第3章・北斗星
義経は鎌倉の追っ手を逃れ、日高見国の支援をうけて伊勢から奥美濃、日本海航路を経て奥州平泉へ帰還する。やがて義経の消息は頼朝の知るところとなり、鎌倉と日高見国の間の緊張が高まってゆく。
第2章・吉野静<4>
義経は、朝日をうけて朱色に輝く空を眺めて
いた。朱色が、壇ノ浦を染めた夕陽と重なって
見えた。痛切に悲しい朱色だった。
「殿。御心中御察し申し上げまする。」
息を切らした弁慶が、義経の脇に立っていた。
兄・頼朝が、弟を亡き者にすべく土佐房を
差し向けたという現実に、義経は晒されて
いた。
「かくなる上は、伊予を足場と成して西国を
束ね、東国に抗すべきと存じまする。」
弁慶が、かねてよりの思いを進言した。
「うむ。」
義経は、同意とも不同意ともつかぬ、
生煮えの返事をした。
「のう、弁慶。」
「はっ。」
「戦さの後というのは、なぜいつも心に
虚しき風が吹き過ぎるのであろう。われも
吾主も、修羅に生くるが宿命なるや。」
義経は暗い目をしたまま、鴨川の流れを
見つめていた。弁慶は返答に迷った。西国
に下れば、さらなる戦さが待ち受けている。
「それがしは五十路も近く、ひと戦さで息
が弾みまする。田畑と共に、穏やかに生くる
もよいと思える年にござりまする。」
「うむ。されど京に在っては、その暮らし
も叶うまい。西国なれば、良き隠れ里など
在るやもしれぬ。」
義経は西国に下る事を決した。だが義経
の心中に野望の炎は燃えておらず、兄との
戦さを回避したいという願いだけがあった。
義経一行の西国下りに際し、船と荷駄の
差配は吉次が請け負った。瀬戸内の湊には、
まだ日高見の唐船は一隻もなく、馬を積める
和船の数も少なかった。それでも何とか二隻
の荷駄船を調達し、大物浦(だいもつのうら・
兵庫県尼崎市)に投錨させた。
京の都に比叡おろしの冷たい風が吹き抜け、
小雪舞う頃、義経一行は六条堀川の館を出立
した。正室・妙と、大納言時忠の娘や
静ら十二人の側室を牛車に乗せ、自らは赤地
錦の直垂に萌黄おどし縅の大鎧を
着て、愛馬「青海波」に跨って、朝もやの中
を粛々と進んだ。
道々、摂津・和泉・河内の源氏武者が五騎、
六騎と供に加わり、大物浦が近づく頃には、
その数二百騎あまりになっていた。
同じ頃鎌倉からは、北条時政率いる義経
追討勢が、京に向かっていた。畠山重忠や
小山朝政らが渋々加わったものの、その数は
五十騎あまり。侍所の別当・和田義盛が、
病と称して出陣を拒むなど、誰もが戦神と
しての義経を恐れていた。義経の戦闘能力
を最も恐れていたのは、頼朝自身であった
のだが。
大物浦に着くと、二百騎は伊勢義盛、
佐藤忠信が率いて陸路を行き、荷駄は
二船に積み分けられた。
「造りの甘い船じゃな。」
竹網代帆の荷駄船を見ながら、矢車が
呟いた。矢車は、側室たちの侍女に化け
ていた。
日高見の唐船はいずれも、大波や岩礁、
大魚やいるか海豚の激突など、荒い外洋
航海に耐えられるように、船体が二重・
三重張りになっている。船内も十数室の
隔壁に分かれ、一室が破損して浸水して
も、他室までは及ばぬように工夫されて
いた。
だが目の前の和船は、船体が一重で
船内隔壁も四区画と、強い横波でも来
ればすぐに浸水沈没してしまいそうな
造りになっていた。波穏やかな瀬戸内
ならではの船だった。
二日後の朝、二隻の荷駄船は伊予を
目指して船出した。青空は澄み、風は
少し肌寒かった。穏やかな波間を、船
はゆるゆると進んだ。第一船には義経
と弁慶、女たちが乗り、吉次が船長と
して水夫たちを差配していた。
義経と弁慶は甲板に立ち、遠望する
六甲の山並みを見ていた。
「あの折は、思い返しても冷や汗ものに
ござりました。今でも夢でうなされ
まする。」
弁慶は一の谷合戦の逆落としを語った。
「我とて同じよ。合戦の際は、生死も
恐れも超えるものらしい。」
弁慶がふと右舷の六甲山系から目を
転じ、船首前方を見ると、明石瀬戸
あたりの空に黒雲が広がっていた。風が
船を推し戻そうと、向かい風となって
吹いていた。
「なんの。逆風にても船は進みまする。」
弁慶は、ふとよぎった不安を打ち消す
ように言った。
船の舵師は、取舵をいっぱいに切り、
向かい風を避けた。水夫たちは満帆
の帆を引き綱で操った。船師の嘉平次は、
黒雲と風の具合、明石瀬戸の潮の流れを
鑑みて、福原湊(神戸港)へ避難したいと、
船長の吉次に告げた。
「それでよろしかろう。」
吉次は義経の許しを得て、船を福原に
向かわせた。だが黒雲と風は、たちまち
のうちに押し寄せ、波が高くうねり、
雨も降り出してきた。船師の喜平次すら
予期せぬ事態だった。
「嵐が来る。急げや。」
吉次は声を枯らして、水夫たちを促した。
やがて風雨が強まり、船は大波に揉まれ、
前後左右に大きく揺れた。滝の如く降る雨
と海水が、甲板を洗い続けた。妙や公家の
側室たちは、初めて味わう嵐の恐怖に生きた
心地もなく身を縮ませ、叫ぶ声すらあげら
れずに震えていた。
船板の軋む音が、低く不気味に響いて
いた。
「帆を畳め。主帆柱が折れる。疾く・・・」
喜平次が主帆柱にしがみついている水夫
たちに叫んだ時、主帆柱が悲鳴の如き轟音
と共に二つに折れ、同時に襲った横波が、
喜平次と水夫たちを海中に呑み込んだ。
折れた主帆柱は右舷船腹に突き刺さり、
その穴から船底に海水が侵入した。
甲板船室の吉次や義経、弁慶も柱に
しがみついて、我が身を保つのがやっとの
状態だった。もはや、船がどこに流されて
ゆくのか、まったくわからなかった。
「知盛・・・教経・・・」
義経が低く呟いた。
「怨霊ぞ。平家の怨霊の仕業なるぞ。」
義経がそう言って腰の太刀に手をかけた
時、船体が大きく右に傾き、義経・弁慶・
吉次の三人は海に投げ出された。船底にも
海水が満ち、女たちが短い絶叫の後、次々
に溺れていった。
矢車は、静を背負って傾いだ梯子を上り、
甲板の蓋を開け、そのまま海へ飛び込んだ。
矢車は海上を漂う主帆柱を目指して、静を
抱えたまま泳ぎ続けた。
矢車は、主帆柱にしがみつく、義経・弁慶・
吉次の姿を見た。すぐ近くにいるのだが、
さしもの矢車でさえ容易に泳ぎつけずにいた。
弁慶が矢車と静を救うべく泳ぎ出た。
「静。死ぬる時は共に死のうぞ。」
ぐったりとしたまま主帆柱にしがみつく静に、
義経は呼びかけた。暗い荒海の中、主帆柱は
五人の命を乗せて漂っていた。
主帆柱は、葦の原に流れ着いた。
「ここは?」
矢車がよろけながら立ち上がり、辺りを
見回した。日暮れ前の薄闇の中、雨は降り
続いていた。葦の原の彼方に、水墨画の
如き寺の塔がぼんやりと見えた。
大物浦の沖から東に流された事から、
摂津国渡辺の浦(大阪湾)辺りかと矢車は
見当をつけた。濡れた衣が重く、体の熱
を奪っていた。矢車は生きていた事を
感じるのと同時に、全身から力が抜け、
寒さに身を震わせた。
少し離れた所に、弁慶が倒れていた。
その先には、義経が静を抱いたまま
倒れており、吉次の姿は見当たらな
かった。矢車は弁慶の肩を揺すり、声
をかけた。
「おお・・・生きておった・・・」
弁慶が気を取り戻し、矢車にここが
どこかを問うた。
「おそらくは、摂津・渡辺の浦辺りかと。」
弁慶は葦の原を眺め回した。言われてみる
と、屋島の合戦に出向く際、このような所
を通ったような気もした。
「するとあの寺は・・・四天王寺・・・」
弁慶は思わず、仏の加護に感謝した。
四天王寺は聖徳太子の命により建立された
寺で、療病院・施薬院・悲田院・敬田院と
いう、貧しき者に医薬や食を施す救済施設を
備えていた。今も聖徳太子を尊崇する僧たち
によって、その活動が続けられているはず
だった。
弁慶は寺に向かって合掌した後、義経と
静を助け起こした。義経は髪の束ねが解け、
大童になっていた。義経は
ぐったりしたままの静を背負い、弁慶と
矢車に両脇を支えられながら、黙って
四天王寺に向かって歩んだ。
ぬかるみに足をとられ、難渋した重い
歩みが半刻ほど続いた。
「我ら嵐に遭いて船が大破し、海に呑まれ
かの地に流れ着き申した。」
弁慶は寺の小僧に向かい、一夜の宿を
願った。幽鬼の如き四人の形相に驚いた
小僧は、返事もせずに寺内に駆け込んで
いった。
やがて小僧は、老僧と共に現れた。
赤地錦の直垂を着た貴人に、僧兵姿の
大男。髪をおどろに乱した二人の女。
異様な取り合わせだった。だが老僧は
驚きもせず、真っ先に義経の背にもたれ
かかっている静に近づき、額に手を
当てた。
「これはいかん。ひどい熱じゃ。疾く、
施薬院に参られませ。」
老僧はそれだけを言うと、四人を施薬院
へと先導した。
「乾いた衣と水。それとにら韮がゆ粥を
な。火鉢に炭じゃ。」
老僧は作務衣姿で働く僧たちに、
次々に用事を言いつけた。
四人は施薬院の一室に導かれ、衣服を
改めた。清水を飲み、ようやく生き
返った心地となった。
「御坊。御尊名をお聞かせ給え。」
弁慶が老僧に問うた。
「名など空名。」
「そこを曲げて。」
「慈雲。典薬僧じゃ。」
四天王寺は天台宗の寺である。慈雲と
いう名に、矢車はもしやと思った。
「慈雲殿とは、中尊寺の・・・」
「ほう、奇なる哉。そなたは平泉の者
なるや。」
「いかにも。中尊寺北方鎮守、白山神社
に仕える巫女にて、矢車と申しまする。」
矢車は自らの正体を明かし、慈雲をまじ
まじと見つめた。いつだったか、慈海が師
と仰ぐ高徳僧の話を聞いた事がある。秀衡
に進言して平泉に施薬院を開き、薬草園を
設けて貴賎の別なく施療を行なっていると
いう話だった。
慈雲と矢車の話を聞き、義経と弁慶も
心中の刃を鞘に収めた。もし
寺が鎌倉方に通じていれば、京・六波羅の
北条時政の手勢によって、明日にも寺が
囲まれる事になる。
「全ては御仏の導きと申すもの。」
慈雲はそう言って笑った。
「今宵は存分に眠りなされ。全ては明日の
事となされよ。」
慈雲は静に薬湯を与え、三人に
韮粥を勧めた。
その夜は皆、泥の如く眠った。義経は片時
も静の側から離れなかった。
(天上の一つの魂が地上で二つに分かれ、
再びめぐり逢うたようじゃ。)
矢車は、義経と静を観ていて、そのように
思わずにはいられなかった。
翌朝。義経が目覚めると、静は安らいだ様子
で眠っていた。額に手を当てると、熱は引いて
いるかと思われた。宿房の外には、大勢の人の
気配がした。戸を開けると、まぶしい光が射し
込んだ。
外庭では、紺の作務衣を着た僧に混じって、
白の単衣を着た者たちが多く働いて
いた。女や子供、老婆の姿もあった。井戸の
水を汲む者、乾いた薬草を運ぶ者、衣を足で
踏み洗う者、赤子に乳を与える女など、さま
ざまだった。誰の顔も一様に朝日の中で輝き、
喜びに満ちている風だった。
義経は井戸に出て水を飲み、その先の広々
とした薬草園を眺めた。慈雲が二人の若い僧
を連れ、園内を見回っていた。
「よう眠れましたかな。」
慈雲は義経に近寄り、そう声をかけた。
義経は改めて礼を述べた。
「ここは駆け込み寺でしてな。」
慈雲は、薬草園と働く者たちを半々に
見ながら言った。
「戦乱で家を焼かれ、傷つき、野盗に
親や夫を殺され、飢えに苦しみ、病に
侵された者たちが、一縷の救いを求め、
仏縁に導かれて訪れまする。」
慈雲は独り言の如くに語った。
「ここでは名も問わず、昔の事も問い
ませぬ。野盗に身を投じ、殺し、犯し、
盗み働きを成した者もおりまする。」
「御坊は菩薩にあらせられる。」
「人は皆、万境にしたが随って転ずる者。
されど人は皆、仏性を深く秘めて生まれ
たる者。仏性を覆う曇りを払えば、おの
ずから照り輝きましょう。」
義経はかつて秀衡から、同様の言葉を
聞いた事があった。
「御坊。御仏とはいかなるものなるや。」
「そうさなあ。あの草かのお。」
慈雲はそう言って、薬草園を指差した。
「愚僧の生国・日高見は、砂金がよう採れ
まする。その砂金を船に積み、万里の波涛
を渡り、宋国にて仏典や医薬書などを求め
ますのじゃ。経も書も、用いる人無くば、
薬の効能書きの如きもの。書は薬に変じ、
草を人が用いて、始めて人の命が救われる
というもの。」
義経は自らを省みて恥じた。秀衡に
会いながら、秀衡を観ていなかった。
慈海に会いながら、慈海を観ていな
かった。戦さの事のみを念じ、戦さ
に明け暮れてきた。人を殺め、家を
焼き、勝ち戦さのみを神仏に願って
きた。
その結果、平家の怨霊に西国行き
を封じられ、かの寺に漂着した。
「勝ちて奢るも、負けて恨むも、やがて
は過ぎ去るものにて候や。」
「左様。恨みも怒りも妬みも、仏性を
覆う黒雲の如きもの。昨夜の嵐も、今日
は青空に変じておりましょう。晴れて
よし。曇りてもまたよし。」
慈雲はカラカラと笑いながら、義経
と共に宿房に戻り、静を見舞った。
弁慶も矢車も晴れ晴れとした様子で、
身支度を整えていた。
「早速に旅立たれまするかな。」
慈雲が問うた。
「御坊。かの女性は、
いかがにて候や。」
弁慶が静の容態を問うた。
「熱は引いたが、あまり無理はなさらぬ
事じゃ。腹の御子の為にものお。」
義経と弁慶が、驚いて静を見た。
「真実か。」
義経の問いに、静は黙ってうなずいた。
慈雲は再び、独り言を語るが如く話し
始めた。
「昨夜の嵐で近くの浜に、船の残骸やら
溺れた者の亡骸が流れ着きましての。
ここの寺からも、多くの者が出張って
行きました。愚僧としては、旅立ちを
引き止めたい所なのじゃが、人の口に
戸は立てられぬもの。噂は今日、明日
にも京まで届きましょう。」
慈雲はそう言ってから急に、平泉の
話を始めた。
「愚僧が長年居りました、天台宗の
中尊寺はのう・・・」
慈雲はそこで少し間を置いて、弁慶を
じっと見た。
「よろしいか。中尊寺は天台の寺ですぞ。」
弁慶ははっとして慈雲を見た。
「中尊寺には、比叡山延暦寺より分灯
された、不滅の法灯が燃えておりまする。
奥御館・清衡公以来百年余、比叡山に
学びし中尊寺の僧、数知れず。」
弁慶は慈雲の謎を見抜き、畏まった。
慈雲は次に、矢車を見ながら、
「平泉には、東西南北に鎮守の社
(やしろ)在り。」
と語った。
「南方には、矢車仕えし白山神社と共に、
日吉神社在り。比叡山坂本の日吉神社と
深く関わりまする。」
矢車も日高見の耳目衆の居場所を示す、
慈雲の意図を察した。
「されど、天台の教学では足らぬと申す
僧もおりましてな。そうした者は南都
(奈良)東大寺にて華厳を学びまする。」
弁慶は日高見の者が、いかに深く畿内
に根を張っているかに感嘆した。
「南都といえば、興福寺は藤原氏の氏寺。
蝦夷よ化外よと蔑みの目がある
とは申せ、秀衡公は鎮守府将軍・陸奥守
たる藤原氏族。日高見ゆかりの僧・仏師、
数多し。」
慈雲ですら、畿内の日高見を語るのには
骨が折れた。
「旅の御方。」
と、慈雲は義経に語りかけた。
「秀衡公が建立された平泉の無量光院は、
宇治の平等院を模して造ったというを御存知
かな。」
義経は首を横に振った。
「宇治にも、腕の良い仏師が多く住まい
いたす。」
慈雲はそう言いながら、懐から書状を取り
出し、義経に手渡した。
「愚僧も老いましてな。身は畿内にあり
ながら、とんと無沙汰ばかり。書面に愚僧
が関わりし寺と僧名を記しましたのでな。
もし南都、高野山、宇治、比叡山など訪
(おとな)う事あらば、愚僧はまだ生きて
いるとでも言付け願えませぬかな。」
義経は慈雲の温情に接して目を潤ませ、
書状を押し頂いた。弁慶はすでにすすり
泣いていた。
「この後は寒気も増し、雪も降りましょう。
されど、寺社神域は俗人の関わりを離れたる
所ゆえ、ゆるりと神仏を思うには良き所。」
義経は、春風にも似た慈雲の、優しい
まなざしに語りかけた。
「我が身はすでに、嵐の海へと没し去り
申した。ここに在るは、迷いの求法者
にて候。」
「死せる者こそ、真の仏を生くる者。
無我の眼開かば、この世も違って観え
てまいりましょう。良き旅をの。」
矢車は慈雲から預かった別の書状を懐に、
和泉国・堺で寺の縄張りを行なっている
慈海のもとに向かい、義経・弁慶・静の
三人は、その日のうちに生駒の峠を越え、
奈良東大寺の施薬院を宿とした。
東大寺施薬院は、藤原氏の祖・中臣鎌足
の孫であり、聖武天皇の后である光明皇后
の請願によって設けられ、病に苦しむ者を
手厚く保護した。
遠き天平の昔、聖武天皇の勅命によって
東大寺と廬遮那仏が造営され、
大仏は日高見産の黄金で輝いていた。だが
義経が見た大仏殿は、源平争乱の戦火に
よって焼け落ち、黒く煤けた大仏が剥き
出しのまま風雨に晒されていた。
「無残な。」
義経は大仏殿を前に、うめくように
呟いた。そして、戦乱の愚を思った。
源三位頼政が死んだ。木曾義仲が死んだ。
中納言知盛が死んだ。数多くの源平の
武者が死んだ。名もなき民の家が焼かれ、
田畑が荒らされた。
「われが今まで成したるは、ただそれ
だけの事にすぎなかった。」
施薬院の宿房で、義経は慈雲の温情を
思い、秀衡の仏心立国を思い、聖武天皇
や光明皇后の聖願を思った。仏の慈悲を
この世に生かす願いが観えた。
義経は、大仏殿再建のために働く番匠
(ばんしょう・大工)の槌音に安堵した。
「重源なる老僧。大仏殿の柱は周防国
より切り出し、帰国を待つ宋国の仏師
を招くなど、なかなかの働きにござり
まする。大仏再建の勧進には、やはり
秀衡公が深く関わっておられまする。」
弁慶は、僧たちから聞き出した話を、
義経に語った。
「これより何処へ参られまするや。」
弁慶が問うた。奈良で道は南北に分かれる。
北へ向かえば宇治から近江、比叡山へ通じ、
南は吉野、高野の山塊へ至る。
「うむ。」
義経はそう言ったまま、しばらく黙り
込んだ。
「静。そちはこれより、京の母御前のもと
へ参られよ。」
義経は脇に座す静に言った。静は道すがら、
その言葉をある程度予期していた。
「女の身なるがゆえ、判官様の道中を妨げ
、煩わす事は重々承知しておりまする。
されど判官様とお別れするは、身を裂かるる
思いにて、辛うござりまする。」
義経は、細い静の体を抱き寄せた。
「それは我とても同じ事。されどそなたは
、これより子を産まねばならぬ。我がこれ
より何処へ参ろうとも、寺社にてはその
願い叶わぬが道理。聞き分けてくりゃれ。」
静は義経の懐に顔を埋め、首を振るばかり
だった。
やがて静は、懐から顔を離して義経を
見上げた。
「せめてただ一度、静の望みをお聞き届け
願わしゅうござりまする。」
「何ぞ。申してみよ。」
「歌枕に名高き、吉野のお山が見とうござり
まする。」
「吉野とな。」
「あい。吉野に咲く桜を、判官様と共に今生
(こんじょう)の花と成し、苦き浮世を生くる
糧と成しとう存じまする。」
「されど、今は冬。」
「静には、今が花の季節。」
静は一途に、義経だけを見つめていた。
あおによし奈良の都は、天平の昔と変わらぬ、
ゆるゆるとした時が流れていた。戦乱も嵐も、
遠き日の出来事かと思わせた。
義経は静と共に、柔らかな陽だまりが
降りそそぐ寺域を散策した。鹿と戯れる静は、
女童の如くよく笑った。鏡池の水面
を見つめ、憂いに沈む静には、清艶な女の情念
が揺らいでいた。
奈良に二日。飛鳥路で五日の時を過ごした。
静にとって、そこは歌枕の古里であり、義経
との蜜月の時でもあった。明日香の里で望月
となり、静は月光の下で舞った。清明な舞い
であった。
(満ちれば欠くるが月のさだめ・・・)
明日香の里からは、吉野の山並みが見えて
いた。春になれば、全山三万本の山桜が咲き
競い、艶やかな夢幻の色香が、人を極楽浄土
へと誘う花の古里。
だが静の見た吉野の山は、雪化粧に白く
染まっていた。義経は、静との別れを切り
出せぬまま、高取山の峠を越え、千股、上市
へと歩みを進めた。
「殿。未練にござりまする。」
弁慶は哀切の情を絶ち、義経をいさ諌めた。
静は地蔵堂の中で、月光に包まれて眠っていた。
義経はそっと静から離れた。
「許せ。」
義経は懐から名笛「薄墨」を取り出し、静の
胸元に乗せた。義経と弁慶はそっと地蔵堂を
抜け出し、女人禁制の吉野山中に分け入った。
明け方近く、静は寒気に震え、目を覚ました。
堂内に義経と弁慶の姿はなかった。
「判官様・・・」
静は、義経が片時も離さなかった薄墨を見て、
すぐに義経の意図を察した。
それでも静は、義経の跡を追った。無人の
山野の寂しさに耐え、狂おしく義経の名を
呼びながら、吉野の山道を登っていった。
途中小雪が舞い、やがて白い闇に閉ざされた。
雪中に凍え、もはやこれまでかと思い定めた
時、遠くに人の気配を感じた。
「判官様・・・」
静は義経の幻を求め、雪中を這った。静は
吉野の修験者・道徳と行徳によって救い
出され、金峰山寺蔵王堂
へと運ばれた。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3章・北斗星<1>
年が改まった文治二年正月。京の首途
神社には、藤原秀遠と神官らの他に、
勧進聖の慈海・禅海・仏哲、琵琶法師の
月照、白拍子の山吹、そして矢車が顔を
揃えていた。他にも、公家や六波羅の館
を探る日高見の耳目衆も集まっていた。
この頃京には、義経追討軍を率いて
上洛した北条時政が、そまま京守護職
の任に就き、頼朝の名代として豪腕ぶり
を発揮していた。時政に課せられた
最大の使命は、後白河法皇の認可を得て、
全国に守護・地頭を設置する権限を有する
ことにあった。
座を束ねる秀遠は、真っ先にこの話題
を取り上げた。
「院はこの件に関し、何と申しておる。」
と、山吹に問うた。
「鎌倉は出過ぎると。」
「さもあろう。事は律令の政
の基に関わる。院は許すまい。」
いかに朝廷が儀礼祭式の場と化し、律令
の機能が衰えたとはいえ、番犬に類する
武家が、任官の権能を有するなどという
思い上がりを、後白河法皇が認めるはず
がない。
「されど、許されねば鎌倉が困るで
あろう。」
秀遠は、頼朝の立場になって考えた。
坂東武者は、土地という恩賞の為に、
おのが命と一族の命運を賭けて働き、
頼朝を支えている。守護・地頭の権能
を抑えられれば、与えるべき土地が
激減する事になる。坂東武者は不満を
募らせて頼朝を見限り、鎌倉は自滅
する。
頼朝は、鎌倉を支持する九条兼実を
残し、高階泰津経、平親宗、藤原光雅
ら反鎌倉勢力を追放して、後白河法皇
に許可を迫った。
「頼朝に言わせると、後白河法皇は
大和一の大天狗だとか。」
山吹が笑いながら言った。
「伊豆の古狸では、大天狗に勝てぬか。」
秀遠が苦笑して応じた。
「認められれば、頼朝は陸奥にも守護・
地頭を置く事を求めてまいりましょう。」
と、慈海が口を開いた。
「認められねば。」
秀遠が慈海に問うた。
「日高見の広大な土地を欲しましょう。」
「ふむ。いずれにしても日高見よの。」
「藤原盛実を陸奥守に任じたは、多賀城
(陸奥国府・宮城県多賀城市)に兵糧・武具
を蓄え、日高見を攻略する為の布石かと
心得まする。」
義経が西国の束ねと成らず、頼朝が
全国に権能を有する今となっては、
日高見との全面対決は避けて通れぬ事態
になっていた。むろん秀衡は、鎌倉にも
京・六波羅の北条にも、多額の砂金・絹・
馬を献上し、表向きは平穏な状態を保って
いた。
秀遠は、日高見追討の院宣を出させぬ
為の工夫について、神官・耳目衆と多く
語らった。
「律令を軽んずる頼朝が、院宣に従う
ものかどうか。頼朝の真の狙いは、京
の御所とも思えまする。」
頼朝ならばあるいは、朝廷を廃して
新たなる武家の世を興す胆かもしれぬ
と、慈海は観ていた。
「やい、勧進坊主。」
長々と続く政の話に矢車が苛立ち、慈海
に向かって吠えた。
「義経殿は何となさる。用無しと観て
見捨てる胆なるや。」
慈海は矢車を見て、穏やかに微笑んだ。
「義経殿が再び西国を望み、兄・頼朝
と戦う胆なれば、それもまたよろしか
ろう。されど義経殿は、戦さを忌み、
兄と戦うを是となさらず。吉野・高野
の山塊で自らを鍛え、仏法を行じ給う
者におわす。義経殿の道は、義経殿御
自身が決するもの。」
「されど、鎌倉に大罪人の如く追わるる
は、あまりにも理不尽。それに、静御前
が哀れじゃ。聞けば、北条古狸の館に
捕らわれているというではないか。あの
ように一途に義経殿を慕うておると申す
に。いっそ静御前を奪い去り、義経殿と
共に平泉に招いてはどうじゃ。」
慈海は困惑顔で矢車を見た。矢車は今
にも、六波羅の北条館に一人で討ち入り
そうな勢いだった。
「矢車。義経殿も弁慶殿も阿呆ではない。
その身を匿う事は即ち、鎌倉に対する
謀反になる事を、十分に承知しておら
れる。神社神域は名目上、鎌倉の権能
が及ばぬ聖域。ゆえにそこに隠れ、時
の移るを待つ胆なのじゃ。兄の怒りが
収まる事に、僅かな望みを繋いでのお。」
矢車は激情を静め、やり切れぬ思い
でため息をついた。
「ならば、日高見に義経殿を招くと言う
は、頼朝に日高見攻めの口実を与えると
いう事か。」
「うむ。されど御館は、それを承知の上
で否とは申されますまい。」
慈海は、それが日高見の情義なのだと、
矢車に言った。
「矢車はこれより、奥美濃の白山中居
(ちゅうきょう)神社に使いせよ。」
と、秀遠が矢車に命じた。
「奥美濃とは、何ぞ義経殿に関わる事で
ありましょうや。」
矢車は秀遠の唐突な命に、当惑気味に
問うた。
「白山中居神社の神職、祝部宗庸
(ほふりべむねつね)殿の旧姓は上杉で
してのお。御館の直臣・上杉武右衛門殿
の事じゃよ。」
「なんと。」
「あれは木曽義仲が義経殿に敗れ、討死に
した年の事であった。御館は白山権現の
本地仏として、虚空蔵菩薩座像の鋳造を、
仏師・康慶に命じられた。献納には、忠衡殿
の名代として、桜井平四郎正喜と上杉武右衛門
宗庸両名が、十一名の郎党と共に奥美濃に
向かった。宗庸殿は、神官・祝部政家殿の娘を
妻に迎え、祝部の姓を継いだと、まあこういう
わけじゃな。」
矢車は秀衡が、加賀国(石川県)中宮神社に
金銅仏を寄進した事は知っていた。しかし
奥美濃の事は初耳だった。
「矢車。奥美濃までの道筋は・・・」
と、慈海が懐から絵図を取り出して言った。
「近江坂本の日吉神社に立ち寄り、唐崎より舟
で鳰の海(琵琶湖)を渡り、米原の地より
天野川を上る。伊吹より西美濃に出て、谷汲
(たにぐみ)荘の華厳寺を訪ねよ。谷汲から東に
進み、長良川を上り、八幡、白鳥と行け。」
慈海は矢車に絵図を渡して、話を続けた。
「道々、川の水かさ、川舟の有無、鎌倉方の
動きを見よ。」
矢車は絵図を見ながら、目を潤ませていた。
「義経殿の事、御館は否とは申すまいが、
念のため仏哲殿が平泉に向かう。それに肝心
の義経殿が日高見行きを望まねば、奥美濃
への旅も無駄足となるやも知れぬぞ。」
秀遠はそう言いながら矢車に、秀衡が
祝部宗庸に宛てた書状、秀遠が坂本日吉
神社と谷汲華厳寺に宛てた書状を、矢車
に手渡した。
「それほどの深き配慮とも知らず・・・
矢車、恥じ入るばかりにござりまする。」
「奥美濃は雪深き所。いかに日高見の者
とは申せ、無理をせずゆるりと参られよ。」
秀遠と慈海は、義経が日高見へ渡る経路
を幾筋も考えた。矢車が向かう奥美濃は、
その中で最も安全と思われる道だった。
「白鳥で白山神社に詣でた後は、雪解けを
待ちて山を越え、庄川を舟で下りて越中の
海へと出て、京へと戻られませ。川湊と
舟の差配は、祝部殿が成そうほどに。」
矢車は畏まって役目を受けた。
「されど、ゆるりと時を移していて、
義経殿の身は保たれましょうや。」
矢車の問いを受け、秀遠は月照を見た。
「月照殿。六波羅の動向や、いかに。」
「左様。北条時政の手勢、いずれも良く
軍規に従い、精鋭でありましょう。中でも
政子の弟・義時は、若いながら抜け目なし。
時政が古狸なら、義時は鷹の如き男。
侮れませぬ。」
「ほう。古狸から鷹が生まれたとかや。」
頼朝の義弟、北条義時は、父・時政と
共に六波羅に在り、義経を執拗に追って
いた。
「かの生真面目なる北条勢を、この戯れ言
(ざれごと)天狗の月照が躍らせてみるのも
一興かと思いまする。」
「ほんに、月照殿の戯れ言には天狗も
かなわぬ・・」
と、山吹が笑った。
「月照殿の戯れ言にかかると、壇ノ浦で
義経殿はひらりひらりと宙を舞い、舟から
舟へ飛び移る。見てきたような戯れ言に、
都雀は義経殿を、真実鞍馬の天狗の使いぞ
と思う。」
月照はにやりと、不敵な笑みを浮かべた。
「月照殿。存分に戯れ言を撒くがよろし
かろう。」
秀遠は月照の策を許した。月照は早速配下
の耳目衆を集め、手筈を打ち合わせた後、
京の町に散っていった。
仏哲が平泉に、矢車が奥美濃へ旅立った
後、京の都にはさまざまな風説が乱れ飛んだ。
「義経は鞍馬の天狗と語らい、比叡山・
高野山・興福寺の僧兵を束ねて京へ
攻め入る。」
「義経は後白河院の邸に匿われ、頼朝に
味方する九条兼実屋敷に夜討ちをかける。」
「義経は四国に逃れ、瀬戸内水軍を束ねて
鎌倉に攻め入る。」
「義経は宋国に渡り、宋・高麗の兵を
率いて大和に攻め入る。」
風説はどこからともなく現れ、人から人
へまことしやかに語られた。鎌倉方の公家
たちは震え上がり、反鎌倉の公家たちは、
真実であれと密かに願っていた。
月照は頃合を見計らって、「義経は
死んだ」という風説を流した。
「義経は怨霊となり、鎌倉と鎌倉に味方
する者に祟り呪い殺す」と。北条時政・
義時父子は、姿なき義経に翻弄され続けた。
頼朝の後ろ楯で摂政になった九条兼実も、
義経の夜討ちにおびえ、怨霊の祟りに震え
ながら、夜も眠れずに鬱々とした日を
過ごしていた。その為、後白河法皇が、
頼朝の守護・地頭設置を断固として拒んだ
時にも、あえて異議を唱えようとしな
かった。
義経はもはや、一人の人間としての存在
ではなくなっていた。義経の名は神域に
類し、天狗にも怨霊にも変じた。月照は
その義経の名を巧みに操っていた。
頼朝も義経の影におびえていたが、静も
また幻の義経を求め、恋ふていた。静は
京の北条館に捕らえられた時から、死を
覚悟していた。だが、何の沙汰もないまま
冬が過ぎ、春になってようやく、母の
磯禅師と共に鎌倉に連行
され、安達新三郎清経の館に預けられた。
鎌倉では、山桜が今を盛りと咲いていた。
安達館から望む山々の山桜を見るたびに、
静は吉野山の桜を思った。甘苦しき薄紅の
桜香に、義経の優しくも哀しい心映えが
重なった。
(吉野山 峯の白雪ふみ分けて 入りにし
人の跡ぞ恋しき )
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第三章・北斗星<2>
夢幻の如く桜花が散り、若草が萌え
出ずる頃、静は鶴ヶ丘八幡宮の舞殿に
引き出された。頼朝が、舞いを見せよ
と命じたのだった。
静は白小袖に白袴(しろ
ばかま)、唐綾に割菱(わり
びし)の水干という装束で、
立烏帽子を戴き、白鞘
(しろざや)の太刀を帯び、皆紅(みな
くれない)の扇を開いて舞殿に立った。
拍子は鼓の工藤祐経、胴
拍子の梶原景時、笛の畠山重忠が、
舞殿背後に控えていた。
十五歳の白拍子・静は、頼朝と
御台所政子、和田・左原・千葉・葛西・
小山・河越・宇都宮など、多数の御家人
の好奇な目線に晒されていた。
(この男が判官様を陥れ、あの男が・・・)
静は梶原景時を冷えた目線で見据え、
頼朝を憎しみと哀れみを混ぜた目線で
射た。
(判官様の影におびえる、哀れな大猿
(おおましら)・・・)
「しずやしず しず賤のおだまき繰り返し
昔を今に なすよしもがな 」
静は一人、毅然として立ち、義経に恋する
思いを舞った。
(さあ大猿よ、殺すならば殺せ。たとえ
この身は刃の下に滅びようとも、判官
様への思いは決して滅びはしない。
決して・・)
静が射る冷ややかな目線に、源氏の
頭領・頼朝は萎縮してたじろいだ。静
は初めから終わりまで、頼朝の威に屈せず、
ただの一言も鎌倉を賛美することなど
なかった。
北条義時は、畿内に通じる全街道に関
を設け、義経探索の網を緩めなかった。
だが吉野入山以降、雲と化したか霧と
変じたか、その足どりは一向に掴めな
かった。
捕縛の網にかかったのは、義経と共に
追討の院宣が発せられていた、新宮十郎
行家だった。四国に隠れていた行家は、
旧領である和泉国小木郷に舞い戻って
いた所を発見され、子の光家と共に斬首
された。
さらに、鈴鹿の山賊を捕縛し、京の
寝座を急襲した所、首領の土蜘蛛、
羅刹らと共に、伊勢三郎義盛が網にかかった。
二百余騎の鎧武者に囲まれた義盛は、土蜘蛛
らと共に全身に矢を針山の如く射込まれた。
夏の名残の蝉時雨が、壮絶な死を飾った。
京では相変わらず、幻の義経が出没して
いた。だが北条の放った耳目衆は、義経が
比叡山に隠れているらしいという事を突き
止めていた。北条の動きを察知した秀遠は、
矢車を坂本に走らせ、義経を奈良・興福寺
に移した。
「もはや、畿内に安住の地は無かろう」
というのが、日高見耳目衆の一致した思い
だった。
仲秋の望月が奈良の都をまろやかに
包んでいる頃、慈海は興福寺の観修坊
聖弘の僧房を訪ねた。日高見の慈海と
いう名を聞き、まず弁慶が現れ、次い
で義経が姿を見せた。
義経は旧師との再会に臨み、素直な
喜びを表した。慈海は義経に、復讐の
妄執を散じた乱れのない清廉な気を
感じ、安堵した。
「幾たびも日高見の尽力に預かり、
深く恩義を感じながら、報いるべき
もの無き我が身を、恥じ入るばかりに
ござりまする。」
義経は慈海に詫びを述べた。慈海は
懐から、秀衡から義経に宛てた書状を
差し出した。
「御館は、いつなりと帰られよと申して
おられまする。」
義経は、少しも変わらぬ秀衡の情義
に触れ、目を潤ませた。
「雪の夜の火の如く、御館の温情、身に
染みまする。されど、観修坊殿の仁徳に
甘え、身を隠すさえ心苦しき思いにござり
まする。我が身を匿いし事鎌倉に知れれば、
観修坊殿の命さえ危うくなり申す。それは
日高見とて同じ事。大恩を仇で返すが如き
我が身を呪うばかり。もはやこの身を晒し、
兄の刃にかかりて果てるばかりと、心定まり
ましてござりまする。」
観修坊は、義経の詫びごとを払うが
如く、からからと笑った。
「これは、平家の大軍を西海に沈めた、
御大将らしからぬ物言い。拙僧は、弟の
軍威を恐れ、妄念におびえる愚人に立腹
したまでの事。妄執の徒を正気に戻すは
僧の務め。頼朝を諌めるもまた楽し。
義経殿、御心を強く保ちなされませ。」
観修坊の豪気が、座に涼風を運んだ。
「たとえなんぴと何人であろうとも、客人
(まろうど)を尊ぶのが日高見の情義。まして
義経殿は、御館の和子ではありませぬか。」
慈海もまた、義経の憂慮を払った。
弁慶は別の憂慮をかかえていた。日高見
へ渡る道筋についてである。美濃へ抜ける
道には不破の関(岐阜県関が原町)が在る。
たとえ関を越えても、東海・東山道は鎌倉方
が固めている。
また、北陸道に抜けるには愛発
の関(滋賀・福井県境)が在り、敦賀から越
前にも鎌倉方の兵が道を塞いでいるという。
他の間道は峻険な高山であり、道など無い。
弁慶は慈海に、その事を問うた。
「案じられまするな。」
慈海はそれだけを言い、義経に決断を
迫った。義経は両手を床に付け、慈海に
向かって深々と頭を下げた。
「全てを委ね申す。」
義経を見て、弁慶もこれに習った。
慈海は、早速の旅支度を促した。未だ
夜の明けぬ中、義経・弁慶・慈海の三人は、
観修坊に見送られ、法衣姿のまま興福寺を
出て、正倉院北倉から笠置山へ続く山道を
急いだ。
笠置山で朝を迎えた。三人は木津川を
遡って阿山の峠を越え、伊勢国
(三重県)に向かった。
「船にて候や。」
弁慶が慈海に問うた。
「否。この季節嵐多く、船は危のう
ござる。難儀なれど山を越しまする。」
慈海一行は、ただ黙々と歩いた。伊賀
上野の人里を抜け、長野峠の山中で一夜
を明かした。翌日も夜明け前から安芸郡
を進み、白子の海を北上し、夕刻前に
三重郡朝日の真光寺に着した。
真光寺は、伝教大師最澄が開山した
天台宗の名刹で、宿房には尾張国常滑
湊から出張って来た、日高見船北辰丸
の船長・尊海が、水夫
を伴なって慈海らの来着を待ち受けて
いた。
「川舟は四挺櫓の荷駄舟。谷汲近くの
池田までは遡れましょう。十五里の川筋
には水夫を配し、目利きに万全を期して
おりまするが、念のため客人は、荷駄と
共に船底に隠るること、肝要と心得まする。」
日高見の者は皆、義経と弁慶を「客人
(まろうど)」という隠し言葉で呼んでいた。
尊海は客人に酒肴をもてなしながら、明日
の段取りを語った。
翌早朝、白山詣での白衣に装束を改めた
客人一行は、尊海が用意した川舟に隠れ、
揖斐川を遡った。舟は桑名、海津、
大垣をゆるゆると渡り、日没前に西美濃・
谷汲荘に着した。大垣から不破の関までは、
わずか二里余り。川舟は鎌倉勢の目と鼻の
先を、潜るが如くに渡っていった。
慈海ら三人は尊海と別れ、谷汲の峠を
越え、宵の頃天台宗華厳寺に着した。華厳寺
の宿房には、秀衡が奥美濃の白山中居
(ちゅうきょう)神社に遣わした家臣団の
うち、桜井平四郎、上村彦三郎両名が、
客人の出迎えに出張って来ていた。
「これより後は、我らが案内
申す。」
桜井・上村両名は、おっとりした口調
で客人の安全を請け負った。
「紅葉前のこの季節が最も良い。山鳥、猪、
山菜、水菓子など、実りの季節にござり
まするからなあ。客人は何を好まれます
るや。」
などと、日高見人特有の和やかな人なつこい
笑顔で、義経や弁慶に語りかけていた。
翌朝、慈海は旅立つ四人を見送った。
「越の海(日本海)は冬に荒れまするゆえ、
船は春まで御待ちくだされ。季節も人の
心も、全て移ろいゆくもの。雲の如く水
の如く、無心無相の悠々たる境涯で
生くるがよろしかろう。」
慈海は義経に、はなむけの言葉を贈った。
義経も弁慶も、慈海に深く感謝の意を
表し、東に向けて旅立っていった。
「御覧下され。彼方に見ゆる青き峰が、
白山大権現にござりまする。」
桜井が北方の、飛騨の山並みを指差した。
「そもそも、正一位白山中居(ちゅう
きょう)大権現とは、養老の昔、越前国
(福井県)の泰澄大師が白山
神霊妙理大菩薩の託宣を受け、開き給うた
霊山でありましてな。加賀国に白山寺、
越前国に平泉寺、美濃国に
長滝寺の三ヶ寺を開き、白山神寺を鎮守
としたのが始まりにござりまする。」
桜井と上村は、物見遊山の如くゆるゆる
と歩きながら、白山の事、御館・秀衡の
事などを語り継いだ。一行は本巣、高富
と進んで、長良川沿いの道を北へ遡った。
美濃洲原神社を宿所とし、翌日は郡上八幡
から明方村(明宝村)寒水まで
進んだ。
三日目は、大洞峠を越えて白鳥の里に
出て、白山長滝寺に着した。奥美濃の
高地は秋深く、白山神域の霊気に満ちて
いた。
「我ら日高見家臣団が在る石徹白(いと
しろ)は、長良川の出ずる所。これより
さらに上った里にござりまする。」
人里葉離れた修験の聖地、長滝寺に
宿した一行は、四日目に桧峠を越え、
石徹白の細道を上って、祝部宗庸
(ほふりべむねつね)の待つ白山中居神社
に着した。森閑たる社域には、野鳥や猿
(ましら)の声が木霊し、清涼なる
石徹白川の水音が響き、世俗を離れた幽玄
な時が在った。
「全ては神仏のえにし縁というもので
ありましょう。それがしが当地に遣わさ
れたのも、客人が当地を訪れたのも。」
祝部宗庸と十二人の日高見家臣団は、
義経と弁慶に神社拝殿で対面し、酒宴を
設けて歓待した。鬱蒼たる杉の香が、
拝殿の檜の香に溶けて、神仙の涼気を
醸し出していた。
日高見家臣団が石徹白を訪れたのは、
二年前、木曽義仲が宇治川の合戦に敗れた
後の事だった。家臣団は白山中居神社に
本尊を納め、神殿造営を行なうかたわら、
修験の道を往来し、越前・加賀・能登・
越中・美濃・飛騨など、木曽義仲亡き後
の、北陸・東山道の情勢
を把握し、日高見に伝える役目を負って
いた。
山鳥や鹿肉、川魚の焼き物、山菜の
ゆで物などの膳が、次々に運ばれてきた。
白小袖に緋の袴の巫女が、酒瓶
を持して義経の前に座した。
「おお。これは七化けのの前。」
気を和らげていた義経は、矢車を見て
戯れた。
「七化けなどと陰で戯れるは、慈海か月照
か。悪しき坊主どもよ。客人殿、よくぞ
参られた。」
矢車は奥美濃に使いして、桜井・上村
両名を華厳寺に送り、自らは石徹白に残って
義経を待っていた。矢車は客人に酒を勧めた
後、榊を持して巫女舞いを披露し、座を盛り
立てた。家臣団の者どもも、よく笑い、よく
歌った。日高見の情の温みが、義経と弁慶の
凍えた心を溶かしていった。
宴の半ば、矢車は改めて義経の前に
座した。
「静御前は吉野山中にて捕らえられ、京・
六波羅の北条館に送られました。その後
鎌倉に送られ、許されて京に戻りました。」
矢車は、静が鎌倉で何をどのように
舞ったのかを、細かく義経に語った。
「されど・・・」
と、矢車は言葉を詰まらせた。
「御子は、無念にござりました。」
静は鶴が岡八幡で舞った後、男子を
出産した。頼朝は安達新三郎清経に、殺せ
と命じた。
「御子は清経が殺したとも、密かに堀
藤次郎殿が貰い受けたとも言われてお
りまする。いずれにせよ、子を抱けぬ
静様の落胆はなはだしく、気も塞ぎ、
病がちとの事。」
義経は、黙って矢車の話を聞いていた。
やがて深く嘆息し、天を仰いで瞑目した。
「兄は殺せと命じたか・・・」
「判官様の御前ながら、頼朝は邪念に
犯され、性根が腐り果て、悪鬼と変じ
たのじゃ。もはや人にあらず。地獄の
業火に焼かれるのが似合いじゃ。」
矢車は頼朝に呪いの言葉を浴びせ、
いつの日か必ず、静御前を日高見の地
へ連れ出す事を約した。
「日高見の温みの中で、再び始めるの
じゃ。のう、判官様。日高見は情の濃
い良き所ぞ。のう、皆の衆。」
矢車の話を、弁慶も家臣団も我が事の
ように聞き、皆泣いた。義経は全てを失い、
追われる身となった哀切の底にありながら、
その心情を分かつ日高見の情愛に、一筋
の光明を見出していた。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3章・北斗星<3>
一方慈海は、谷汲華厳寺から京へ戻った。
義経が無事虎口を脱した事に安堵し、道々
佐藤忠信など、郎党の脱出法を思案して
いた。慈海自身は、重源より得た東大寺
大仏再建の勧進帳を得ている為、関を
抜ける障りは無い。
だが、畿内の街道を塞ぐ関の調べは、
厳重を極めていた。日高見船の湊である
若狭国小浜へ通じる道にも、鎌倉方の
騎馬武者が怪しい者に目を光らせている。
「小浜に通じる間道を探るか・・・」
慈海は思案を巡らせながら、京・六波羅
近くを歩いていた。ざわざわと馬蹄の音が
聞こえ、騎馬武者の行列が近づいてきた。
先頭を行くのは、北条義時だった。
列の半ばに、徒武者に縄目を曳かれ、
うつむいて歩く男がいた。吉次であった。
吉次は生きていた。嵐の海で義経らと逸れ、
渡辺の浦に打ち上げられた。その後、秀遠
の指示によって、義経主従の衣食と逃亡の
道筋を支えていた。
その吉次が北条に捕縛され、六波羅館へ
曳かれてゆく途上だった。慈海はわざと
咳き込んだ。吉次が慈海を見た。慈海は
吉次を見て、軽くうなずいた。慈海の意図
を察した吉次は、口元に軽い笑みを浮かべ、
軽くうなずき返した。
吉次は六波羅の白洲に曳き回され、早速に
調べが行なわれた。でっぷりと肥えた北条
時政が直々に出張り、上段の板敷きに座して
吉次を見おろしていた。吉次の背後には、
弓や薙刀を持した十人の武者が起立していた。
時政の脇には義時が座し、吉次を射る
ように見据えていた。
「姓名の義や如何に。」
と、義時が問うた。
「鎮守府将軍・陸奥守藤原秀衡家臣、堀
弥太郎景光。鎌倉の府が、日高見の臣に
対し、如何なる不信有りや。」
「ほう。堀殿と申さるるや。異名を金売り
吉次と聞くが、この義如何に。」
「それがしは、貴殿の脇に座す御御仁を、
伊豆の古狸と聞き及びまする。」
吉次は義時の問いには答えず、時政を
見据えて不敵な笑みを浮かべた。時政は
ぎろりと目を剥いて吉次を睨んだ。
「秀衡家臣に対し、白洲に縄目とは無礼
であろう。鎌倉の府は、武者に対する礼
を知らざるや。」
吉次はそう言って、時政を睨み返した。
義時は吉次の縄を解き、床机を与えよと
命じた。
「親父殿を古狸とは、まさに言い得て妙。」
義時は時政を見て笑い、場を和ませながら、
「時に堀殿は、義経を見知っておろう」と、
抜け目なく切り込んだ。
「いかにも。六年程、日高見国の客人で
ありましたゆえ。」
「それ以降は如何。」
「風説を聞くのみにて候。」
義時は「ふむ」と、鼻で笑った。
「知ってのとおり義経は、追討の宣旨を受け、
山野に隠れ、逃げ回っておる。だが一向に
捕縛の網にかからぬ。吉野に追手を向ければ
吉野に無く、叡山を探れば数日前に立ち去った
ばかりと聞く。見事な手際の良さよ。」
「誠に。」
「行家は捕らえて斬った。義経郎党の伊勢
三郎、伊豆有綱も死んだ。だが風説は消えず、
義経は消えた。おかしいではないか。」
義時の話に、吉次は眉ひとつ動かさず、
涼しい顔をしていた。
「我らが網を抜ける手際は、義経や郎党共
のみの才覚なるや。違う。裏に手引きする者
有りと観る。されば、義経に助力するは誰ぞ。
院にも熊野にも、左様な動きはない。瀬戸内
にもあらず。となれば残るは唯一つ。」
「寺社にござりまするや。」
吉次は、義時の舌鋒を巧みにかわした。
「ほう。義経は寺社に在ると知るや。」
義時の眼が鋭く光った。
「義時殿は、義経殿が日高見国の手引き
を受け、逃れんとしておるとの妄想を
膨らませておる御様子。されど、よう
お考えなされ。それがしは、荷駄隊を束ね、
京・鎌倉に献上品を届ける者。畿内七道の
関の厳しさはよう存じておりまする。かの
関を抜け、東海・東山・北陸三道いずれか
を渡り、遥か平泉に達するなど、並大抵
の業ではありますまい。」
「堀殿の申す事、もっともである。されど
相手は奇を以って平家を討った義経ぞ。」
義時はそう言った後、言葉に詰まった。
「風説によれば・・・」
と、吉次が言った。
「義経殿は鎌倉と事を構える気など、毛頭
無いとの事。もしその気有らば、瀬戸内の
水軍と語らい、再び西国に立ちましょう。
無論それは、日高見国とて同様の事。坂東
の地を欲する事などありますまい。
それとも・・・」
吉次はそこで言葉を切り、時政と義時を
交互に見た。
「それでは困ると、北条殿はお考えにござり
まするや。」
時政は表情を変えず、義時は口元をやや歪めた。
「唐に、二虎両食の計事が在る
を御存知なるや。」
吉次の問いに、時政は「はて」と、首を
傾げた。
「強き者を戦わせ、互いに傷つき、弱った
ところで別の者が掠め取る。」
「ほう」
と、時政が応じた。
「木曽義仲、伊勢平氏、義経殿と倒れた今、
坂東平氏の敵は・・・」
吉次は鎌倉とは言わず、わざわざ坂東平氏
と言った。頼朝は源氏の頭領だが、鎌倉を
支える北条・三浦・千葉などの御家人は、
皆平氏に属する。日高見国を滅ぼし、頼朝
一人を葬ってしまえば、天下の実権は北条
に転がりこむ。
吉次は時政と義時が、天下を望む器か否か
を測り、そのはら胆を探った。時政は深く
淀んだ沼の如き男だが、天下の大略を蔵して
いるとは思われなかった。一方義時は、知略
と策謀に優れ、野心のほむら焔を胆の内に
燃やしていると観た。一筋縄ではいかぬ、
油断ならぬ男だった。
(頼朝の次はこの男か。頼朝もいずれ消される
哀れなみこし神輿よ・・・)
吉次は人の世の興亡変転を思い、自然と
乾いた笑いがこみ上げてきた。
「何を笑う。」
義時が訝しげに吉次を見た。
「いや。神輿の担ぎ心地はいかがなものか
と思いましてな。」
「ふむ。神輿とは何ぞ。」
「日高見まで神輿を担ぐは、多分に難儀
なる事。」
「左様。難儀よのう。」
義時が次ぎに何か言おうとした時、腹巻姿
の武者が血相を変えて白洲に駆けてきた。
「申し上げまする。」
武者は荒い息を吐き、吉次を見て次の言葉を
言い淀んだ。
「構わぬ。申せ。」
義時に促され、使いの武者は、
「四条室町の館に隠れし、義経郎党・佐藤
忠信ほか二名の者、自害」
と告げた。吉次はとっさに「しまった」と
思った。誰の密告かは判らぬが、鎌倉方に
一歩、先を越された事を悔いた。
(忠信は自ら口を塞いだか・・・)
吉次は唇を噛み、瞑目した。
(ここでもし、我もまた自害すれば、日高見と
義経殿との関わりを、語らずとも認めた事と
なる。それでは義時の思う壷。日高見追討の
口実を与える事に繋がる。どうする、吉次
・・・)
吉次は瞬時に思いを巡らせ、意を決すると
かっと目を見開いた。
義時は、「なぜ生け捕りにせなんだ」と
使者を叱り、不満に顔を歪めた。
「堀殿。聞いての通りじゃ。武門の者として、
敵ながらあっぱれなる最期。丁重に弔う事を
約し申す。」
「・・・・・・・・・」
吉次は無言のまま、頭を垂れた。
「伊勢三郎といい、佐藤忠信といい、義経
郎党が京に隠れたるとならば、やはり義経も
まだ京近辺かのう。」
「はてさて。」
「堀殿は先程、寺社と申したが、何ぞ風説を
聞き及ぶや。」
義時は、日高見と義経の繋がりを疑いながら
も、未だに確証は得ていないと吉次は観た。
「あくまでも風説ながら。」
と、吉次が言った。
「南都興福寺で、それらしき者を見たと申す
者、有りまする。」
「ほう。興福寺でのう。」
義時の目が鋭く光った。
「興福寺の誰ぞ。知るや。」
「観修坊聖弘。」
「うむ。観修坊とな。」
義時は、その名を聞いて唸った。観修坊と
言えば、院や御門にも加持祈祷を行なう高僧
である。うかつには手出しが出来ない。
「やはり大天狗の・・・」
義時はそう呟きながら、時政を見た。時政は
大きくうなずいた。構わぬから兵を出せと
いう意図だった。
吉次は、胆の内で観修坊に詫びていた。
だがここは、院と興福寺を表に顕し、日高見
を霧の彼方に消して見せる必要があった。
背後に院が控える観修坊ならば、頼朝とて
安易に命を奪うような事はしないだろうと
いう、五分五分の読みもあった。
義時は吉次を放免し、自ら二百騎を率いて
南都興福寺へ駆けた。観修坊は住房に座し、
泰然として義時を迎え入れた。無論義経は、
何処かへ立ち去った後だった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第三章・北斗星<4>
老僧が一人鎌倉を発ち、武蔵野から
那須野ヶ原を渡り、白河の関に着した。
老僧り名は西行。身の丈六尺余りで、
細身ながらも筋骨逞しく、日に焼けた
浅黒い肌は生気に溢れ、とても七十歳
が近いとは思えぬ歩速だった。
日高見の山野は紅葉色づき、鹿の
物悲しい鳴き声もこだましていた。西行
にとって日高見への旅は、これが二度目
だった。一度目はおよそ四十年余り昔の
事。平清盛が安芸守となり、頼朝はまだ
生まれたばかりの頃だった。
西行の俗名は佐藤義清。鳥羽院に
仕える北面の武士だった。同じ武者
だまりに、清盛や頼朝の父・義朝がいた。
保元の乱の折りには、敵味方に別れた
二人を仲介した事もある。
だが人の世の変転は、急流の川の
如きすさまじさで景色を移した。源義朝
も平清盛もこの世になく、平家一門も
壇ノ浦に滅び、義朝の子・頼朝の世と
なりつつあった。
西行は、太さを増した白河関の杉木立
を愛でながら、歳月の変転を想った。
「都をば 霞とともにたちしかど
秋風ぞ吹く 白河の関 」
と、歌と旅の先達・能因法師はみちのく
の遠さと心細い心情を詠んだ。
かつての西行も、白河の関にたどり
着いた時、寂莫とした思いを感じたも
のだった。関には関守の姿もなく、人家
もまばらだった。だが今は、新築された
関守館に、腹巻きに身を固め、薙刀を
持した武者が四〜五人程見えた。
西行は関守館へ歩み出た。
「沙門西行、東大寺再建の大勧進の途上
にて、これより平泉の御館のもとへ参る
所存。」
直垂姿の関守は、西行という名を知って
いた。
「おお、西行殿とかや。御高名はかねて
より、佐藤の叔父より聞き及んでおり
まする。ききもせず 束稲山
のさくら花 吉野のほか外に かかるべし
とは・・・でしたな。」
関守は、かつて西行が平泉で詠んだ歌を
そらんじてみせた。西行を感嘆させた平泉・
束稲山の桜花に、関守は得意顔だった。
「黄金色の寺社も、民の賑わいも、京の都
に比して劣らぬものよと、感じ入ったる
次第。」
西行は柔らかな目線で関守を見て、思うた
ままを述べた。関守は嬉しそうにうなずいた。
「西行殿、まずはこれへ。木菓子など召して
御休息なされませ。」
関守は座を勧めた。西行は草履をぬぎ、関守
と対座した。
「桜もよいが、秋の日高見は紅葉もまた格別。」
関守の言葉に西行は、遠い日の旅路を思い
起こすように目を閉じた。
「宮城野の萩の可憐さ。田子の水辺に遊ぶ
白鳥の優雅なる様。日高見はまことに麗しき
国。」
閉じた目の奥に、萩の紫やら湖面の風景
やらが、昨日の事のように鮮やかに蘇った。
西行が目を開けると、柿や有りの実(梨)、
焼き栗や枝豆が盆に盛られてあった。
「武骨の関ゆえ、何の風雅もありませぬが・・」
と関守が言った。
「おお、これは何よりのもの。」
西行は有りの実にかぶりつき、果汁で喉を
潤した。
「これより使いの者を走らせますゆえ、
是非とも叔父のもとへ御立ち寄り下され
ませ。」
関守の叔父・信夫庄司・
佐藤基治は、義経の郎党、佐藤継信・
忠信兄弟の父である。庄司とは領主の
代官として荘園を管理する役職の事で
ある。基治の年齢は、西行とさして
変わらないだろう。
また西行の紀州佐藤氏と、基治の奥州
佐藤氏、さらには日高見の藤原氏は、
平将門を討ち取った下野守・藤原秀郷を
遠祖とする一族でもあった。
西行は小半刻ほど関守と談笑した後、
白河関を出て北へ向かった。街道はよく
整い、金色の阿弥陀如来を装飾した里程標
が、一町(約九km)ごとに据えられていた。
安積郡で野に伏し、翌日の夕刻、信夫郡の
梁川八幡に着した。奥州連山に傾く夕陽に
照らされた三重の塔が、穏やかに鎮まって
いた。
梁川八幡は、平安中期の永観年間(938
〜958)に、中納言藤原勝稙が岩清水八幡
を勧請して建立したのが始まりとされ、
御館・秀衡は、佐藤基治・勝信父子に再建
を命じた。秀衡は日高見国の番匠七百余名
を集め、本殿・拝殿・観音堂・三重の塔など
を、丸三年の歳月をかけて建立したの
だった。
鳥居脇の野には多数の馬が繋がれ、
草を食んでいた。境内には神官や僧に
混じって、腹巻き姿の武士も見うけ
られた。西行は拝殿に案内された。
佐藤基治が待ち焦がれていた。
「おお、西行殿。ようこそお越し下さ
れた。」
基治は西行の両手を握り、感激の対面
を果たした。基治は白髪の好々爺といった
風貌だった。
「昼のうちはよいが、日暮れてくると
肌寒うなりましての。今、火桶を用意
させておりますでの。」
基治と西行は、拝殿で対座した。
ほの暗い堂内には、二対の蝋燭が灯さ
れていた。
「還暦を過ぎてなお、何かと世俗の雑事
に追われる日々でしてな。静かに経を写し、
歌を詠む事を願いながら、なかなかに
難しゅうございましてな。」
基治は照れながら笑った。
程なく巫女たちが、茶や火桶を持して
現れた。
「夕餉の膳が整うまで、茶など召されませ。」
基治は胡桃やカヤの実を盛った交果物
を添えて、茶を勧めた。西行は両掌で茶わん
を包み、ゆっくりと味わった。
「深山を渡る松風の如き滋味。」
西行は茶を飲み干した後、深く息を
吐いた。
「時に継信殿、忠信殿が事、さぞや御無念
の事とお察しいたしまする。」
「なんの。これもまた武門の定め。」
基治はふっと嘆息した。深い皺の刻まれた
顔がわずかに歪み、こみ上げてくる痛みに
耐えている様子だった。
西行は火桶の中の、赤く焼けた炭に目線
を向けた。
「遥か昔、出家する前には妻と娘がおりま
した。離縁したとは申せ、心に残る情愛は、
なかなかに断ち難きもの。」
「ほう。澄明なる西行殿にして、そのような
煩い事がありましたか。」
基治は肩の力を抜き、微笑んだ。
「人は皆、欲心と煩い事の中を生きるものと
思い定め、それらをありのままに受け入れる
事にいたしました。」
基治は滋味のある西行の言葉を味わい、
深くうなずいた。
「欲心と申さば・・・」
と基治が言った。
「西行殿は、鎌倉の頼朝殿に対面なされた
との事。」
「おお、早や御存知なるや。」
「頼朝殿の欲心を計らねばなりませぬゆえ。」
「頼朝殿は細心なる御方・・・」
西行は基治に、頼朝の印象をそう述べた。
「日高見国は広大なるがゆえに、頼朝殿は
恐れておりましょう。」
「いかにも日高見の兵は精兵。坂東武者に
ひけを取る者などおりませぬが。」
「恐れや痛みは、何としても取り除きたき
もの。欲心とはいささか異なるとは申せ、
やっかいなる邪心。」
「ではやはり西行殿は、戦さは避けられぬ
との御心なるや。」
「うかつなる動きはせぬ御方。されど乾坤
一擲の戦さが無いとまでは言えませぬ。」
「大戦さなれば望むところ。この基治、
よき死に花を咲かせてみせましょう
ほどに。」
基治はそう言ってカラカラと笑った。
「おお、そうじゃ、西行殿。今の話、国衡殿
にもしてはもらえまいか。若は今、だんがら
山に砦を築いておりましてな。」
砦と聞いて、西行は興味を示した。未だに
武門の血が騒ぐ我が心に苦笑した。
「この梁川より、馬でほんの小半刻程なれば。
あとは逢隈川(阿武隈川)を武隈
(たけくま)まで舟で下ればよろしゅう
ござりましょう。」
西行は基治の申し出を承諾した。
「以前平泉を訪うた時には、中御館・基衡殿
も御健在であり、秀衡殿も二十代半ばであった。
御子息の国衡殿や泰衡殿は、まだ生まれて
おらなんた。つくづくと歳月の流れを感じ
まする。」
西行はそう言って笑った。
「中御館を御存知とは、ありがたきかな。」
基衡も微笑んだ。
西行と基衡は、夕餉の後風呂を使い、
歌の事、仏教の事など、夜半頃まで
ゆるゆると話に興じた。
「風になびく 富士のけぶりの空に
消えて 行方も知れぬ わが思いかな 」
と、西行はこの夏詠んだ歌を基治に披露
し、無常の思いを語った。
翌日二人は駒を並べ、基治がだんがら山
と呼ぶ、阿津賀志山の陣場を目指した。
穏やかな秋の陽射しが、信夫の山野に降り
注いでいた。二人の後には、供の者五騎が
従った。馬はざぶざぶと逢隈川を押し渡り、
高城の丘まで進んだ。
「西行殿、あを御覧なされ。」
基治が指差す方を見ると、行く手を遮る
ように水堀が長々と延びていた。
「深さ五丈(十六メートル強)の水堀り前面
には、空掘りと馬返しのさかもぎ逆茂木。
後方には柵と城壁。二重三重の守りを
破らねば、日高見の奥には進めぬ砦。」
「なるほど堅固なる扇のかなめ要。」
「さらに平泉までには、道々多くの砦
あり。さしもの坂東武者も難儀いたし
ましょうぞ。」
基治が満足げに言った。
丘を下り、空掘り近くまで駒を進めた。
日高見兵たちが、さらに深く掘り進めて
いた。基治は国衡に使いを送った。
阿津賀志山の中腹から、銀杏を炒る
香ばしい匂いや、食欲をそそる味噌の
匂いが漂ってきた。西行一行は、架設
の橋を渡り、国衡が指揮する陣場へ
案内された。
長髭公関羽の如き風貌の国衡は、絵図
を見ながら兵たちに指図していた。国衡
は小さな黒い瞳をきらきら輝かせながら、
終始笑顔で西行に接した。
「いかに頼朝でも、冬に日高見を攻むる
程愚かではありますまい。来年の春
までには、こちらの備えも万全となり
ましょう。」
国衡はそう言って高らかに笑った。
「鎌倉の浜御倉・高御倉
(たかみくら)などには、米味噌が満ち、
さらに倉を建てている様子。表は穏やか
でも、着々と日高見攻めを進めていると
みてよい。問題はそれがいつかという
だけの事。」
国衡は水掘りの彼方の地平を眺めながら、
そう続けた。
人心の修羅など知らぬとばかりに、
真っ青な青空が広がっていた。山々は
赤や黄に色づき始め、眠気を誘う暖かな
陽射しがのどかだった。西行は里芋の
味噌汁を馳走になった後、国衡や基治に
見送られ、逢隈川の川舟の人になった。
「末永く平泉に御留まり下されや。」
基治が涙声で言った。
「左様。それがよろしかろう。御館の
良き歌の友となりて。」
国衡が言葉を継いだ。
「有りの実(梨)をの・・・信夫の有りの
実を持ってゆかれよ。道中御無事での・・・」
西行は川舟から、深々と頭を下げた。
舟は笹の葉色の瀬を滑り、程なく基治や
国衡の姿は見えなくなった。梁川の原
から伊具郡の山塊の間を、舟は進んだ。
水は深い碧色となり、深山の涼気が心地
良い風となって吹き抜けた。
西行は有りの実を食べた。果汁の甘さ
が、基治の心となって西行の心を潤した。
船頭は鳥の声に和するが如き歌をうたい
ながら、巧みに櫓を操っていた。
陽が西の空に傾きかけた頃、舟は武隈の
川湊に着した。川岸から武隈の松が見えた。
「あの松ばかりは変わらぬ。」
西行は松との再会に、思わず声をあげた。
松の方向に、武隈稲荷明神(竹駒神社)が
ある。西行は平安初期に創建された古社
に詣で、宿を求めた。
翌日は名取熊野堂から陸奥国分寺を経て、
宮城野の萩を愛で、田子の水辺を渡って
多賀国府に至った。塩釜神社では、本吉
冠者・高衡の出迎えを受け、以後は海路
牡鹿湊まで渡り、日高見川を遡って平泉
に至った。
西行は歓待をうけ、秀衡が宇治の平等院
鳳凰堂を模して造らせた無量光院に留まった。
請われるままに歌会を催し、宋版一切経など
を読みふけるうちに、季節は冬に移り、白い
雪の静寂が日高見国をすっぽりと包んで
いった。
奥美濃も深い雪の中にあった。囲炉裏
の炭は絶やされる事なく燃やされ、酒も
汁も豊富だった。追手を気遣う事もなく、
義経も弁慶も心安らいでいる風だった。
頬に赤みがさし、言葉に柔らかさが
宿っていた。
幼少の頃より義経には、平家憎しの
怨念が骨の髄にまで染み込んでいた。
しかし平家を滅ぼし、全てを失った今、
憎悪の心毒も消え失せていた。義経は
弁慶を相手に、無心に碁を打っていた。
日暮れが近い頃になって、矢車が盆に
椀を乗せて義経のもとに現れた。
「間もなく牡丹鍋が煮えましょう
ほどに・・」
そう言いながら矢車は、義経と弁慶に
椀を差し出した。
「雪の間より見つけたふきのとうを、
湯がいて味噌と胡麻で和えたものじゃ。」
義経も弁慶も、美味いと言い、ほろ苦い
ふきのとうの味を愛でた。
「かような雪景色でも、季節は刻々と
移ろうておりまする。間もなく梅の花
も咲き、雪も溶けましょう。」
矢車が言った。
「うむ・・・」
義経がうなずいた。
「のう、矢車・・・」
義経は椀を置くと、矢車に語りかけた。
「近頃、雪が美しいと思えるようになった。
星も月も鳥の声ものう。」
「それは何よりの事と存じまする。」
「不思議なものよ。何もかも失い、天下
に身の置き所なき我が身のはずが、その
虚ろを天地が満たしてくれておる。これが
御館の語る仏心なのであろうか。」
「難しき事はわかりませぬが、御仏は
大いなる安らぎかと存じまする。」
矢車は目を細めて微笑んだ。
「人の世の争いは、人心に巣食う悪鬼に
よりて起こるものと存じまする。戦さ
無き世を望めば、日高見の如き国が栄え
ましょう。」
「うむ。そうよなあ・・・」
義経は矢車の言葉に苦笑した。
「我もまた、戦さ無き世を強く望もうぞ。」
「それでこそ御館の和子様じゃ。」
矢車は、奥美濃に居る間は細々と義経
の世話を焼いた。だが二〜三日程滞在
すると、旅支度を整えて何処かへ旅立って
いった。
矢車が奥美濃を旅立った後、暖かい日
が続き雪が溶けはじめた。やがて雪が雨に
変じた。梅が咲き、鶯が鳴き始めた。矢車
は日高見船の報せと共に、石徹白
に舞い戻った。
「筑紫国博多湊の月天丸は、今度の望月
の頃、越中国放生津湊
(富山県新湊市)にて、義経殿をお迎え
いたすとの由にござりまする。」
石徹白から放生津湊までは、白山修験道
を庄川まで進み、あとは川を下るだけで
ある。すでに川舟の用意は整っていた。
祝部宗庸はその報せ
を受けて、送別の宴を催した。盃を重ね、
皆義経や弁慶との別れを惜しんで泣いた。
義経も弁慶も、日高見衆の情の深さに感じ
入り、改めて涙した。
翌朝、白山詣での白装束に笈を背負った
義経と弁慶は、桜井平四郎、上村彦三郎の
案内で、白山修験の山道に歩み出た。
四人の後を矢車が追った。深山ゆえに雪
も溶け残り、風も水も冷気を含んで清冽
だった。
一行は三の峰の尾根から御母衣
に向かい、庄川の岸辺で一泊し、翌日一気
に庄川を下った。雪解けの水を集めて、
流れは速かった。奥飛騨の山塊をくぐり
抜け、越中国の里に入ると流れも緩やかに
なり、黄色い菜の花畑も目につくように
なった。里山には山桜もちらほら咲き
始めていた。
河口近くで舟を降りた一行は、日暮れ
頃放生津湊の日高見勧進館に入った。
「殿・・・」
宿館で休んでいると、二人の男が義経
の前に現れ、突っ伏して泣いていた。
「おお、常陸坊・・・経春・・・」
弁慶が声を震わせて叫んだ。
一人は常陸坊海尊。もう一人は鷲尾
三郎経春であった。大物浦で義経と別
れた二人は、伊勢三郎や佐藤忠信らと
共に陸路西国を目指した。義経遭難の
報に接して、一旦京に戻り、鎌倉方の
探索が厳しくなってからは、鷲尾三郎
の里である播磨国に潜んでいた。
「伊勢義盛殿、佐藤忠信殿、伊豆有綱殿、
御無念にござりました・・・」
義経はそう言って泣きじゃくる鷲尾
の側へ寄り、背を撫でた。弁慶は常陸
坊の両手を握り、無言でうなづき合って
いた。
「よくぞ生き抜いて、こうして再びめぐり
逢えたものよ・・・」
「殿・・・」
年若い鷲尾は、ただわんわんと号泣する
ばかりだった。
その夜半。望月が越中海を柔らかく照ら
していた。能登島を南下した月天丸は、
放生津湊に錨を下ろした。船長の禅海と
共に下船したのは、日天丸で宋国に渡って
いた、泉三郎忠衡だった。忠衡は南海の
荒波に揉まれ、精悍さを増したかと思われた。
「お待ちしておりました。」
湊のかがり火の下から、矢車が声をかけた。
「うむ。して矢車、鎌倉方の気配やいかに。」
禅海が問うた。
「この近辺に気配はござりませぬ。」
「それは重畳。」
禅海が安堵してうなずいた。横にいた
忠衡が、ひざまずいている矢車を見た。
「三郎様・・御久しゅうござりまする・・・」
矢車がまぶしそうに忠衡を仰ぎ見ていた。
忠衡は、聞き覚えのある声の記憶をたぐった。
「おお・・あの矢車か・・・久しいのお・・・」
「あい。」
矢車は嬉しそうに顔を赤らめ、うつむいた。
禅海と忠衡は宿館に入り、義経主従と
対面した。「兄上」と、忠衡は義経の手を
固く握った。
「謂われ無き御難儀・・・心中御察し
いたす。」
「日高見の方々の厚き情義に、義経ただただ
感謝するばかりにて・・・」
「さてさて。まずは腹を満たし喉を潤し、
ゆるゆると語りましょうぞ。」
禅海の言葉に従って、一同車座に座した。
「我らには馴染みのものながら、若狭国
小浜湊の鯖のなれ鮨にて候。」
禅海は一同に鮨と酒を勧め、座を和ませた。
酒で心が温まれば、武勇伝の花が咲く。
義経が禅海に壇ノ浦での礼を述べれば、
忠衡は南海の荒波を大袈裟に語り、弁慶
は鵯越のさかおとし逆落しを語った。
さまざまな死線を越えてきた男たちの
笑いは、からりと晴れていた。
翌朝、義経主従と矢車は、桜井・上村
両名に見送られ、月天丸に乗船した。
「風も波も穏やかゆえ、まずはゆるゆると
まいりましょうぞ。」
月天丸は天竺木綿の主帆と弥帆を満帆に
張り、錨を上げて放生津湊を離れた。
澄んだ青空の下に、白山の白き峰々が
厳しく起立していた。
月天丸にとっては、通い慣れた北の海
みちである。天気に恵まれ、越中から
越後の沖合いを、順調に北上していった。
丸ニ昼夜過ぎた頃、左舷の彼方に佐渡
の島影が見え始めた。義経は独り、
前甲板に座してぼんやりと海を眺めていた。
「兄上。干し柿など召しませぬか。」
そう言いながら忠衡は、義経の隣に座した。
「船は恐ろしゅうありませぬや。」
忠衡が重ねて問うた。
「嵐は恐ろしかった。思い返せばあの時、
我が身は一度死んでいると思えての。」
義経は海を見ながら、干し柿を口にした。
「瀬戸内の船は、造りが脆うござる。二重
三重に外板を張らねば、荒れた外海を乗り
切れませぬ。」
忠衡は佐渡の島影を指差した。
「御覧なされ。あれなる島の遥か彼方に、
粛慎・ゆう婁なる
土地がありまする。」
「大宋国にあらずや。」
「大宋国は筑紫国の遥か南にて候。御館は
出羽・陸奥の(くが)のみを日高見国と呼ぶ
にあらず。この北の海道から彼方の粛慎・
ゆう婁の民、渡島(北海道)の民を
含めた交易の道を、日高見と申しており
まする。」
「何と広大な・・・」
「失礼ながら、どこぞの井の中の蛙殿とは
大いなる違いかと。」
「うむ。」
「大宋国の南には大越、占城。
西に天竺、胡国。海も陸も広々と開けて
おりまする。珍しき異国を訪れてみとうは
ござりませぬか。」
「異国とは、今までは思いも及ばなんだが、
何やら心まで広々としてくるのう。」
「この忠衡と参りましょうぞ、是非とも。」
忠衡は船を語り、交易について熱く
語った。そこに酒に酔って寝ていた
弁慶が加わり、夢が膨らんでいった。
義経主従を乗せた交易船が、大宋国や
天竺へ渡るという話だった。
月天丸は越後国寺泊湊で水を補給し、
その三日後に出羽国坂田湊(山形県
酒田市)に着した。湊では秀衡の五男・
和泉七郎通衡が、義経主従
を丁重に出迎えた。
「これよりは、最上川を川舟にて上り
まする。それがし、出羽国の住人、大内
兼任と申す。」
「同じく由利惟平。平泉まで
の道中、御案内申す。」
出羽を本領とする日高見の宿将、
大内と由利は、平家を滅ぼした源氏の
御大将・義経を、畏敬の念で見つめて
いた。義経に宿る軍神の威光は、未だに
輝きを失ってはいなかった。
忠衡と義経主従は、通衡館に迎え
られ酒宴が開かれた。矢車は先触れと
して、一足先に平泉へ向かった。一日
遅れて一行は最上川を上り、最上から
は陸路になった。中山峠を越え、栗駒山
のすそ野を進むと、平泉はもうすぐそこ
だった。
夕刻。平泉・倉町から西へ数町行った
奥大道に、かがり火がずらりと並んで
いた。秀衡は主なる者を従えて、忠衡
と義経の出迎えに出張ってきた。
「もうじきよの。」
秀衡は隣に立つ基成にささやきかけた。
前民部少輔・
藤原基成。平治の乱の頃、陸奥守として
赴任して以来、平泉に居ついてしまった
秀衡の参謀である。
「年をとると、気が短こうなるとみえ
まするの。愛しきおなご女子を待つよう
に。」
基衡はそう言って笑った。
秀衡と基成の後ろには、泰衡、国衡、
高衡、頼衡のほか、金剛別当秀綱、
乙部則康、金十郎、河辺高経、
伊賀良目高重、河田直仲、
神保正元、湯兵衛基義、
杉の目弘信、江影通、
照井高直ら、日高見の諸将もずらりと
居並んでいた。
やがて奥大道の彼方に、一群の騎馬
武者が見てとれた。先頭に大内兼任と
由利惟平の部隊数十騎が、腹巻き姿の
軍装で乗馬し、忠衡、通衡、義経が、
直垂姿でそれに続いていた。弁慶は
腹巻きの上に法衣を着した僧兵姿で、
大薙刀を持してしんがりを務めていた。
義経はかがり火に照らされた出迎え
の一団を認め、先頭の秀衡に気がつく
と、単騎駆け出し、素早く下馬した。
「御館・・・・」
義経は秀衡の足もとにひれ伏した。
「おお・・・和子殿・・・」
秀衡はそう言いながら身を屈め、義経
の背に手を乗せた。義経は感極まって
嗚咽していた。
「苦労なされましたの・・・」
秀衡がそう言うと、義経は何か答えよう
として顔を上げ、言葉にならず号泣する
ばかりだった。
それは不思議な程、感動的な光景
だった。義経が日高見国においてどの
ような立場にあるのか、その一端を
物語ってもいた。弁慶や鷲尾が大声で
泣き、連鎖的に大内や由利がもらい泣き
した。そして感動的なもらい泣きの波は、
日高見の諸将の間にも広がっていった。
日高見国の都・平泉。奥御館・藤原清衡
が、黄金に輝く関山中尊寺を建立してより
百年あまり。人口は十五万とも二十万とも
言われる、当代随一の都市に成長していた。
北の大地の絢爛たる黄金の仏教文化は、今
を盛りと咲き誇っていた。
春。束稲山を埋め尽くす一万本あまりの
山桜も、望月の冴え渡る白光をうけ、淡紅色
の花を咲かせていた。花の甘い香りは
日高見川(北上川)の川面を渡り、対岸の
伽羅御所へと運ばれた。
御所には秀衡をはじめ一族諸将が集い、
花見の宴に酔うていた。女たちが奏でる
散楽管弦の音が響き、嬌声と花宴の舞いに
御所全体が艶めいていた。
客殿には、秀衡が「東日流殿」
と呼ぶ、十三湊(とさみなと・福島城城主・
十三入道・藤原秀栄と、その子・
秀基が、秀衡や基成らと共に醇酒
に酔うていた。秀栄は中御館基衡の従兄弟に
あたる。
「今年も見事に咲きましたのう。」
茫洋とした風の秀栄が、鰹のなますを食し
ながら言った。
「桜の季節は、いくつになっても心が華やぎ
まする。」
秀衡が言葉を継いだ。
客殿から望む日高見川は、月光で銀色
に輝き、ゆるやかに流れる水音が聴こえ
ていた。
「常日頃より、満開の桜花の下にて死に
たいものと思うておりました。」
花宴に座していた西行が、しみじみと
呟いた。花の香を乗せた微風が、蝋燭
の炎を揺らした。
「珍しき人が花宴に集うも、また花の如き
もの。」
秀衡が西行に向けてそう言った時、義経
が姿を見せた。
「御館。お呼びにござりましょうや。」
「おお、和子殿。まずはそれへ。」
義経は秀栄親子と対座する形になった。
基成が、義経と秀栄、西行を見比べ
ながら言った。
「東日流殿。こちらが源義朝殿が御子、
伊予守義経殿におわしまする。」
「おお、なんと。赤間ヶ関の御大将とや。」
秀栄は義経をまじまじと見つめた。
「義経殿は十三湊を御存知なるや。」
「忠衡殿より、話には聞き及びまする。」
「この平泉が陸の都ならば、十三湊は海の
都と申すべきかな。かかる赤間ヶ関の海戦
の折、これなる秀基と共に水軍を率いて、
平知盛殿の陣に合力したる者にて候。」
義経は返す言葉もなく、秀栄親子を見つ
めた。
「今こうして源家の御大将と対座出来よう
とは、まさに奇しき縁かな。」
秀栄はそう言って大笑した。
「奇しき縁は東日流殿のみにあらず。かく
言う基成の弟は、権中納言信頼にござり
まする。」
藤原信頼は、後白河上皇の近臣・
少納言信西入道と対立し、平清盛が
熊野詣でで留守にしている間に、義経
の父・源義朝と共に信西入道を討ち、
上皇と二条天皇を内裏に押し込めた
人物である。平治元(1159)年12月
9日の出来事だった。
清盛は急遽反転して変事に対応し、
12月26日、内裏内の源義朝軍を
激闘の末に撃ち破り、上皇と天皇を
救出。信頼は捕らえられて斬首された。
義朝は尾張国で、家臣・長田荘司館の
湯殿で斬殺されるのである。
この戦さで13歳の頼朝は伊豆へ
流され、義経の母・常盤は六波羅の
清盛館に出頭して、自らが清盛の側室
になる事を条件に、三人の子の助命を
願い出る。やがて常盤は、大蔵卿・
藤原長成と再婚する。この長成と基成
の父は、従兄という関係にあった。
これが日高見と義経とを結ぶ、奇しき
因縁の糸として紡がれてゆくのである。
「義朝殿の悲運、哀れなるかな・・・」
西行が、遠き日の戦さを振り返り、言葉
を発した。
「保元の乱の際、義朝殿は父・為義殿
や弟・義賢殿など、敵として戦いし者
を斬らねばならなんだ。かつては北面
の友であった清盛殿とも、敵として
戦わねばならなんだ。頼朝殿や義経殿
などの幼き子らと散りぢりになり、家臣
の裏切りによって殺され申した。戦さ
とは常に、親子兄弟の肉親が引き裂かれ、
憎悪の念を募らせ、虚しく命散らすもの
に候わずや。」
かつて北面の武士として、義朝や
清盛の友であった西行の峻烈な言葉が、
義経の肺腑をえぐった。
「西行殿の仰せ、骨身に染みまする。
平家憎しの思いに囚われし時、花を
愛ずる心、ありませなんだ。」
義経の言葉に、西行は柔らかく微笑んだ。
「人の心の深き闇を知らば、光の尊さ、
花の芳しさに心開くもの。」
「和子殿は、良き旅をなされたよう
じゃの。」
秀衡も和やかに盃を重ねていた。
「おおそうじゃ、和子殿。妙殿と申された
のお。」
妙とは河越重頼の女で、義経の
正妻である。大物浦の嵐以来、生死さえ
不明だった。
「京の慈海殿より、間もなくこちらへ向か
わせるとの事でありました。」
「生きておましたか。」
いかに鎌倉方の監視役を担って嫁いだ妻
とはいえ、幾ばくかの情は移る。義経は
ひとまず安堵した。
秀栄は義経という男に、清涼の気を感じて
いた。かつて敵方の大将だったという憎悪
の念は、不思議と湧かなかった。
「義経殿は、この後何となされるや。」
口を開いたのは秀基だった。
「継信、忠信の菩提を弔いし後は、仏の
道や勧進の事など、学びたいものと思う
ておりまする。」
義経は涼やかに答えた。
「おお、義経殿が勧進に興味を示される
とは、喜ばしき事。」
秀栄が感嘆して言った。
「御館。義経殿を東日流に貰えぬものか
のお。源氏軍五百隻の船団を率いた御大将
とあれば、十三湊の勧進船を束ね、韓国
(からくに)や大宋国へ渡るなどいと易き事
なればのう。」
秀栄が秀衡に言った。
「うむ。日高見は広うござれば、全ては
和子殿のよろしきようになさるがよろし
かろう。平泉と東日流は、遠き昔より唇歯
の関係ゆえ、仲良くのう。」
秀衡は、秀栄・秀基親子と義経を見比べ
ながら、満足そうに微笑んだ。
同じ頃泰衡は、国衡と忠衡以外の者を
遠ざけた密議の場にあった。
「小次郎。義経殿が事、鎌倉には知られ
たるや。」
国衡が泰衡に問うた。
「今はまだ、知られたる様子はありま
せぬ。さりながら、人の口に戸はたて
られぬもの。いずれ鎌倉の耳目衆も嗅ぎ
つけましょう。」
「義経殿を渡せと迫るのは必定。兄上は
何となさる。」
忠衡が泰衡に迫った。
「日高見の情義と武門の信義によりて受け
入れたる以上、断じて引き渡すなど出来ぬ
が道理。それともこの泰衡に、弟の首を
差し出してまで頼朝に屈せよと言わっしゃる
か。」
「日高見が鎌倉に屈する道理など、あろう
はずもなし。」
国衡が泰衡に同意して、盃の酒をぐいっと
飲み干した。
「日高見武士の意地もある。だが頼朝も
それでは引き下がれまい。」
と国衡が言葉を継いだ。
「鎌倉方がこの日高見を撃つというので
あれば、軍勢は二十万ほどになりましょう。
我らがこれを総掛かりで迎え撃つとなれば、
いずれが勝つにせよ、数万の兵の血が日高見
の大地を赤く染める事になるであろう。」
泰衡は束稲山の桜を眺めながら、淡々と
語った。
「鎌倉方の兵を日高見のふところ深く誘い、
糧道を断ち、戦さを冬まで長引かせ、その
間に水軍の精鋭が鎌倉を襲って火をかけ、
西国の反鎌倉勢を糾合すれば、鎌倉勢は
進退窮まりましょう。」
忠衡は床に絵図を広げ、扇で軍の動きを
指し示しながら、軍略を述べた。
「目下、陸中の宮古において、新たなる
戦船を建造し、水軍の兵を練っておる
次第。」
「うむ。」
国衡は忠衡の軍略に同意し、水軍の働き
に期待を寄せていた。そして鎌倉を奇襲
する水軍の総大将は、やはり義経しかある
まいと思っていた。泰衡は忠衡の軍略に、
少し困惑顔だった。
「さりながら、この戦さは避けねば
ならぬ。たとえ我らが鎌倉方を破った
として、それが何になろう。我らは坂東
の地を束ねる事など望んではおらぬ。
今、西国に平家無く、東国に源氏なしと
なれば、大和国は千々に乱れ、無用の戦さ
に明け暮れる世となるであろう。日高見
一国のみでは、勧進の成り立たぬが道理。
戦さ無き世を守り抜く事が、日高見の
大義にして、御館の示される仏心立国の
奥儀と申すもの。」
泰衡は湧き出す思いを熱く語った。
「うむ。確かに戦さ無く、坂東武者と
共存共栄出来るならば、それでよい。」
と国衡が言い、少し渋い顔をした。
「兄上。よもや頼朝に、日高見討伐の
院宣が下るような事はありますまいな。」
忠衡が泰衡に詰め寄った。
「その事なれば案ずるには及ぶまい。
後白河院の御心は、鎌倉の勝手を許さぬ
御決心にあらせられる。日高見在って
こそ、黄金やら絹が朝廷の方々を潤すと
いうもの。その道理がわからぬわけも
ないであろう。」
泰衡は正論を語る。だが少し読みが
甘いのではないかと、国衡は思う。頼朝
という男は、弟の義経でさえ切り捨てる
非情さを持っている。底知れぬ陰険さに、
本来真っ直ぐな性の国衡は生理的嫌悪を
感じるのである。頼朝は必要とあれば
朝廷をも切り捨て、院宣無しでも日高見
に攻め寄せる男ではないかと観ていた。
「だが備えねばならぬ。」
国衡がぼそりと言った。
忠衡は国衡をちらりと見てから、扇で
絵図を指した。
「日高見を攻むるに三道あり。一つは
白河関より信夫へ向かう中の道。二つ
は北陸道を出羽へ向かう道。三つは
常陸より海沿いを進む海道の道。」
「うむ。中の道は阿津賀志山に陣を
敷き、我が隊と佐藤基治隊、金剛別当隊、
金十郎隊などがこれに当たるであろう。」
と国衡が応じた。
「出羽の道はいかに。」
「大内兼任隊、由利惟平隊などの出羽衆
が、通衡を盛り立ててこれに当たる事に
なろう。だが三郎、大内・由利に寝返り
はあるまいの。」
国衡が忠衡に問うた。
「大内、由利共に、竹の如き真っ直ぐ
なる武人。加えて義経殿を戦神と崇め、
親しく酒を酌み交わした事にいたく感じ
入ったる様子。頼朝の理不尽に対し
て憤慨しておりましたゆえ、欲得ずく
の調略に乗せられるとは思えませぬ。」
「うむ。出羽衆を信じよう。すると
海道口は岩城衆よのう。」
「徳尼は御老体ゆえ案ぜられる。」
と泰衡が言った。岩城則道に嫁した徳姫
は、秀衡の妹である。
「頼朝本軍は、やはり中の道から来よう。
海道口は逢隈川あたりで我が隊が当たろう
ぞ。不幸にして岩城隊敗れれば、三郎の
水軍が徳尼を救い出すべし。」
泰衡が忠衡に命じた。忠衡は不服
だった。
「小次郎兄は弱腰に過ぎる。我が水軍の
向かう先は鎌倉なり。坂東の束ねは頼朝
でのうてもよいではないか。義経殿で
あってこそ、日高見との共存も可能と
申すもの。」
「むろん義経殿につく者もあろう。だが
梶原、北条の如きは承知すまい。坂東は
二分、いや四分五裂となるは必定。」
泰衡が忠衡の策を強く否定した。
「第一、義経殿が兄・頼朝との戦さを
望み、坂東の束ねとなるを望んでおろ
うか。」
泰衡の指摘に、忠衡は黙した。確かに
今の義経からは、かつて忠衡と山野を
駆け、平家討つべしの気概に燃えていた
荒々しい覇気は感じられなかった。その
点、別人と言ってもよかった。
三人の密議は夜半に及び、花宴は三日間
続けられた。猫間ヶ池には龍頭鷁首
(りゅうとうげきしゅ)の唐船が浮かび、
管弦の音が雅に響いた。毛越寺では仏事
が催され、延年の舞が奉納された。
一睡の夢の如き花宴の後、西行は秀衡に
今生の別れを告げ、出羽へと旅立って
いった。義経主従は、佐藤継信・忠信
兄弟の遺髪を納める為、信夫郡飯塚の
丸山城に向けて駒を進めた。医王寺が
佐藤一族の菩提寺であった。花の季節を
迎えた日高見の山野は、陽の光に溢れて
命満ち、眠くなる程穏やかだった。
第4章・日高見夢幻/頼朝は日高見国へ三方から19万の大軍を発する。