラスのコップだって、人と人との関係だって、パズルのピースだって。砕けた破片が小宇宙を彷徨い、無限の時間を経たとしても元鞘に戻ることの無いことは、エントロピーという名の時の潮流がそれを証明している。どれだけ望んだって、またどれだけ悔いたって、一度散らかったパズルのピースが独りでに並ぶことなどない。そう、独りでには。
〇
うだるような暑さの中足元に生い茂る名も知らぬ雑草、砂ぼこりで煤けた窓ガラス。久しぶりに訪れた実家は、かつての面影など残すことなく佇んでいた。あれだけ鮮やかに塗られていたオレンジ色の屋根もいまや日に焼け、褪せた木目が曇天に晒され所々にひびが入っている。またあれだけこだわりを持ってリフォームをした外壁の白色だって、使い古したファンデーションのように無残なひび割れを呈している。そんな散々な様相を見て、私は小さく「ざまあみろ」とつぶやく。
――父が亡くなったと電話がかかって来たのは、三日前のことだった。その日私は、自室で締め切りの迫った論文をまとめていた。深夜一時、六畳に満たない小さな板間、勉強机すら置くに置けない狭い部屋。布団の上に座り込み、ちゃぶ台に覆いかぶさるようにして必死にキーボードを叩いていたとき、廊下の床板を軋ませながら母がこちらへと近づいて来て、私の部屋の扉を叩いた。
「……ねえ、今、大丈夫?」
「ごめん、この論文、明日までに上げておかないとだから」
査読付き論文だとか、トップジャーナルだとかなどと、母に言っても仕方のないことだろう。しかし忙しい私に対して、母がこうして声をかけて来ることはいつものことだった。この日だって、時間こそ少し遅かったものの、それ以外はまるでいつもと同じように母は私に声をかけてきた。私が明らかな「違い」を感じたのは、それから数秒後、扉の向こう側から何度か鼻をすするような音が漏れ聞こえて来たときのことだった。
「……何かあったの?」たまらず私は訊ねる。
「……うん」
母はそれから数秒の間を空けた。その合間を埋め合わせるようになり続ける時計の秒針。やがて母は、扉の向こう側で大きなため息をつくと、震えるような声で言った。
お父さんが、亡くなったって。
――解せなかった。あんな奴のために、泣いてやる必要なんてないのに。
私はあらかじめ渡されていた鍵で実家の扉を開けようと試みる。しかし古びた錠が錆びついているためか、何度鍵を回そうとしても、扉が開く気配はない。汗で滑る手を何度か拭った後、さらに一度、二度と鍵が折れんばかりに右手に力を込める。何度繰り返しても開こうとしない扉に、私は厚手のブーツを履いた右足で蹴りを入れた。
……何を苛立っているのだろうか。開かない鍵か、この曇っているくせに高い気温と湿度か、あるいはこのような気候に対して風通しの無い靴を履いてきた自分の愚かさか。そうやっていろいろと頭を回してみても、最後に思い当たるのは、やはり母の涙だった。
何故母は、あの男のために泣けるのか。私たちを捨てた相手に? 私がちゃぶ台で腰を丸めながらレポートを書かなければならないのだって、母が毎晩遅くまでパートに出なければいけないのだって、元をただせば全てあの男の所為なのに。
……大きく息を吸って、深く吐く。一旦落ち着こう。そう自分に言い聞かせる。どの道あの男は死んだんだ。今更この場で恨みつらみを述べようと、泣いてやろうと、戻ってこない。そしてだからこそ、私はここへ来たのだから。心を落ち着けて再び右手に力を入れると、先ほどまでの硬直が嘘のように鍵は素直に開いた。
家の中は、至る所に埃が積もり、玄関から廊下にかけては雪道のように白い景色が続いていた。その様子を見て、私は内心、収穫は期待できそうにないか、と苦笑いする。
遺品整理。そう言えば聞こえは良いのかもしれない。しかし私がそれを主張するのは、あまりに盗人猛々しい。私が求めているのは、家族を捨てたダメ男の唯一の遺産。あの男の「空白の二十年」における研究の記録、すなわち、未発表論文。
――今から二十年前、二〇二三年。将来を有望視されていた若き素粒子物理学者が、学会から突如として姿を消した。その頃私は、ただの一介の小学生としてランドセルを背負いつつ日々を過ごしていた。だからこそ、日頃見慣れたその若き男が何者であるかなど知る由もなかった。彼が研究者であると知ったのは、あの男が私と母を家から追い出した後、母が私を慰めるようにして、幾度となく語り聞かせたのがきっかけだった。
お父さんはね、研究者だから。
――廊下を抜けると、いつか見慣れたリビングの光景がそこにはあった。カーテンより漏れ入る光、いつも家族団欒で座っていた赤い長ソファ。食卓にはあのときと同じ数だけ椅子が並べられている。唯一違う所は、その全てが埃にまみれていることだけ。飲みかけのまま放置されたコーヒーカップすら、あの頃と同じように置かれている。
そう、あの頃と同じ……。であれば、ここにあの男の成果物はない。あの男はいつも、リビングに居ないときは、決まってあの部屋に籠っていた。私はその部屋に向かうべく、リビングを出て階段を昇り始めた。
道中、私が自室として使っていた部屋の扉を開けた。内装はそのまま放置されていた。また、人の出入りも全くなかったのだろう。他の部屋と違い、水玉模様のベッドシーツの上には、埃が積もってはいなかった。
自室を通り過ぎ、二階廊下の最奥まで足を運ぶ。そこに佇む、古めかしい一つの扉。家全体をリフォームした後であっても、この扉だけは決して触れさせなかった、彼の部屋。
高鳴る鼓動を押させつつも、慎重にドアノブに手を当てる。平時であれば鍵の閉じられていたこの扉。今となっては……、空いていた。
聞いた話によると、あの男の遺体が発見されたのは、死後三日が経過してからとのことだった。独り暮らしで、誰とも交流の無かった男がそんなにも短期間で発見されたのは、日頃取り続けていた新聞のおかげだったという。二十年間、二〇四〇年代にもなって、毎日律義に朝夕の新聞を読み続けていた男が、ある日ぱたりとそれを止め、新聞がポストに溜められていく。それを不審に思った配達員の通報により、判明したとのことだった。私が今開いたこの扉の、その中にあるこのベッドこそが、死んだ男が寝そべっていたところだったという。別段苦しんだ様子もなく、ただ眠るように。
部屋は例に寄らず、埃にまみれていた。ただしベッドだけは、そのシーツの中心が僅かに黒ずんでいるだけで、綺麗な物だった。机の上に乱雑に置かれた書籍類の数々。その全てが彼の研究分野であり、そして、私の研究分野でもある。私と男の研究分野が一致していると知ったのは、学部生四年のとき、研究室配属が済み、いざ自分の研究を始めるために先行研究を調べたときのことだった。それまで彼が研究者であったのは知っていたが、よもや同じ素粒子の分野だとは考えもしなかった。それに、私が何か研究に着手するたびに、ことごとく彼の論文をリファレンスに加えなければならないのは、屈辱から一周回って、乾いた笑みすらこぼれた。
机上を漁り、引き出しを次から次へと開ける。しかしそこに在るのは、すでに目を通したことのある著作物ばかり。その他、本棚に目を向けてもありきたりな専門書が置かれているばかりで、真新しいものがあるわけではない。一番上の引き出しを開けると、そこにはいつぞやの家族写真が入れられていた。桜舞い散る、入学式の時の写真。右に立つ母、中心に立つのは、真新しいランドセルを背負った私。そして、そこからわずかに距離を開けて立つ、あの男。気難しそうにメガネの奥で眉間に皺をよせ、まるで笑みを浮かべようともしない彼の姿。今でも思い出せる。いつだって、入学式のときさえ彼は、そうやって仏頂面を浮かべていた。まるで私を疎んでいるかのように……。写真の真ん中で何も気づかず呆けた笑みを浮かべている少女を眺めていると、同情からか、目頭が熱くなってきた。
これは、あなたが享受すべきものではない。私は指先で写真を摘まみ上げると、力を籠め、あの男と私との間を切り裂いた。次いであの男の姿が微塵となるまで粉々に引き裂き、ただの紙片と帰した。
そこまでして、私は首を横に振るう。違う。こんなことをしに来たのではない。あくまでも私が興味あるのは、研究だけなのだから。そう思いつつも、机には今見た通り何もなかった。なら、パソコンは? そう思い立ちベッドの枕元に置かれていたノートパソコンを広げる。幸いにも、四桁のピンコードは三回目のトライで突破することができた。〇四一一。……一番最初に思いつき、一番あり得ないと考えていたために最後に回した番号、私の誕生日で。……なぜ彼は家族を捨てた? 研究に集中するため? ではなぜ、学会からも消える必要があった? パソコン立ち上げ中に、幾度となく無駄な考えが頭をちらつく。
デスクトップを確認したとき、ビンゴだと確信した。親切にも彼は、常用しているサーバーの接続の方法をメモに書き込んで記載していた。接続先は、どこだろうか。IPアドレスから国内であることには間違いないが、主要なスーパーコンピュータではないことは間違いないであろう。見覚えのない数値配列こそがそれを物語る。であれば、どこか自分で建てたサーバーだろうか。
私は記載された通りの手順にしたがい、サーバーに接続する。開かれる仮想デスクトップ。そのトップページに無造作に置かれているPDFファイル。当たりだ。そう思いそれをダブルクリックすると、その論文のタイトルを見て私は愕然とした。
「『マクスウェルの悪魔』による遡行的記憶の記録、およびその再構築」
違う、これは素粒子分野の論文ではない。しかも、マクスウェルの悪魔? それはもはや古典熱力学……、いや、今はもはや情報分野の人の方が熱心にそれと向き合っている分野ではないか。
やられた。私はそう頭を抱えた。適当にスクロールしてみるも、枚数は五枚程度しかない、薄っぺらい論文だ。無論、どこかに投稿するつもりもなかったのだろう、リファレンスはおろか、著者として己の名前すら書きこんでいない。内容を流し読みしてみても、実現できるのか怪しい、特許的なアイデア論文。
曰く次のような内容であった。海馬における記憶の仕組みは、エントロピー増大の仕組みと等しい。不可逆であり、乱雑さを増していく。故に人の記憶は老化と共に悪くなっていく。彼が目を付けたのは、そんな物理学的現象であった。彼はそれに対して、仮想的な海馬の神経伝達情報をPC上に構築し、かの悪魔を召還した。『マクスウェルの悪魔』。マクスウェルが提唱した、思考実験上の存在。その役割は、自然界において唯一時間を刻むエントロピー変化を逆転させ、疑似的な時間遡行を生み出す存在。それにより、PC上に時間遡行した仮想海馬を構築する。あとはその情報を、既存のVR機器にて再現すればよい。
なるほど、確かにアイデアとしては面白いかもしれない。しかし、これはむしろ応用物理か工学の領域であり、我々純粋物理学者が取り組む課題ではない。彼が学会を抜けてまでやりたかった研究とはこれなのか。独り引きこもり、家族を捨て、その末にやり遂げた研究は……。
ふと、デスクトップ上を見渡すと、丁寧にもREAD MEが置かれていた。
記憶再現のやり方は至極簡単な物だった。彼が構築したシステムによれば、あとはクリック数回を行うだけで容易く彼の記憶を覗き見ることができる。あとは、それを見るための、付属するVRゴーグルはと辺りを見渡してみると、そこには彼が平時かけていたメガネが置いてあった。まさか、とそう思いつつも、試しにそれをかけてみると、メガネからは映像が網膜照射され、仮想現実の世界が、二十年かけて構築された彼の記憶の世界が、眼前に映し出された。
〇
目の間にあるのは、先ほどまでと変わらない光景。……いや、良く観察すると違う。先ほどまで埃をかぶって散らかって机上が、物の見事に整理整頓されている。VR空間で再現されているのは、どうやらかつてのこの家のようだった。
VR空間は家のサイズそのままを再現しきっていた。故に他の部屋の様子を見るためには、自分自身がその部屋に移動する必要があるようだった。ふと窓の外を眺めると、そこにはノイズが入った窓景が映し出される。どうやら、この記憶が保持しているのは、この家の中だけのようだ。
部屋を出て、男の姿を探す。男の記憶の中なのだ。他の住人はさておき、彼がこの家のどこかに居ることは間違いないだろう。
ふと気になり、私は自身の部屋の扉を開け、覗き込んだ。そこにはノイズがかかった光景が広がる。ああ、ここも、彼の記憶の外の空間だということだろう。彼は私が部屋をどのように使っていたか、知りもしていなかったのだ。それほどまでに、私に対して無関心だったのだろう。
次いでリビングに戻ると、そこには食卓に腰をかける男の姿があった。私が知っている彼の姿。彼はあの頃と同じ構えでコーヒーを啜り、新聞を読んでいた。その正面に座るのは、若かりし頃の母の姿。彼女は何も言わず、男の姿をただじっと眺めている。
やがて玄関の外から大きな声で「ただいまー!」と聞こえて来た。そのすぐ後に続いて来る軽やかな足音、ランドセルを廊下に放り出し、扉を勢いよく開ける姿。後ろから見ていても分かる、小学生の頃の私であった。
「あ、パパだ!」少女は彼の姿を認めると、擦りように近づいていく。「ねえ、今日はすごいんだよ。テスト、満点三つも取ってきちゃったんだよ」
少女が嬉々とした声で男にそう言うと、彼はおもむろに立ち上がり、少女の頭を数度撫で上げてから、そのままの足で階段の上へと上がっていった。彼はその間、僅かにでも口角を上げることはなかった。
〇
次いで移り変わる記憶。一転、リビングは知らない内装と化す。食卓には椅子が一つだけ置かれ、例の赤いソファの代わりには、黒い革張りのソファが置かれている。私は男の姿を探した。見つけるのは容易かった。家の中には知らない女の喘ぎ声が響き渡っていたからだ。声を辿るようにしてバスルームまで足を運ぶと、互いの体を貪り合う男女の姿があった。男の方は言うまでもない。女の方は……。声に聞き覚えがなかった通り、やはり知らない人物であった。
〇
真暗な部屋で、ただ一人泣きじゃくる男。食卓に置かれた椅子にも、赤いソファにも、家族の姿はない。家は暗闇に包まれている。指の隙間からうかがえる彼の顔は、心なしか私が知る彼よりも更けている。
〇
少女は母親に手を引かれ、家を後にする。男はその様子を自室の窓から眺めている。少女は大きな荷物を抱える母を見て、心なしか喜んでいるように見える。おおよそ、旅行にでも行くと考えているのだろう。やがて少女は家の方を振り返り、何やらこちらを呼ぶようなしぐさで手を振る。その声は届くことはないが、なんと言っているか、私は知っている。
〇
二人目の女。黒いソファを派手に汚しては男に追い出される。
〇
続く三人目とは幾度か関係を持ったようであるが、やがて相手が飽きてしまったのか、それ以降家には来なくなった。
〇
ベビーベッドで泣きわめく赤子の横で、男は一人佇み、彼女の髪を撫でている。無理に泣き止ませようとせず、また放置することもせず。彼はきっと、赤子は母親が居なくては泣き止まないことを知っているのだろう。時折窓の外を眺めては、車が帰って来るのを待っているようだ。やがて男は下手な歌声で子守唄を唄うも、赤子はさらに鳴き声を強める。
〇
何人目だろうか。数えるのはもうやめた。しかし誰もかれも酒臭く、翌日には澄ました顔で家を去る。そのほとんどが二度は来ない。
〇
少女が積み木を組み立てる様子を、男と母が微笑み合いながら眺めている。少女はまだ言葉を発することはない。覚束ない手先で四角柱の上に円錐形を乗せると、男は感嘆の声を上げた。
「ああ、どうすれば組めるのか分かるのか」
男があまりにもしげしげと眺めていると、少女はその様子に気付いたのか、はたまた偶然か、左手に持っていた赤い球を男に手渡そうとする。
「ほら、あなた、くれるって」
母はすかさずそう声をかけるも、男は「あ、ああ……」と戸惑ったような声を上げて、部屋を去る。
〇
ある大雨の日、男は女性に抱えられて家へ帰って来た。いつもは女の方が酷く酔っぱらっているのに、その日は男がまるでへべれけで、足元すら覚束ないようだった。
「はぁ、これで良い? 私、もう帰るけど」
女は雨に濡れた前髪を掻き上げながらそう言う。
「ま、待って、気持ち悪い」
「勝手にトイレにでも行けば良いじゃない」
「はぁ、はぁ」
男は口に手を当て苦しそうに呼吸を繰り返す。
女はその様子を見て、飽きれたようにため息をつきながらも、男に肩を貸してトイレへと運ぶ。便器にたどり着いた途端、男は酒臭さにまみれた吐瀉物をまき散らす。女はそれに顔をしかめることもせず、ただ彼の背中をさすり続けていた。
「はぁ、はぁ、なあ」
「……何?」
女は髪を耳にかけ答える。つけていた黒いピアスが鈍く光を放つ。
「はぁ、どうせ君も、この家を去っていくのだろう?」
「まあきっと、朝までにはね」
女の返事に、男は嘔吐で答える。目には苦しさのあまりか、雫がうるんでいた。
「うぇ、た、たのむ、もう少しだけいて」
「ええ? うーん、まあ、雨が止むまでなら」
幸いにも、梅雨時の豪雨は、その後数日続いた。
〇
生後間もない赤子の世話に、夫婦二人が交代で睡眠時間を確保しながら、介抱していた。いくら抱きかかえても泣き止まない赤子に、男は赤子の耳元にそっと口を寄せ呟く。
「苦しかろう、苦しかろう」
そんなことを言っても、赤子が泣き止むことなどない。
「すまない、僕の所為だ。すまない」
うわ言のように男はそう繰り返す。
〇
男はまた別の女を連れ込んだ。その女はもはや意識を失っていて、体の力は完全に抜け落ちていた。男はそれにかこつけて彼女の服を脱がし、乱雑な前戯の後に己の物を差し入れた。
数か月後、女はこの家に住むこととなった。その顔にはよく見覚えがあった。
〇
部屋の内装がこれまでにない様相をしている。赤や黒のソファはおろか、フローリングだったはずのリビングは畳となっている。窓の外は暗闇で、時計に目を向けると深夜の十二時を回ろうとしている。そのただ中、少年が一人、部屋の中心で、一心不乱にチラシの裏に何かを書き込んでいる。それが何なのか、涙で滲んだ文字を判別することはできない。
〇
「……なあ、待ってくれよ」
黒いソファに腰かけた男が、声を絞り出すようにしてそう言う。
「……何?」
女は前髪を掻き上げながらそう言う。
「何じゃなくて」と男は続ける。「もう少しいても良いじゃないか」
「言ったじゃん。雨が止むまでだって」
「そんなの、覚えちゃいないよ」
「でも、別にこれ以上、ここに居るつもりもないし」女は髪を耳に掛けながら、リビングの戸を開ける。「じゃ、元気でね」
去り際に、彼女のピアスが黒く光る。
〇
寝静まった赤子に対し、男はその横顔を眺めている。赤子の頬を指先でつつきながら、彼女が立てる寝息に微笑みを浮かべる。
「……僕は、君を愛せるのだろうか」
消え入るような声でそう呟く。彼は指先を頬から滑らせ、こめかみを一度撫でてから、やがて人差し指を赤子の耳たぶへと侍らせた。
〇
薄暗い部屋の中、老いた男は独り、天井を見つめている。己が死期を悟っているかのように両手は胸の前で組み、しかしその視線だけははっきりと、平時かけているメガネの奥を見つめている。彼のその完全の光景には何が映されているのだろうか。その内容を、私が知る由はない。
〇
これが最古の記憶であり、最後の記憶なのだろう。暗い部屋の中、少年は膝を抱えてうずくまっている。夏の夜だというのに、隙間から入り込む風は妙に冷たい。他の風が当たらない部屋に行けば体を温められるのに、彼がこの部屋を離れないのは、きっとそこがもっとも市道に近い場所だからなのだろう。古びた扉の内側にあるその二階の部屋は、静けさに満ちている。彼は眠気のために顔を伏せながらも、その耳は遠くの音を聞き逃さんとしている。
……私は、彼に愛されていないことを知っている。それゆえに、私たちは彼に捨てられたのだということも。彼が費やした二十年は、研究のために捧げられたのではなく、ただ私情のために費やされたのだということも。
しかし、この矮小な少年が、僅かばかりの温もりを受けられていたのなら……。などと、そんな無意味な創造など、ふくらますだけ無駄なのだろう。外は静けさに包まれ、セミの声が無為に響き渡る。夏の夜は、少年の肌にはあまりに寒かろう。
私は「愛してなどいない」その少年の亡霊を、後ろからそっと抱きしめた。これはきっと、同情でしかない。雨の日に一時の優しさを振りまいて、そして去って行ったあの女と同じ。しかしそれでも、私は少年の肌を温めた。例え、一時の気の迷いだとしても。
〇
全てが終わり、私はVRメガネを外した。そこには何も変わらない風景がただ広がっていた。埃まみれの部屋、遠い国道を走るトラックの音が、残響のように鳴り響く。外は夕暮れに包まれ、部屋はすっかり暗くなっていた。
私は足元に散らばった写真の断片に目を向けた。あるいはそれは、ただの意味のない紙片でしかないだろう。いや、それ以上の意味を持ってなど行けないはずだ。しかし人は時として、そういった意味のないものに対して縋りたくなるときがあるのかもしれない。私は散らばった写真を拾い上げ、ジグソーパズルを組むようにそれを並べた。最後のピースである顔をはめ込むと、メガネの奥からは気難しそうに目をほそめる父の姿があった。