痴漢
「今日も遅くなっちゃったな」
いつもの会社からの帰り道には暗い街灯が数えるほどあるだけで、心細くなる。私はコートの前をぎゅっと握りしめて、何が出て来ても身を守れるような気持ちだけ固めて、それでいてなるべく周りを見ないようにしながら、家路を急いでいた。
ヒールの音がコンクリートの地面にコツコツと鳴る。小さな音が大きく響き渡るように感じられる夜だった。月が不気味に赤い。静かなスーパーマーケットの横の小径を歩いている時、後ろから追いついて来る靴音に気づいた。
こわごわ振り向いて確かめると、私とそう変わらない体格の細身の男性の影が、赤い月の下にチラリと見えた。見たくないのですぐに前を向いた。私が思わず小走りになると、その男性も小走りになったような気がした。
家までもう5分もない距離だ。早く帰ろう。急げば何事もない。
そう思って私は駆け出した。すると男性も音を立てて駆け出し、追いかけて来た。
口から自分のものではないような声が出た。絞め殺される子犬のような声を上げながら、肩から下げていたバッグを振り回して虚空を攻撃しながら逃げた。男性の足は速かった。後ろからみるみる足音が近づいて来ると、肩を掴まれ、私の身体は強引に、暗い路地裏のほうへ左に曲がらされた。
声が出せなかった。
ひきつるような息を喉の奥から漏らしながら、強い力で金網に前から押しつけられていた。
男の顔はまったく見えなかった。その腕がすぐに前に回り込んで来て、私は後ろからきつく抱きしめられた。
自分の人生が終わった気がした。
自分は今から人間ではなくなり、雑巾バケツに突っ込まれてから引き上げられたような、後戻りの出来ない汚れを身に纏わされるのだという気がした。
男の荒い吐息が首の後ろで聞こえていた。肉食獣に捕えられたインパラはこんな気持ちなのだろうかという気がした。私は観念していた。
男の腕が離れた。
意外な行動に私が振り返ると、全力疾走で逃げて行く男の後ろ姿があった。はっきり見えたのは赤い月明かりだけで、男のかたちはすぐに闇に紛れてしまった。もしかして知っている人なのかどうかも確かめようがなかった。
なぜ?
もしかして、期待していたより胸がなかったから?
助かったのに、なぜか私はそこに取り残されたような気持ちがしていた。