第1章・壇ノ浦/第2章・吉野静
第1章「壇ノ浦」京の都を落ちたとはいえ、平家は瀬戸内の水軍と制海権を握り、西国で強大な精力を有していた。この海上交易の利権に関して、藤原秀衡は熊野水軍に働きかけて源氏への寝返りを決断させる。その結果平家は赤間ヶ関の海戦に敗れ、壇ノ浦で滅んだ。 第2章「吉野静」朝廷の影響力を排除した武家政権樹立を目指す頼朝にとって、後白河法皇と親密で、背後に日高見勢力を擁し、軍事的才能に秀でた義経は、厄介な存在だった。頼朝は義経を追討すべくさまざまな謀略をめぐらせる。
第1章 壇ノ浦<1>
夢幻の如く桜花が散り、
萌え盛る若緑の草木が山野を覆って
いた。鳥獣の命満ちて輝き、春の
恵みを謳歌していた。穏やかな陽を
含む青空の下には、濃い潮の香を放つ
瀬戸内の海が、まどろむように広
がっていた。
安芸国(あきのくに・広島県)国分寺
の宿房を早朝に出立した慈海は、
山陽道を西に向かっていた。頑丈な
筋骨を墨染めの法衣で包み、素足に
わらじを履いていた。修験の心得が
あるとみえて、歩速が颯々としている。
大小の川を渡り、湿地を抜け、
極楽寺山の峠を登りきった時、日は
中天にあった。慈海は座るに程よい
石に腰掛け、竹筒の水を飲んだ。
樹林の間に、青い海原が見え隠れ
していた。
賑やかな雀の音声に、
雲雀のさえずりが重なり、
海猫の鳴き声が加わった。潮風の
涼しさと陽の光の中に、五体が溶けて
無くなりそうな心地よさだった。
「自然の法性即
極楽。人のみが修羅の気を放ち、地獄
を輪廻る。」
慈海は独り呟きながら、わらじを
履き替えた。
「ふむ。破れわらじか・・・」
擦り切れたわらじを見て、慈海は
苦笑した。
「愚僧が破れわらじなら、武者共も
また破れわらじよ。」
慈海はカラカラと笑いながら、再び
西に向けて歩き始めた。
道は、多数の軍馬によって踏み
固められていた。源範頼
率いる、平家追討軍が通り過ぎた跡と
思われた。慈海は峠を下り、夕刻前
に大野の浜に出た。海を隔てた対岸
に宮島があり、海中に厳島神社の
朱塗りの大鳥居が見えていた。
「おお・・・おるわ、おるわ。」
慈海は大鳥居を囲むように投錨
している、平家の戦船を見渡した。
三十挺櫓の中型戦船と十二
挺櫓の早船が、およそ百隻ばかりと
見えた。その中に、ひときわ大きな
朱塗りのからぶね唐船があった。
船首に黄金の龍を戴き、船尾の赤旗
が夕凪で垂れていた。
「あれが、安徳帝のおわす御座船
(ござぶね)なるや。」
二本の帆柱を持つ唐船は、外洋航海
に十分耐えられる千石船で、船師
(ふなし・航海長)やかこ水夫たちは、
実際に宋国(中国)や琉求(りゅうきゅう・
台湾・沖縄諸島)、大越(だいえつ・
ベトナム)や麻逸
諸国への航海経験を持っていた。
唐船の後甲板には、桜花など雅な
装飾を施した屋形がしつらえられて
いた。その周囲には、小薙刀を持した
腹巻姿の武者が十人程、守護と物見を
兼ねて巡回していた。また各船では、
日没に備えて水夫たちが、
船かがり火を準備していた。
その頃、ほの暗く森閑とした厳島神社
本殿には、平家一門が一同に会していた。
源氏打倒の戦勝を祈願し、神文を奉納
する為である。背後の原生林から、
苔むした冷気がさわさわと流れ込んで
いた。
厳島神社は、平家の氏神である。
そもそもは六世紀後半、聖徳太子が
小野妹子を全権とする遣隋使を派遣
した時代に、海上守護の神社として
建立された。それを平清盛が、勧進
(かんじん=貿易)立国の志を掲げて
大造営した。海上の大鳥居も、鶴が
羽を広げたような寝殿造りの屋代も、
平家の勧進船がもたらした富の所産
であった。
だが清盛が没すると、平家全盛の
栄華にもかげりの色が濃くなって
いった。源頼朝を頭梁とする坂東武者
が、平家勢力を倒すべく蜂起したので
ある。平家は京の都を一時放棄し、
瀬戸内・四国・九州の西国を束ね、
巻き返しを画策していた。
平家は、播磨国
福原(兵庫県神戸市)を都と定めたが、
源氏の副将・源義経の奇襲攻撃に
よって敗れ、讃岐国(香川県)屋島に
本陣を移した。しかし、またしても
義経は、屋島を奇襲した。平家本陣
の屋形は炎上消失し、平宗盛を総大将
とする平家の大船団は、最後の拠点
とも言うべき長門国(山口県)を目指す
ほか道はなくなった。平家は今、その
航海途上にある。
本殿に居並ぶ平家一門の表情は、
疲労と憔悴の色に曇っていた。神官と
巫女がうち揃うと、座の中央から二位
の尼が神前に進み出て、三種の神器を
献納した。剃髪した頭を白絹の布に
包み、墨染めの衣を身にまとっている
この老女こそ、平清盛の妻にして、
総大将・宗盛の母、時子の出家した姿
だった。
二位の尼の挙動や本殿の様子を、
もの珍しげに眺めているのは、御年
八歳の安徳天皇である。平家が安徳帝
と三種の神器を奉じている以上、源氏
武者は朝廷に弓引く逆賊という事になる。
だが源氏は、後白河法皇より「平家追討
の院宣」を賜っていた。ことに義経に
対しては、鎌倉の頼朝からも、後白河
法皇からも、三種の神器を奪還せよ
との厳命が下っていた。
安徳帝の横には、母である建礼門院・
徳子が、片時も離れずに付き添って
いた。徳子は清盛の三女であり、高倉
天皇の中宮となり、安徳帝を儲けたの
である。十二ひとえ単の艶やかな衣裳
からは、きゃら伽羅の香りが漂って
いた。
二位の尼に続き、内大臣平宗盛が
神前に進み、神官に神文を手渡した。
宗盛は、公事に用いる束帯
(そくたい)を着用していた。神官は
畏まって神文を受け取ると、神前に
向けて奉読を始めた。
宗盛の右隣には、二位の尼の兄・
権大納言時忠が、束帯姿で笏
を持したまま、苦虫を噛み潰したが
如き表情で瞑目していた。かつて
「平氏にあらずんば人にあらず」と
酒宴でざ戯れたのが、この時忠で
ある。
宗盛や時忠は文官であり、武将と
して戦さに加わった事はない。源氏
打倒の実質的な束ねは、宗盛の弟で
副将の、権中納言とももり知盛で
あった。知盛は、知行地である
長門国彦島(関門海峡)にいた。
ひと通り平家戦船の様子を見届けた
慈海は、矢車から伝え聞いた漁小屋
(いさりごや)を探す事にした。矢車は
今宵厳島神社を抜け出し、慈海と落ち
合う手筈になっていた。
矢車は平家の内情を探るべく、厳島
神社に巫女として潜入していた。巫女
の事を「厳島ないし内侍」という。参詣
する男たちに対しては、遊女も兼ねて
いた。矢車は居ながらにして、西国各地
の国情から公家の秘事まで、寝物語に
幅広く伝え聞く事が出来た。
そして、矢車の口から漏れた事柄は、
数日を経て京のかどで首途
八幡宮にもたらされる仕組みになって
いた。首途八幡宮は、日高見国の知られ
ざる根拠地だった。日高見国は、陸奥・
出羽を束ねる藤原秀衡の支配地である。
慈海は程なく無人の漁小屋を見つけ、
飯を炊ぐことにした。小屋
は塵と蜘蛛の巣に埋もれていたが、幸い
炭と土鍋があった。投網などの漁具も
あった。慈海は土間に穴を掘り、柴や
枯葉を集め、とう藤の蔦を擦って火を
起こした。荒れた小屋に、人の匂いが
戻った。
「どれ、ひとつ戯れてみるか。」
慈海は、投網を担いで浜に向かった。
夕陽で朱に染まった海面から、泳ぐ魚が
見えていた。慈海は手慣れた動作で網を
投げ入れ、ぐいっと手繰り寄せた。
すぼまった網の中に、七〜八匹の魚が
跳ねていた。
「ほう、鯵とな。上出来、
上出来。」
慈海は土鍋で粥を炊ぎ、鯵を炭火で
焼いた。程なく、月の無い闇が訪れ
ようとしていた。腹を満たした慈海は、
小屋の外に出て対岸の様子を見た。
平家の戦船がこぞって船かがり火を
焚き、炎の群れが海面にきらめいて
いた。寝殿は、巨大な朱の怪鳥の如く
ゆらめいていた。
「おお。一夜の夢とぞ見紛ふ。」
慈海はしばし、炎の織りなす光景に
酔った。
同じ頃矢車は、巫女の装束を墨染め
の法衣に改めていた。髪を後ろで一つ
に束ね、荷を詰めた麻の大袋を持した。
抜け巫女となる旨の書き置きを残すと、
単身弥山の森の小径に分け入り、
大野瀬戸の方角を目指して歩き始めた。
漆黒の闇だというのに、矢車は歩み
を止めなかった。その姿は山猫に似て
いた。時折、上空の空を見た。船
かがり火の爆ぜるかすかな音に、耳を
そばだてた。小半刻の後、
かねて用意の早船がある浜に出た。
矢車は浜から船を押し出し、素早く
飛び乗って櫓を操った。紫微星(しび
せい=北極星)を見ながら、心持ち左舷
寄りに船首を向けた。矢車は、船を自分
の体の如くに操った。
さらに小半刻の後、矢車は大野瀬戸
を渡りきり、慈海がいるはずの漁小屋
を目指した。船団のかがり火が、
かろうじて物の輪郭がわかるほどの闇
をつくりだしていた。
「慈海殿・・・」
魚を焼いたかすかな匂いを察知した矢車
は、小屋の外から声をかけてみた。
「矢車か・・・」
聞き覚えのある声にほっとした矢車は、
緊張の糸を解いて小屋の中に入った。
菜種油の灯火が燃えていた。慈海は土間
にむしろを敷き、巻紙を持して書き物を
していた。矢車の姿を見ると、筆を置き
対座を促した。
「御苦労であったな。」
慈海は矢車をねぎらい、微笑みかけた。
「なんの。毎日が楽しゅうござりました。」
「ほう。矢車は平家嫌いであったろうに。」
「平家は嫌いじゃ。されど平家を、狐の
如くたぶらかすのは気味がよい。おお、
それよりも慈海殿、土産がある。」
矢車は麻袋から、大きな鹿の皮袋を
取り出した。
「酒じゃ。醇酒(からざけ=濃厚な酒)ぞ。」
「おお、それは何より。矢車が観音の
化身に見ゆるわ。」
「好いた男の前では、女は皆、観音となる
ものぞ。それに、矢車の観音は評判が良い。」
「戯れ言を。坊主をからかうものではない。」
矢車は慈海の困惑した表情を、
面白そうにまじまじと見つめた。
「慈海殿はお坊様であられたのか。
矢車は日天丸の船長かと
思うておった。」
「うむ。時に中尊寺の勧進聖(かんじん
ひじり=貿易を行なう僧)となり、船に
乗り、旅もする。経も読むが酒も呑む。
時にはただの男にもなろう。」
「ならば破戒とは無縁か。」
「師無く戒無く宗無しよ。」
慈海はカラカラと笑いながら、頭陀袋
から塗り椀を取り出し、矢車に手渡した。
「矢車も呑むであろう。」
矢車は、椀をなつかしそうに眺めた。
「秀衡塗りよな。この匂い・・・平泉の
香りがする。のお、慈海殿。三郎殿は
息災か?」
「うむ。良き若武者ぞ。」
「幼き頃、日高見川(北上川)の川辺で、
三郎殿らと共によう水遊びをしたものよ。
上ってきた大きな鮭を捕らえ、焼いて
食うた。」
矢車は醇酒を呑みながら、目を細めて
遠い日の記憶を手繰り寄せていた。
「そうか。矢車は忠衡殿を慕うておった
とや・・・」
泉三郎忠衡。日高見の束ねである藤原
秀衡の三男である。矢車は、少し顔を
赤らめた。
慈海は矢車に焼き魚を勧め、自らも
醇酒を呑んだ。
「川遊びと申さば、義経殿もよう好んで
おられた。日高見川の川舟を自在に操り、
水練も得手でおわした。」
義経という慈海の言葉で、矢車は「今」
という時に引き戻された。
平家追討軍の副将、検非違使尉
(けびいしのじょう)・源義経は、鎌倉に
在る源頼朝の異母弟であり、屋島の陣で
水軍を募り、平家を追い詰めていた。
慈海は、義経が日高見国の客人
であった頃の昔語りを続けた。
「忠衡殿が、兄と慕っていた御人じゃ。」
慈海は微笑みながら矢車に言った。
「忠衡殿が・・・兄とな。」
矢車は、思わず身を乗り出した。
「左様。川遊びや水練、馬の遠乗り
など、よう御一緒であられた。」
「源義経殿と三郎殿が・・・ああ、
日高見の山野が目に浮かぶ。」
矢車はにわかに、義経という男に
関心を寄せた。
「源氏は勝てるか?」
矢車は慈海に、射るが如くに問うた。
「ううむ・・・わからぬ・・・」
「陸の騎馬では源氏じゃが、海戦
ならば平家だというのが、大方の見方
ぞ。一の谷も屋島も陸の奇襲じゃった
が、今度は違う。知盛は赤間ヶ関辺り
の難所に源氏を誘い、海に沈める胆と
聞く。」
矢車はさすがに、平家の内情に精通
していた。潮流が複雑で早い赤間ヶ関
は、海を知らぬ源氏にとって、圧倒的
に不利だと言いたいのだろう。その点
は慈海もよく承知していた。
「確かに坂東武者は海を知らぬ。されど
海を知る者が、少なくとも三人おる。」
「誰々じゃ?」
「まずは御大将・義経殿。その郎党の
武蔵棒弁慶。相模国の三浦義澄。」
「義経殿か・・・」
慈海は謎解きをするが如くに、ゆる
ゆると義経の生い立ちから語り始めた。
平治の乱で平清盛に敗れた義経の父・
義朝は、家臣・長田荘司忠致(おさだの
しょうじただむね)の騙し討ちによって
非業の死を遂げる。母の常盤は大和国に
逃亡。しかし逃げ切れぬと悟り、平家に
自首する。清盛は常盤を側室にする事を
条件に、三人の子を助命し、寺に預ける。
そのうちの1人が、七歳で鞍馬寺に預け
られた牛若丸であった。
十六歳の春、牛若丸は鞍馬寺を抜け
出し、諸国を放浪しながら、平家の監視
の目が及ばぬ日高見国にたどり着いた。
「義経殿は、京を凌ぐ平泉の賑わいに、
ただただ驚いておわした。」
矢車は大きくうなずいた。京の公家
たちが蝦夷よ、北の蛮族よと蔑む異境の
地に、二十万もの人々が暮らす黄金の都
があろうなどとは、実際目にした者で
なければ到底信じられようはずも
なかった。
「義経殿は、いかにしてこの都が出来た
のかを知りたがった。わしは勧進船と
答えた。平家の繁栄も船にあると加え
たら、義経殿の目の色が変じたわ。」
「慈海殿は、人の心を釣るのも巧みじゃ
のう。」
矢車は、笑いながら醇酒を呑んだ。
「義経殿は、海の彼方の国々よりも、
海や船そのものについて知る事を欲さ
れた。平家は強き水軍を有するゆえに
の。義経殿は常に、平家を倒す事のみ
を念じておわした。」
「そうよのう。義朝殿亡き後、源氏は
風前の灯にまで追いつめられたから
のう。」
「そこでわしは、忠衡殿と共に義経殿を、
計仙麻湊(けせまのみなと・宮城県
気仙沼市)へお連れ申した。」
計仙麻は、日高見国の重要な湊の一つ
であり、矢車が生まれた室根神社の近く
だった。
「義経殿は、科をりも身が軽うなると
申され、海での水練を好まれた。され
どある時、早潮に流され危うく海に
呑まれるところを、忠衡殿に救われ
申した。」
「早潮とは、大島瀬戸の辺りか。」
「左様。鶴が浦の手前より大島まで、
忠衡殿と泳ぎ比べをなされた折の事。
義経殿は、海の中に川があるとの仰せ
であった。そこでわしは、潮の流れに
ついてさまざまに御教え申した次第。」
矢車は忠衡が義経の命の恩人である
と知り、嬉しそうだった。
「義経殿は、早潮の恐さを身に刻んで
おられる。故に赤間ヶ関に無策のまま
突入し、知盛の術中にはまるとは思わ
れぬ。」
「義経殿は、人の虚を突く奇襲を好む
と云うが。」
「赤間ヶ関では通じまい。源平の水軍が、
正面からぶつかりあう戦さとなろう。」
「この矢車の知る限り、瀬戸内の水軍
は皆、どちらに合力するか決しかねて
おる。」
「うむ、そうであろう。源平双方の使者
が、大三島や伊予に出向いておろう。
問題は屋島の合戦よ。平家が屋島本陣を
手放した事は大きい。義経殿は水軍も無し
に、わずか百五十騎あまりで屋島本陣を
焼き討ちしたのじゃから。」
「まさに日高見の戦さぶりよな。」
矢車が誇らしげに言った。慈海は複雑
な思いだった。義経に、少数の兵による
奇襲について語って聞かせたのが、他
ならぬ自分だったからである。
慈海は義経に強く望まれて、源氏の
戦神と崇められている
八幡太郎義家や、その父・陸奥守頼義
(よりよし)の、日高見での戦さぶりに
ついて語った。
その際、頼義が陸奥鎮守府将軍に
任じられ、日高見国に遣わされる
端緒となった、鬼切部(おにきりべ・
宮城県鳴子町鬼首
での合戦についてまず語った。
義経が生まれる百年以上昔、日高見
の束ねは安倍一族が行なっていた。
阿倍氏は、崇神天皇の世に北陸に
出向いた大彦命
の子孫とされ、大化改新時の左大臣・
阿倍倉梯麻呂を祖と
する。斎明天皇の代、征夷大将軍と
して日高見国に赴いた阿倍比羅夫
(ひらふ)の末が、陸奥・出羽を
領有した。
阿倍一族は大和朝廷に対し、租税
を納めぬ国であり、国境は平泉を
流れる衣川であった。阿倍頼良は
衣川を南下し、大和領内に侵入。
多賀城(宮城県多賀城市)を国府
とする陸奥守・藤原登任
軍数千は、阿倍軍を討つべく
玉造柵より
鬼切部方面へと兵を進めた。
阿倍頼良の子・貞任
は、雪深い栗駒山から三百余の兵
で、鬼切部の登任軍を奇襲。虚を
突かれた陸奥国府軍は大敗した。
「義経殿はこの戦さ話を好まれた。
実際に貞任軍の足跡を辿り、栗駒山
山頂から鬼切部のいでゆ出湯まで、
幾度も馬で遠乗りされ申した。
道険しく、馬さえ恐れる急坂も
多い。そうした下地無くして、
一の谷の鵯越え(ひよどりごえ)
の奇襲は無かったであろう。」
矢車は驚きと感嘆の表情で、慈海
をまじまじと見つめた。
「では源氏の勝ち戦のおおもとは、目
の前におわす慈海殿という事じゃな。」
「わしは義経殿に、日高見の昔語りを
したのみぞ。実際行なうたは、義経殿
の力量と申すもの。」
「忠衡殿が兄と慕うだけの御方じゃ。」
矢車は酒と慈海の話に酔い、頬を紅潮
させていた。
「阿倍と申さば、筑前国(福岡県)の松浦党
(まつらとう)が、阿倍宗任の末と称して
おるのお。」
「うむ。源頼義に敗れ、宗任は大宰府に
移されたからのお。その松浦水軍が平家
の主力となろう。」
「いかに義経殿1人が優れておっても、
手足となる水軍の合力無くば、松浦党
には及ぶまい。」
「その事よ・・・熊野が動く。」
矢車は一瞬絶句した。
「熊野が・・・・真実か?」
矢車は大きく瞳を見開き、身を乗り
出して慈海に詰め寄った。
「御館が一の谷の戦さの後、
熊野詣でに行くと申されての。」
「秀衡様が・・・」
瀬戸内の事情に通じている矢車で
さえ、それは知らぬ事だった。
「水軍は親族の絆で結ばれておる。
鎖の如きものじゃ。熊野が源氏に合力
するとあらば、大三島が動く。大三島
が動けば、伊予国(愛媛県)の河野も、
因島の村上も、瀬戸内の水軍衆は
こぞって源氏に合力するというもの。」
矢車は興奮と喜色の様子で、椀の
中の醇酒を、喉を鳴らして飲み干した。
「勝てるやも知れぬ。義経殿は・・・
御館様は・・・」
矢車は何かを語ろうとして、椀を取り
落とし、そのまま体を丸めて軽い寝息
をたて始めた。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第1章 壇ノ浦<2>
日高見国の都・平泉の関山中尊寺は、
850(嘉祥3)年、慈覚大師円仁を開基
とし、秀衡の代には寺塔四十、禅坊
三百余の大伽藍となっていた。
比叡山延暦寺から分灯された不滅の法灯
が、絶える事なく燃え続けている。
その中尊寺供養願文の中で秀衡は、
「出羽・陸奥の土俗、風にしたがう草
の如く、粛慎・悒婁(ゆう
ろう)の海蛮も向日葵に類す」と述べて
いる。粛慎・悒婁とは、沿海州黒龍江
流域に群居する大集団の宋名で、その
一部の女真族は「金」を建国し、
宋国を北部から圧迫していた。
秀衡の統治する日高見国は、縄文の
昔より渡島(わたりじま・北海道)や
樺太を含む北方地域と、勧進(貿易)に
よって共存共栄していた。秀衡は
そうした北方全域を念頭に入れて、
国というものを構想していた。秀衡は
平泉を、北方地域の仏教の都として
太陽の如く輝かせ、仏の慈悲の光で
あまねく照らそうという、「仏心立国」
を願っていた。
戦さ無き世を願う秀衡に、領土的
野心は無かった。むしろ、坂東は源氏
が、西国は平家が分割統治する事を
是としていた。しかし、その秀衡が
動いた。それは、平家を滅ぼす事に
なるかもしれない動きだった。
秀衡は、義経に与えた家臣・
佐藤継信から、一の谷
合戦の詳細な戦勝報告を受け取って
いた。秀衡は喜ぶでなく嘆くでなく、
押し黙ったまま長い間物思いに
ふけっていた。
春が去り、夏が過ぎた。秀衡は
尾張国(愛知県)常滑から戻った
ばかりの慈海を、伽羅御所(きゃら
のごしょ)に召し出した。
「日天丸は今、何処におわすや?」
秀衡は野太い体躯をどっしりと構え、
柔和な表情で慈海に問うた。
「牡鹿湊(宮城県北上町)にて荷を
降ろし、船番匠の蔵にて傷みを補修
しておりまする。」
「慈海殿。熊野までの供を願いたい。」
「熊野とは、紀州(和歌山県)の
熊野大社にござりましょうや。」
「うむ。承知願えるや。」
「御館の仰せとあらば。」
慈海は早速、日天丸の船師(ふなし・
航海長)権蔵のもとへ、伝令を送った。
日高見川を下る早舟は、その日の夜
牡鹿湊に着いた。
翌日には、平泉の川湊から三隻の
川舟が荷を満載し、牡鹿湊へと下って
いった。第一船には、砂金・練絹・
天竺(印度)産の宝石・香料類・象牙・
硝子玉など、熊野大社に奉納する品々
が積まれていた。第二船には、味噌・
菜種油・酒・米・餅・鳥獣の燻り肉
などの、食料品や雑貨。第三船には、
鎧兜・大小の薙刀・黄金造りの太刀・
弓や矢束・鞍や鐙などの武具と馬具
が積まれていた。
宋国で建造された日天丸は、船底
に付着した貝類を掻き落とし、漆や
樹脂での補修を終え、湊の舟瀬(岸壁)
に静かに錨を下ろしていた。日天丸は、
日高見国が所有する唐船の中で、最も
大型の勧進船だった。船長十八間、幅
五間、帆柱四本・補助帆柱二本、船室
六十。両舷に三十の櫓を備え、かこ水夫
四百人が乗船する。
牡鹿湊では、水夫たちが忙しく働いて
いた。川舟の荷を日天丸に積み替え、
水桶に水を満たし、甲板を海水で洗って、
秀衡の到着を待ち受けていた。熟練の
船師の権蔵と、舵師の徳衛門、毛越寺
の若き勧進聖である宗海と龍海らは、
絵図を見ながら航路を確認し、これ
までの航海記録から、天候と風向き
を予測していた。
稲妻の異名を持つ水夫長
の為蔵は、川舟の第二船の荷を移すに
際し、水夫らを集めて言った。
「者ども、よう聞け。これらの酒と肉
は、御館様が我ら水夫たちへと下し賜
ったものである。御館様は、我ら一人
一人の事まで御心に留め置かれる、御仏
の如き御方にあらせられる。御館様こそ
が、この日天丸のふなだま船霊様である。
御館様の御心に報いんが為、気張れや者
ども。」
為蔵の大音声に水夫
らは奮い立ち、勝どきをあげてそれに
答えた。中には感極まって号泣する者も
あった。彼らは純粋に、御館・秀衡を
信仰している風であった。
その秀衡は、川舟の荷を発した二日後、
伽羅御所を後にした。慈海と三郎忠衡以下
僅かな家臣だけを乗せ、川舟は滑るが
如くに日高見川を下っていった。秋晴れ
のさわやかな朝だった。
秀衡は白髪に冠を戴き、薄えび葡萄色
の直垂を着し、腰に黄金造り
の太刀を帯びていた。ほぼ平服であった。
しかし泰然自若と座したるその風格には、
北の王者としての威風が満ちていた。
秀衡の左右には、慈海と忠衡が座し
ていた。秀衡は船館の窓から、青白き
奥羽連山の姿を眺め、たわわに実る
黄金色の稲穂を見ていた。
「今年は夏暑く雨もほどほどゆえ、
よお実ったのお。」
「まことに。いつ見ても良き眺めに
ござりまする。」
秀衡の言葉に慈海が応じた。
「されど、畿内や西国は凶作と聞く。
いかに日高見が実り豊かとは申せ、
西国までは手が及ばぬ。」
秀衡はそう憂いながら、紅葉に色
づいた栗駒の遠い山並みを眺めていた。
「のりより範頼の鎌倉勢は、安芸国
あたりで飢えに苦しみ、いなごの群れ
の如き野盗働きの惨状と聞き及びま
する。」
忠衡が、平家追討軍の主将・源範頼の
無能をあざ笑うが如く、才気溢れた
口調で言った。
「戦さになれば、常に民が苦しむ。家
を焼かれ、田畑を荒らされ、女が奪わ
れ、地獄絵図の如き有り様と化しまする。
民の束ねたる者は、民の豊かなるを
もって我が喜びと心得なされ、忠衡殿。」
秀衡は、忠衡の才気を愛でながらも、
その戦さ好みを戒めた。
「御館。忠衡は米のみに片寄る、坂東
武者の政について申して
おりまする。米の出来は年によって変じ
まする。不出来の年には蓄え蔵開き、民
の飢えを補うのが政と申すもの。その
蓄え蔵満たすは、勧進船がもたらす富に
よるものと心得まする。されど坂東武者
は、船に関心がござりませぬ。範頼が事
も、根を手繰れば頼朝の無策が招いた
もの。」
秀衡は忠衡の言葉を、うなずきながら
聞いていた。
「忠衡殿は、頼朝という男をいかに観て
おられるや。」
「鎌倉の如き男かと。」
忠衡は即答した。
「鎌倉の如きとは、いかなるはら胆ぞ。」
「鎌倉は三方を山に囲まれ、一方は海。
騎馬武者は海を防壁と観るゆえ、小さき
穴蔵に隠れ住み、恐さに震える胆の細き
男と観まする。」
忠衡の観るとおり、頼朝は十三歳で伊豆
の地に流刑となって以来、平家の監視の目
に絶えず晒される中で、保身を謀ってきた
男には違いない。日々写経を友とし、表に
柔和な相を装いながら、胆の内で復讐の
牙を研ぐ。守りに堅く細心でもある。その
男が、坂東武者の頂点に君臨している。
秀衡は忠衡に、義経の相を重ねていた。
似ている。性は伸びやかで心情の曲がり
少なく、機知に富む。それが人から好ま
れる。だが頼朝は違う。性は陰気で細心
だが、その慎重さが鎌倉の武者政権を
可能にしている。
(侮れぬ・・・)
と秀衡は思う。
川舟はゆるゆると日高見川を下り、新田
柵を過ぎ、桃生に
向かって南下していた。日は中天にあった。
「忠衡が鎌倉を攻むるならば、戦船で沖を
囲み、夜襲して火を放ちまする。翌日には
陥ちましょうぞ。」
もっともだと秀衡も思う。戦さには勝とう。
だが、頼朝の束ね無き坂東を何とするか。
小群麻の如く乱れるだけの結果となりは
せぬか。
忠衡は焼き栗を食し、醇酒を呑みながら
ほがらかに語った。
「忠衡が坂東の束ねならば、鎌倉如きを都
とはいたしませぬ。」
ほお、と秀衡は思った。国づくりの構想は、
秀衡が最も好む話である。
「忠衡殿ならば、どの地を良しとなさるや。」
「左様。下総の香取湊(茨城県霞ヶ浦)、
利根の水系を用いまする。利根は暴れ
川ゆえ、大水の害を鑑み、上総
(千葉県)に広がる高台に都を造り
まする。しかる後、宋国の如く
大水路を掘り抜き、唐船が往来する
水の都を目指しまする。」
「湊は何とするや。」
「日高見の産物は、銚子湊で受け
まする。されど香取は浜多く、良き
湊少のうござりまする。総州の内海
(東京湾)に湊を開き、尾張との間に
回船を整えるのが一番と存じまする。
さらに、武蔵国江戸崎を整えて湊と
成せば、内海全体が一つの湊とも
成りましょう。」
いつかは、と秀衡は思った。その
ような国づくりを推し進められる
時期がくるやも知れぬ。だが頼朝
では叶わぬ。さりとて忠衡では、
坂東武者が従うまい。義経はどうか。
あるいはと思った。義経と忠衡
ならば叶うやもしれぬ。秀衡は
漠たる思いで外景を眺めた。醇酒
で火照った体に、涼やかな川風が
心地良かった。日は赤みを増し、
船形連山の方へ傾き始めていた。
川舟は西日を背にし、大きく舵を
切って東へ方向を変じた。
「見事な夕映えゆえ、明日も良く
晴れましょう。」
秀衡と忠衡の話をじっと聞いていた
慈海が、夕陽を見ながら言った。
「それは何より。無理をせず、ゆる
ゆるとまいりましょうぞ。」
秀衡は、忠衡と慈海を見比べながら
答えた。
「忠衡殿は、良き指南役を得たものよ。」
秀衡は慈海を見て微笑んだ。慈海は
苦笑しつつ、秀衡に黙礼した。
日が没して闇が訪れた頃、川舟の
前方にかがり火が見え始めた。牡鹿湊
であった。日天丸の船体が、炎の中に
ぼんやりと浮いていた。
「出立は明朝ゆえ、今宵は湊の客殿
にてごゆるりとあそばされますよう・・」
慈海は、秀衡と忠衡に言った。
川舟が湊に着くと、秀衡一行は
日天丸の水夫四百人に出迎えられた。
秀衡は船師の権蔵以下、目に止まった
水夫らに、
「よろしゅうお願い申しまするぞ」
と、丁寧に声をかけていった。水夫
たちは間近に見る秀衡の威光に硬直し、
やがて感涙に変じていった。
翌早朝、日天丸の甲板で昇る日を見て
いた権蔵と水夫四人が、後甲板の館に
呼ばれた。慈海がからづくえ唐机上の、
大きな布を指差した。
「主帆柱に高く掲げよ。」
「畏まって候。」
権蔵らは恭しく布を抱え、主帆柱の大綱
に旗の端を結び、するすると綱を引き
下げた。紺地錦に金糸の刺繍を施した、
藤原家の四つ目菱家紋の旗が、朝明け
の風の中に翻った。
慈海は水晶の大数珠を首から下げ、
両手に赤地錦の旗を持して、前部主帆
柱の前に立った。慈海は大数珠を持して
印を結び、大日如来の真言を唱えて
航海の安全を祈願してから、日天丸の
船旗を掲げさせた。朝日の中に、金糸
の大日如来の梵字がきらめいた。
次に慈海は船首に進み、甲板に塩を
盛り、観世音菩薩の真言を唱えた。船
首には、黄金の如意輪観音像が据えら
れた。
「銅鑼を鳴らし、出港準備にかかれ。」
慈海は権蔵に命じた。合図の音を聞き
つけ、水夫たちが続々と乗船してきた。
慈海は湊の館に向かい、秀衡一行を
日天丸に案内した。う卯のげこく下刻
(午前七時)、慈海は錨の巻き上げと、
帆上げを命じた。甲板上の水夫たちが、
巧みに綱を操り、天竺木綿の白帆が
張られてゆく。船首と船尾の弥帆
(補助帆)も満帆に張られた。
湊と船を繋いでいたとも綱が解かれ、
錨も巻き上げられた。出航のほら貝が
響き渡った。
「面舵十度。漕ぎ方始め。」
後甲板に立っている慈海の指示を権蔵
が復唱し、舵師の徳衛門と、竹筒伝声
管を通して船底の水夫長・
為蔵に伝えられた。日天丸はゆっくり
と湊を離れ、牡鹿海へと漕ぎ出して
いった。
しばらくすると、戌亥の風(北西風)
が程よい追い風となって吹き始めた。
「面舵戻せ。両舷半速前進。」
右舷と左舷の三十挺の櫓が、一定の
調子で波を分けてゆく。船は波に揺ら
れて上下左右に揺れながら進んでいた。
慈海は甲板を見回り、全て順調で
ある事を見届けると、後の操船を権蔵
らに託した。日天丸はこの後、黒瀬
(黒潮)の縁に沿って南下し、常陸との
国堺・岩城湊(福島県いわき市)を目指
した。
忠衡は宗海や龍海と共に、権蔵や
徳衛門から船にまつわる話を伝習し、
水夫らとも気軽に言葉を交わしていた。
秀衡は下の客室から甲板上の船長館に
来て、床に固定された唐椅子に腰掛け、
海を見ていた。
「御館。船酔いなど召されませぬや。」
慈海は船長館に入り、秀衡の様子を
伺った。秀衡は、丸い唐机の上に椀を
置き、その中をじっと見ていた。
「慈海殿。ささ、これへ。」
慈海は勧められるまま、唐椅子に腰
掛けた。
椀の中には水が半ばまで張られ、
1本の平たい金具が木片の上に浮いて
いた。
「指南針(しなんばり・方位磁石)に
ござりまするな。」
慈海の言葉を聞いて、秀衡が軽く
笑った。
「戯れに鋳掛師に造らせた
ものでしてな。砂鉄にこ胡の国
(ペルシャ)の陶匠が
青純色を出す時に用
うる粉を混ぜ、焼き上げたと聞か
されましてのお。」
慈海はふと、北方の王者・秀衡の
童の如き無邪気な横顔を垣間見たような
気がした。
「誠に不可思議なる物。針先は常に
紫微星の方角を指しておりまする。」
慈海が指南針を見ながら言った。
「この大地も海も、丸き球の上に
乗り、宙に浮いておると申す者がおる。こ
れは球が浮く力に関係すると。慈海殿
は聞き及ぶや。」
「それがしも聞き及びまする。宋・天竺
の西に大秦(だいしん・ローマ帝国)、
黒人国の仁波笛(ジン
バブエ)の事など、宋国の船長より聞き
及びまする。さらにその西には、渡島の
民が渡った陸地有りとの事。おそらくは
日や月の如く、大きな丸き球やもしれま
せぬ。」
秀衡は指南針と海とを見比べ、我が
身の小ささを嘆いた。
「経文に、一滴乾坤を潤す、と申す言の葉
がござりまする。釈尊の悟りより仏法の
大海生じたるが如く、御館の仏心立国の
御心、必ずや大海の広がりと相成りま
しょう。」
「ふうむ・・・」
秀衡は腕組みし、黙想した。
日天丸は穏やかな波間を、順調に航海
していた。夜は半月の月明かりと満天の
星々が、進路を照らしていた。秀衡は
客室で、蝋燭の灯火の下、経文を読ん
でいた。
夜が明けると、右舷の彼方に蔵王連山
が見えていた。舵師の徳衛門は、山頂と
船の角度から、現在地を割り出していた。
「岩城湊は日暮れ前よのお。」
権蔵は日焼けした顔を両掌でバシバシ
叩きながら、徳衛門に言った。
昼過ぎに、蔵王連山は右舷後方に霞み、
見えにくくなっていた。波が少し高く
うねり始めた。権蔵も徳衛門も、風向き
や湿りの微妙な変化から、勘働きを効か
せた。
「向こうか。」
権蔵が左舷前方を指差した。
「吾主もそう思うや。」
徳衛門がうなずくと、権蔵は慈海を呼び
に行った。
「船長。八丈島沖に大嵐の気配。」
「八丈沖か。」
慈海はすぐさま、船底の水夫長を呼び
出した。
「為蔵、大嵐が来る。まだ遠いが急ぐ。
一刻程耐えよ。両舷全速。」
「承知。」
その後、為蔵の激が船底に響き渡った。
日天丸は速力を上げ、相馬海を南下
した。船は除々に高まる波に揉まれ、
上下左右に揺れた。やがて徳衛門は、
夕陽の方角に那須岳の山並みをとらえ
た。船は面舵を切り、ゆるやかに岩城湊
を目指した。権蔵は船首に立って水先を
務めた。鉛錘をつけた尺縄で
水深を測りながら、日天丸を断崖の奥の
舟瀬に導いた。
岩城領主・岩城則道のもと
には、秀衡の妹・徳姫が嫁していた。夫
亡き後は尼となり、白水阿弥陀堂と浄土
庭園を建立し、静かな余生を過ごして
いた。
「嵐過ぐるまで、四〜五日逗留と相成り
まする。」
慈海は、秀衡一行を出迎えに現れた
徳尼と岩城家臣団にそう告げた。馬上
の人となった秀衡一行を見送ると、慈海
は日天丸の旗を降ろし、帆を巻き上げて
嵐への備えを急いだ。
権蔵や徳衛門の勘働きに狂いはなく、
やがて温かく湿った辰巳の風(南東風)
が強く吹き始め、雨雲が空を覆った。
高波が三崎の崖を洗い、白い波しぶき
をたてていた。翌日にはさらに風雨が
強まり、滝の如き豪雨が岩城の山野を
洗った。
秀衡は徳尼の琴を聞き、昔語りなど
して悠然としていた。水夫らは酔い
つぶれて眠る者多く、良い休息と
なっている様子だった。
「嵐はじっと通り過ぐるを待つが肝要」
と、慈海は常々口にしていた。権蔵ら
も、鯛のなますなどを肴にして寡黙な
酒を呑んでいた。
三日目の夜になって、雨が止んだ。
権蔵らが外に出てみると、月光と星が
輝いていた。風は戌亥(北西)に変じて
いた。
「過ぎたな。今頃は日高見で暴れて
おるじゃろうて。」
権蔵は水夫らを集め、日天丸に向かった。
翌朝、秀衡は徳尼との別れを惜し
んだ。今生の別れと心細げな徳尼の
涙に、さしもの秀衡も涙を浮かべた。
さしたる損傷もなかった日天丸は、
錨を巻き上げ、戌亥の強風を追い風
にして鹿島海へと漕ぎ出していった。
日天丸は房総沖・伊豆沖を渡り、
駿河沖の黒瀬反流に乗って、八日後
の朝、尾張国常滑湊(愛知県常滑市)に
着した。湊では武具を降ろし、秀衡
一行は藤原館に入った。館では、
奥州産の馬百匹の荷駄隊を引き連れ
た、藤原家家臣・堀弥太郎景光が
待ち受けていた。京の都では、金売り
吉次の異名の方が知られている男で
ある。
「御館。お疲れにはござりませぬや。」
吉次は伽羅御所に似せた客殿で、
秀衡と対面した。
「うむ。あの荷を、堀川の和子の
もとへ届けてくだされ。一の谷の
戦勝祝いと申しての。」
この頃義経は、京・堀川の館に住まって
いた。秀衡は義経を「和子」と
言って、わが子と変わらぬ扱いをして
いた。
「畏まって候。」
「それにの。京の首途八幡と武蔵望弁慶
に、この度の熊野詣での事、伝えてくだ
され。」
義経の郎党・武蔵望弁慶は、熊野水軍を
束ねる湛増の子である。万事
抜け目なく差配する吉次は、この言葉
だけで秀衡の胆を了解
した。
第1章 壇ノ浦<38>
紀伊国(和歌山県)熊野三山は、
遥か古代からの聖地であり、
天皇・公家の行幸も多い。熊野川
下流の新宮には、全国三千の熊野
総本宮・熊野速玉大社がある。
熊野新宮の別当(長官)・湛増の
支配地である。
湛増は、源氏の戦神・八幡太郎
義家の孫・六条判官為義の血筋で
ある。為義の十男は、新宮十郎行家
である。後白河法皇の二男・以仁王
(もちひとおう)が下した平家追討の
令旨を、行家が奉持して使者となり、
全国の源氏に蜂起を促して回った。
その結果、源三位頼政が京で挙兵し、
源頼朝が伊豆で兵を挙げた。
だが湛増は、行家という血族の
反乱者の行状を、平清盛に細かく
注進した。そればかりか、新宮の
源氏勢力である土井法眼、那智の
執行法眼を一千騎の手勢で攻撃し、
平家に対して忠節の胆を見せている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第1章 壇ノ浦<3>
熊野は、伊勢・志摩の隣国である。
昔から平家の勧進との絆が強い。百年
程前に、平これひら維衡が伊勢守と
して赴任し、伊勢平氏の祖となった。
清盛の父・忠盛は、九州・有明海に
面した肥後国神埼荘(佐賀県神埼町)
の湊を拠点として宋国との勧進を
行い、富を蓄えた。
宋国の綾・錦織物・陶磁器・伽羅
などの香料・薬草・書物・仏像や
仏具などは、日高見国との商いで
砂金へと変じ、砂金は京の公家に
流れた。公家は忠盛に正四位の官位
を与えた。知行国も増し、清盛の代
に至っては、播磨・淡路・讃岐・
備中・周防・安芸・備前など、
中国・四国・九州に三十余の知行国
と五百の荘園を得るに至った。
湛増は、南紀一帯の水軍を束ねて
いる。水軍といっても、平時は漁
(いさ)りと勧進を生業と
している。南紀は伊勢と瀬戸内の
中間にある。平家の勧進が南紀
水軍の基であり、血筋など二の次
だと、湛増は思っていた。海を
知らぬ坂東武者に合力する事など、
考えてもいなかった。
その湛増が、館の一室に山と積ま
れた、熊野速玉大社への奉納品の前
に座し、困惑顔で考え込んでいた。
錦の袋の山。中には砂金が詰まって
いる。練絹や宋・天竺の珍宝など、
天皇の行幸に際しても前例のない
品々だった。
「秀衡という男、胆が読めぬ。」
日高見国は、勧進を通じて平家
とは唇歯の関係にある。
平泉には熊野社があり、秀衡も
深い信仰を寄せている。それだけ
なら湛増も困惑しない。だが秀衡
の熊野詣でを先触れしてきたのは、
義経が住む京・堀川館から急ぎ
駆けつけた弁慶だった。秀衡が
義経を和子と呼び、子か孫の如く
愛でている事も知っている。
「秀衡はこのわしに、義経に合力
せよと勧めに来たのか・・・
わからぬ。」
わからぬまま、夕刻の酒宴と
なった。湛増は客殿で、「過分
なる奉納品」の礼を述べ、秀衡と
並んで座した。下座には忠衡と
慈海。そして末座には、麻の
白頭巾を巻いた法衣姿の弁慶が、
黙然と座していた。各々の前
には、山海の珍味を揃えた酒肴
の膳が並んでいたが、宴という
よりは、余人を排した密談の場
かと思われた。
客殿からは、熊野灘が望めた。
日天丸が帆を巻き上げ、錨を下ろ
している姿があった。
「良き唐船にござりまするな。」
湛増が盃を傾けながら言った。実際
にはもっと驚いていた。湛増は福原湊
(神戸市)において、平家の唐船を見た
事がある。しかし日天丸より小さく、
帆も竹の皮を編んだものだった。
それに比して、日天丸の天竺木綿の
白帆はこの上もなく美しかった。
朱塗りの船体と海の青、白帆の取り
合わせは、熊野の神の御使いかと
見紛うばかりだった。
日天丸船首の黄金の如意輪観音像
が、夕陽をうけて輝いていた。湊に
群がり集まった熊野の水夫衆らは、
船そのものに感嘆し、観音像に合掌
していた。
「宋国にはさらなる大船があり、
天竺の大海を渡ると聞きまする。」
秀衡が海を眺めながら、ゆったり
とした口調で言った。これが北の
王者かと、湛増は思った。人を束ねる
懐の深さは、清盛同様かと感じられた。
だが、脂っこい生臭さを持つ清盛に
比して、秀衡には俗気というものが
あまり無いかと見えた。
「琉求からこの熊野
まで、かの船ならば五日余りで着し
ましょう。」
秀衡の言葉に湛増は唸った。熊野
の船は伊勢と瀬戸内を往来するが、
黒瀬は渡れない。秀衡は、宋・琉求
と日高見の中継地に熊野が位置する
と語っている。
「されど・・・」
と、秀衡は続けた。
「春より秋にかけ、黒瀬の渡りには
嵐多く、寄るべき湊、少のうござり
ましてな。」
海を知る湛増だけに、秀衡の胆が
読めた。北の海みち(日本海)にも
黒瀬はある。だが冬は荒れる。やはり
瀬戸内の穏やかな海を渡るのが望ま
しい。秀衡は、瀬戸内の勧進航路を
欲していると観た。湛増は懐から
瀬戸内の絵図を取り出し、床に広げ
た。絵図には大小五百二十五余りの
島々と、潮流、水軍の領域などが
細かく墨描きされていた。
秀衡も忠衡も慈海も、思わず膝
を乗り出して絵図に見入った。
「平家は今、讃岐国(香川県)屋島
に本陣を設けて瀬戸内の東の口を
塞ぎ、中納言知盛殿の知行地、
長門国(山口県)赤間ヶ関において
西の口を塞いでおりまする。」
湛増は扇を使って絵図を指した。
「左様。瀬戸内を塞がれては、
勧進船の往来が滞りまするな。」
秀衡がそう応じた。
その塞がれた袋の中に、塩飽・
大三島・村上・河野・真野などの、
屈強の水軍がすっぽりと収まって
いる。全て平家の傘下と観てよい。
さらに背後には、筑前国(福岡県)
の松浦、筑後国(熊本県)の山賀
など、平家の勧進船とゆかりの
深い水軍衆が控えている。まさに
巨大な海上王国の様相だった。
「これに立ち向かうは、それなる
弁慶が一人小舟に乗り、弓矢にて
鯨と渡り合うが如し。愚にござ
ろうや。」
湛増は、富士川や一の谷で大敗
し、京の都を失っているとはいえ、
なお巨大な平家の勢力について
語った。海を知らず、軍船も無い
坂東武者に、この海上王国を崩せる
道理が無かった。現に範頼軍二万の
兵は、遠征先の安芸国で飢え、壊滅
寸前なのである。
湛増の胆を読み、不敵な笑い声を
あげたのは忠衡だった。
「鯨にも急所はござろう。」
湛増は忠衡を、ぎろりと睨むが
如き目線で射た。
「忠衡殿でござったな。貴殿は鯨
を御存知なるや。」
「日高見の海にも鯨はおりまする。
鯨に銛を刺せぬは、範頼が無能ゆえ。」
面白い男と、湛増は思った。忠衡
は冴えた目で絵図を見ていた。
「袋の口を切れば、中の豆は四散
しましょう。」
そう言って忠衡は、閉じた扇の先端
で屋島を指した。
「ほう。忠衡殿は屋島を攻むると
申さるるや。」
「いかにも。」
湛増は、自信に満ちた忠衡の言葉
に疑念を抱いた。讃岐国屋島と備前国
(岡山県)の間には、女木島・
男木島・小豆島・とよ豊島・
井島・直島などの島々があり、
陸と海に平家の武者と軍船が厳重に
防備を固めている。範頼軍二万でさえ、
うかつに手出しが出来なかったほど
である。
「忠衡殿ならば、幾万の手勢で屋島
を攻むるや。」
湛増は重ねて問うた。
「左様。精兵百騎もあらば十分。」
湛増は我が耳を疑った。
「今、百騎と申されたか。」
「いかにも。」
湛増はあまりにも馬鹿げた忠衡の
言葉に、腹を抱えて笑いころげた。
忠衡は口元に笑みを浮かべながら、
静かに盃を傾けていた。
「こ、これは・・・日高見流の戯
(ざ)れごと言におわすや。」
「戯れ言にあらず。」
忠衡はきっぱりと言い切った。湛増
は笑いから、やや怒りを含んだ表情
に変じた。
「ならば、いかにして・・・」
「屋島は島とは申せ、讃岐の地より
浅瀬を馬で渡れましょう。島々から
備前にまで守備の兵を散じておれば、
阿波口(徳島県)の守りは手薄。阿波
より屋島本陣の背に迫り、夜襲して
火を放ちまする。」
湛増は唸った。忠衡の言葉には、
一応筋が通っていた。
「それで袋の口は破れましょうや。」
湛増は真顔になった。
「屋島の対岸、むれ牟礼の山野や
積み藁などに火を放ち、伏兵と
見せて動揺を誘い、その機に乗じて
平家の館を焼けば、退路は船上のみ。
戦さを知らず、帝と神器を守らねば
ならぬ内大臣宗盛殿ならば、必ず
そう成されるかと。」
湛増は背筋に冷たいものを感じた。
京より三千里の彼方とも言われる奥州
平泉の地に在りながら、秀衡や忠衡は、
自らの館内で起こったことを語るが
如くに、瀬戸内の地形、平家の陣容、
大将の人柄を語っている。湛増は日高
見国の底知れぬ深さに身震いしたの
だった。
「獣を射るには、風下より獣に知ら
れず近づくことが肝要。」
忠衡がそう言うと、秀衡が
「なにぶん日高見の山野は獣多き地
ゆえ、忠衡の如きは狩りと戦さを似せ
て観まする。湛増殿、なにぶん酒の上
の戯れ言ゆえ。」
と続けた。
「義経殿も、日高見国でお育ちと聞き
及びまするが。」
湛増は忠衡を見ながら言った。源氏の
頭領・頼朝の異母弟・義経ではなく、
日高見国の義経という見方に変じてみた。
「左様、六年程で御座ろうか。この
忠衡と山野を駆け、水練に興じました。」
ふむ、水練とはと、湛増は思った。
「義経殿は海を知り、船を知り給うや。」
「いかにも。」
忠衡が大きくうなずいた。
「義経殿ならば、屋島を攻むるや。」
「義経殿は、この忠衡の兄でござる。」
湛増の心が揺れた。黙したまま盃を
干した。しばらく考え込んだ後、
「秀衡殿は、我ら熊野水軍が義経殿に
合力せよと仰せになりまするや。」
と、胆の中の疑念を秀衡にぶつけて
みた。
「否。」
と、秀衡は即座に否定してから言葉を
継いだ。
「時節を観るがよろしかろう。風と潮の
流れを見定むるは、船を操る者の習い。」
「道理。」
「袋の中の豆は、赤にも白にも変じ
ましょう。」
雲も風も、波も潮も、刻々に変ずる。
人の世も人の心も、それらに習って変ず
る。諸行無常などという仏語を用いる
までもなく、湛増は海に生きる者として、
その事を骨身にしみて知っていた。
「清盛殿は偉大な御方であらせられた。」
秀衡が遠い目をして呟いた。
「福原に湊を開き、音戸瀬戸を切り開き、
勧進による国造りを志しておられた。
されど清盛殿亡き後、勧進立国の志を
継ぐ者おりませぬ。」
確かにそうだと、湛増も思っていた。
清盛の死を境に、勧進船の往来も減り、
平家に納める戦費ばかりが増えていた。
「海に生くる者は、勧進船の往来こそ
肝要。瀬戸内の海は、そこに生くる民人
のものにあらざるや。本来、源氏も平家
もありますまい。」
秀衡がゆったりと語った。
「仰せごもっとも。」
「坂東武者は海を知りませぬ。」
秀衡のその一言に、湛増ははっとした。
仮に西国が源氏の領地になっても、勧進船
にはあまり関心を向けぬのではないか。
ならば、勧進船を束ね、富を動かす者は、
水軍の長たる者になりはせぬか。湛増は
秀衡の胆をそう読んだ。平家に代わり、
日高見の秀衡を父と仰ぐ義経が西国の
束ねと成れば、日高見と結ばれたる国
ともなる。
(大きい・・・)
湛増は秀衡の構想の大きさに、ただ
ただ感服するばかりだった。そして湛増
の胆にも、自身が平家に代わって勧進の
富を束ねられるやも知れぬという、野望
の種が宿ったのだった。
秀衡一行は、熊野本宮大社、熊野那智
大社に詣でた後、日天丸で黒瀬に乗り、
日高見国へと渡っていった。船長は忠衡が
務めた。
「権蔵と徳衛門がおれば間違いありま
せぬ。」
と、慈海は秀衡に言った。慈海は秀衡の
密命を受け、一人京を目指した。
「和子殿の戦さぶり、見届けてくだされ。」
と、秀衡は慈海に言った。細かな裁量は全て
慈海に託された。
湛増は、熊野水軍の戦船を牟婁湊
(和歌山県田辺市)に終結させ、水練と演習
で水夫たちを鍛えながら、源平両精力の
動きを探らせていた。
寿永四(文治元)年正月。鎌倉の頼朝は、
京・堀川の義経館に使者を送り、平家追討
の命を下した。義経はこの命令を待ちかね
ていた。早速、渡辺浦(大阪湾)より海を渡り、
阿波国吉野川河口付近に上陸した。僅かな
軍船に馬と百五十人の武者を乗せ、嵐の風
を味方にした決死の渡航であった。
義経軍は、阿波から讃岐への十八里の
道を、烈風の如く一日で駆け、明け方に屋島
を奇襲した。義経は百五十騎を二隊に分け、
一隊は牟礼を焼き、義経本体は平家本陣の
屋形に火を放った。荒れ狂う炎に狼狽した
宗盛らは、船に逃れた。
忠衡の言葉を、弁慶がどのように伝え、
義経がどう受け止めたかはわからない。
だがまさに、忠衡の言葉通りの事を、
義経はやってのけた。そして弁慶は、
義経の正式な使者として、熊野水軍の
合力を求むべく早舟に乗り、湛増のもと
へと向かった。
湛増は新宮の館で弁慶と対面し、
屋島での戦闘経過を聞いた。
「宗盛殿は、安徳帝・三種の神器と
共に御座船に移られ給い、平家軍船
百隻と共に西に向けて落ち給う。」
弁慶は、経過の最後をそう結んだ。
湛増は瞑目していた。腕を組み、
時折うーむと唸った。
(潮目か・・・)
と、湛増は直感した。流れが大きく
変じようとしている。
(だが勝てるか?)
と、考え直した。
(鎌倉の梶原景時が、戦船百隻以上
を集めたと聞く。されど船酔い多く、
満足に弓も引けまい。仮に弓引いて
も、揺れ多き船上からでは、敵を
射抜く事叶うまい。)
弁慶は、瞑目する湛増に一言も
言葉を発しない。沈黙した室の中
に、波音だけが響いていた。
(わが熊野水軍は、阿波・讃岐の
縁者の合力を得て二百隻。対する
平家方は、屋島本軍の百隻、長門
の知盛軍百隻。さらに松浦軍三百
隻、山賀軍百隻と推算される。
しかも少なく見積もっての話だ。
六百対三百.大三島・村上・河野が
合力したとして五百か・・・数
では同数か、やや劣る。)
湛増は目を開けて、ぎろりと
弁慶を見た。
(では大将の器量はどうか。義経
は常軌でははかれぬ。神懸かり
たる勢いがある。対する平家は、
宗盛凡愚なれども、知盛は海を
知り尽くしたる知将。豪勇の武者・
能登守教経も健在なり。
勝ち目は五分・・・いや、三分か
四分というところか・・・)
「うーむ・・・わからぬ。」
半刻ほど黙想した後、湛増は意
を決した。
「卜占を行なう。弁慶、
立ち会え。」
湛増は熊野速玉大社に赴き、赤か
白かの神意を求めた。「白」と出た。
「白・・・とな。」
それでも湛増は迷っていた。神社
の境内に、闘鶏を用意させた。赤対白
で鶏を七度闘わせ、七度とも白が
勝った。湛増はようやく決断した。
「やはり白か。弁慶、熊野権現の神意
は白と決した。熊野新宮の別当湛増。
これより全軍を率いて義経殿に合力
いたす。二心あるまじき事、熊野権現
の誓詞に記す。この事、疾く立ち帰り
義経殿に申し述べよ。さらに、塩飽・
大三島・村上・河野・真野の各水軍衆
に、誓詞を持して使いせよ。」
弁慶は稲妻の如き湛増の言葉に、
熱く震えた。我知らず涙が溢れ、頬
を伝った。やがてそれは、嗚咽に
変じた。
「親子の縁とは不思議なものよ。のう
弁慶・・・」
湛増は苦笑しつつ、熊野の海を見つめて
いた。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第1章 壇ノ浦<4>
俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょう
げん)なる老僧は、平家が焼いた奈良・
東大寺の大仏殿再興に、残された命の
全てを捧げ、諸国を巡り勧進を請うて
いる。
周防国の国府(山口県防府市)にある
阿弥陀寺は、その重源が開いた寺で
ある。慈海は京にいた重源に、阿弥陀寺
の宿坊全てを借り受けたいと申し出た。
周防に日高見の拠点が欲しかった。重源
は快諾した。大仏殿勧進の名目上の
大施主は鎌倉の頼朝だが、実質上は
日高見の砂金が頼りとなる。重源に
否やはなかった。
厳島神社で平家の戦船を見送った
慈海と矢車は、阿弥陀寺の宿坊にいた。
宿坊には二人のほか、日高見の水夫
(かこ)が多数出入りしていた。水夫ら
はそもそも瀬戸内の島々に生まれ
育った者が多かった。慈海は若狭国
小浜湊(福井県小浜市)に在った日高見船
などから、瀬戸内出の水夫百人を選び、
故郷の島々に一時帰郷させていた。
水夫たちは、諸島の情報を持ち
帰って阿弥陀寺に集い、また何らかの
指示を受けて何処かへ散り、あるいは
使者として走った。指示しているのは、
堀弥太郎景光こと、金売り吉次であった。
吉次は水夫たちの話を取りまとめ、雑記
や絵図に墨を入れていた。
水夫たちのほかに、矢車の如き「化け
巫女」の姿もあった。筑前国博多の
櫛田神社の巫女となっていた茜や白蓮
は、松浦党の早舟に便乗して周防に入
った。松浦党が平家に合力する意志は
堅いと知れた。
吉次は雑記を見ながら、慈海と対座
した。
「赤間ヶ関の潮の流れに通暁せしは、
船所五郎正利なる男。」
「何者ぞ。」
「周防国の船奉行にて、串崎船なる
早舟を保持しておりまする。」
「調略済みなるや。」
「日高見の砂はよう効きまする。」
「それは重畳。」
慈海と吉次は、顔を見合わせてにやり
と笑った。
その船所正利は、三浦義澄の陣屋
にいた。相模国(神奈川県)三浦半島を
領する三浦義澄は、坂東武者ながら海
に通じている。範頼軍が周防から豊後
国(大分県)に渡る際、周防国に残って
平家方の動向や周防の地理などを探って
いた。
船所は周防の大絵図を前に、三浦に
赤間ヶ関のめまぐるしい潮流の変化を
伝授していた。潮の流れが川の急流
にも似たりと聞き、さしもの三浦も
渋い顔をしていた。
「瀬戸内に数多き瀬戸あれど、赤間ヶ関
に勝るもの無しと御心得くだされ。」
船所は真顔で言った。実直な男だった。
策謀の胆は無しと三浦は観た。
三浦が周防の絵図を睨んでいるところ
に、使者の早舟が着した。
「御大将義経殿、五百隻の戦船を伴い、
大島湊に入り候。休息の後、と疾く
笠戸湊まで進まれる由にござりまする。」
「お役目大儀。我らも疾く笠戸に向かう。
共に参ろうぞ。」
「畏まって候。」
三浦義澄は直ちに出陣の貝を
吹かせ、五百の兵と共に笠戸湊を
目指した。船所が三浦に差し出した
十二隻の串崎船と練達の水夫は、
国府より五里を隔てた笠戸湊までを、
僅か一刻余りで漕ぎ渡った。
三浦党は湊近くに陣幕を張り、楯
を並べて床机台をつくった。半刻程後、
湊に立った三浦の目に、源氏の白旗を
たなびかせた大船団が近づいて来るの
が見えた。白地には南無法性熊野大
権現と墨書した、熊野水軍二百隻を
はじめ、大山祇神宮
の旗印は大三島水軍と思われた。
三浦義澄は思わず身震いした。
瀬戸内の全水軍が、こぞって源氏の白旗
を掲げている。周防の地で辛苦を重ね、
十隻・二十隻と船をかき集めていたの
が嘘の如き壮観な光景だった。
「有りがたや。南無法性・・・」
三浦は海を埋め尽くした大船団に合掌
し、感涙にむせび泣いた。三浦党の
武者どもも合掌し、皆泣いた。
五百隻の大船団の先頭の船には、笹竜胆
(ささりんどう)の紋章を刺繍した白旗が
掲げられていた。その船には、義経とその
郎党が乗船していた。義経は侍烏帽子に
赤地錦の直垂、紅裾濃(くれない
すそこ)の大鎧に黄金造りの太刀を帯び、
船首近くに立って海上遥かを眺めていた。
義経の後ろには、僧兵姿で大薙刀を
持した武蔵坊弁慶と常陸坊海尊が、脇侍
(きょうじ)の如く立っていた。湊が舟瀬
に接岸すると、伊勢三郎義盛が渡し板を
掛け、三浦義澄に先触れするなど、細々
しく働いていた。
「疾く、軍議をいたす。」
義経は陣幕内に、主な水軍の長を招集
した。伊予国今治(愛媛県今治市)を本拠と
する、河野水軍の河野通信を
はじめ、宇和海び日ぶりじま振島の真野
水軍、因島の村上水軍、大三島の越智
水軍総帥などが続々と参じた。
義経は皆揃ったと観ると、船所正利に
絵図を広げさせ、上座に招いた。
「船所殿。赤間ヶ関の潮の流れを、方々
に御説明されよ。」
船所は義経から采配を預かり畏まった。
「方々。では御説明申す。赤間ヶ関の潮
は、日の出より長門から伊予の方向に、
ゆるやかに流れておりまする。」
船所は采配の先を、絵図上で動かした。
皆、食い入る如くに絵図を凝視した。
「流れは辰の刻、巳の刻になるにつれ
盛んになり、巳の上刻(午前十一時)
には川の上流の如き流れとなり申す。」
義経は目を閉じて、黙って聞いていた。
「牛の刻、未の刻になるにつれ、流れは
弱まりまする。未の下刻(午後三時)には
流れ止みまする。その後、流れは向きを
変じ、伊予から長門に向かいまする。
その流れ最も盛んなるは、酉の上刻(午後
六時)。瀬は日毎にこれを繰り返し申す。」
義経は目を見開き、船所を見た。
「知盛これを知るや。」
「周防・長門の海に生くる者は、潮の流れ
によっておよその刻を知りまする。長門守
である中納言殿が、知らぬとは思えませぬ。」
「うむ。」
義経は、端正な目鼻立ちをしていた。
目元涼しく、静かな湖面の如くに落ち
着いていた。
「であるならば知盛は・・・」
と義経は言い、船所から采配を受け
取った。
「潮に乗り、日の出と共に撃って出て、
未の刻までに戦を決しようとするで
あろう。」
皆、義経の言葉に異存はなかった。
「その間我らは・・・戦わぬ。」
義経の言葉に、皆唖然とした。一の谷
と屋島において、鬼神の如き奇襲で攻
めた者の言葉とは思えなかった。
「今、戦わぬとの仰せに候や。」
湛増が義経に詰め寄った。
「左様。敵攻め寄せれば逃げよ。船に
楯を亀の如くに並べ、矢を防がれよ。
さかろ逆櫓を使い、右に左に散じよ。
ひたすら防ぎ、逃げ、耐えよ。逃ぐる
を恥とするなかれ。潮の流れ変ずる
まで、ひたすら待たれよ。日が昇り、
中天を過ぎ、日が西に傾く前まで、
凌ぎに凌ぎ、耐えに耐えよ。未の下刻
より日没までの二刻に、方々の命運の
全てを賭けよ。未の下刻をもって
総攻めといたす。」
湛増は唸った。義経は、突き進む
だけを得手とする猪武者ではなかった。
知盛の知略を未然に察し、対抗するに
足る知略を備えていた。
「湛増、得心してござる。」
「うむ。方々も得心してくださるや。」
「承知。されど・・」
三浦義澄は苦笑していた。
「我らの最も不得手とするところに
ござりまするなぁ。」
三浦の言葉に、皆うなずいていた。
「御大将。戦さは明日にて候や。」
三浦が義経に問うた。
「否。しばし待たれよ。」
義経は吉次からの報せを待っていた。
一の谷・屋島で急ぎに急いだ義経とは、
別人の如く慎重になっていた。
「明日は大雨に成り申そう。」
船所が三浦に告げた。
「ほう、左様か。明日は雨か・・・」
三浦は空を見上げた。薄曇りで、少し
風が出てきていた。
「方々。立ち返ってゆるりと休養
なされよ。」
義経はそう結んで、軍議を終えた。
一方その頃、筑前国博多湊を発った
松浦・山賀水軍四百隻の大船団は、
響灘を渡り、長門国彦島周辺に投錨
していた。
松浦水軍は、肥前国(佐賀県)玄海灘
を本拠とする一族で、平安の始め頃、
源頼光が肥前国を知行した
際、四天王筆頭の渡辺綱も
これに従った。綱の孫、久は
松浦四郡を領し、松浦党の祖となった。
松浦は田畑に適さぬ山林多く、漁り
と勧進が生業となった。松浦の男たち
は皆、遠泳・潜水・操船を得手とし、
船を以って「家」と心得ていた。小舟
を操って高麗へ渡る事も、さして珍しい
事ではなく、鎧を着したまま海に潜り、
敵船の船底に穴を開ける位の事は誰に
でも出来た。
渡辺久の七男・高俊は、筑前国を知行
した平清盛の信を得て、宋国との勧進を
束ねた。松浦の水夫らは、唐船をも自在
に操り、宋国から琉求の南海はもちろん
の事、越の海(日本海)や瀬戸内の
海も知り尽くしていた。
また山賀水軍は、筑後国(熊本県)
菊池川上流、山賀庄を本拠とする一族
で、島原海や天草海の船を束ね、平家
の勧進と深く関わっていた。九州一の
豪勇として知られている山賀秀遠(やま
がのひでとお)が百隻の水軍を束ね、
菊池党・原田党がこれに加わっていた。
平家が本陣とする彦島周辺には、
松浦水軍三百隻、山賀水軍百隻、知盛
の長門水軍、屋島から落ちてきた平家
水軍二百隻の、計六百隻の船が、昇る
朝日の印である赤旗をたなびかせていた。
「義経め。今度は奇襲は効かぬぞ。海戦
ならば平家よ。」
戦さを束ねる権中納言平知盛は、海上
の大船団を長門ひよりやま日和山中腹
より望み、かろうじて自らを支えていた。
東を福原・屋島で守り、西の長門・
赤間ヶ関を塞いで、瀬戸内を袋の中に
取り込む。知盛が構想した、坂東の騎馬
武者に抗する万全の策であった。それが
義経率いる僅か百五十騎に破られよう
などとは、予想だにしていなかった。
屋島の船団を長門海で目にした時、
知盛は地の底が抜けたかとばかりに
驚愕し、前途の光が闇に変じた。
「平家もついに、南海の果てに追われる
身と成り果てたか。」
知盛は落胆し、終日豊前・和布刈
(めかり)神社に篭った。むざむざと
屋島を明け渡した、総大将宗盛の
不甲斐なさにはらわたが煮えた。
だが、と知盛は頭を冷やした。屋島
の船は無傷であり、平家に合力する
水軍は多い。船を知らぬ源氏をこと
ごとく海に沈めれば、形勢は逆転する。
連戦連敗の汚名を、一気に取り戻せる。
「要は義経ぞ。義経を屠れば、源氏は
総崩れとなろう。」
知盛はそう思い定め、胆をくくった。
胆をくくると、かろうじて気力が戻った。
豊前(門司区)や赤間ヶ関陸上にも兵を
配し、万全の備えでこの一戦に平家の
命運を賭けた。
翌日は船所の言葉通り、滝の如き雨が
降った。周防国府の阿弥陀寺には、義経
の郎党・佐藤忠信の姿があった。忠信の
兄・継信は、屋島の合戦において義経を
庇い、能登守教経の強弓に喉を射抜かれ
戦死していた。
忠信は吉次と対座していた。
「継信殿が事、さぞや御無念と存ずる。」
「なんの。主君を庇いしは武門の誉れ。」
吉次は唐物の器に湯を注ぎ、竹筅(ちく
せん)で攪拌してから忠信の前に差し
出した。
「茶と申す。渋味あれど滋味あり。気が
和みまする。召されませ。」
忠信は濃茶を喫した。
「その昔、弘法大師が唐より持ち帰り、
嵯峨天皇が畿内で栽培させ申した。
宋の禅僧が好むと聞き及びまする。」
吉次の声が、雨音に滲んだ。忠信は
張っていた気を解き、肩の力を抜いた。
「信夫庄(福島市)に御老母がおられた
はず。」
「妻より健在の便りがあり申した。」
「母より先に子が逝くは、武門の業と
申すものでござろうか。」
忠信は眉根を寄せ、嘆息した。
「この上は、能登守の首を兄の墓前に
供うる事が忠信の念願。」
今度は吉次が嘆息した。吉次は戦さを
陰で支えながらも、戦さが疎ましかった。
そこへ、慈海が水夫を一人伴って
入ってきた。
「この男、日高見船孔雀丸の水夫にて
稲二郎と申す。かねてより九州に渡っ
た範頼軍の動きを追っており申した。
ささっ、忠信殿に申し述べよ。」
稲二郎は、雨に濡れた顔や体を布
で拭いながら、荒れた息のまま口を開いた。
「和田義盛殿の兵、約一千。豊前国より
田野浦を目指し、馬を進めておりまする。
田野浦まで、およそ二日を要するものと
思われまする。」
「二日とな? それでは戦さに間に合わぬ
ではないか。」
忠信は気が急いているらしかった。だが
義経は、和田隊の布陣を待つのではないか
と、慈海は観ていた。田野浦から彦島に
かけての海辺は、海が最も細く、陸から
船に矢が届く。義経はこの狭い海峡に、
平家の全船を追い込む胆と読んだ。
そして、陸と海が最も狭い場所は
「壇ノ浦」だった。
忠信は吉次から、文書と絵図、それに
稲二郎からの報せを携え、義経のもとへ
帰陣した。義経は湛増ら水軍の長と、
さらに詳しく布陣や戦法、合図について
談じていた。忠信の報せに接した義経は、
即座に長門側の壇ノ浦に、強弓
を使う射手を配する事を決した。
翌日は晴れた。源氏の水軍は全船、
周防灘を西進した。義経は串崎船を旗艦
とし、船所を水先に、満珠島・
干珠島なる小島付近に船団を
進出させ、投錨した。船足の遅い兵糧船
や武具船など、全船が終結したのは、
翌々日の昼頃だった。
平家方松浦水軍が布陣する田野浦と、
満珠・干珠島とは、一里余りしか離れて
いない。松浦の物見舟は、源氏船団の詳細
を知盛に伝えた。知盛は決戦を明朝と決し、
全軍に使いを走らせた。
源氏方の強弓隊は、四王司山(しのうじ
やま)から串崎付近に進出。海戦の開始と
共に、陸の平家方に襲いかかる手筈だった。
一方、豊前の和田義盛隊も田野浦の平家軍
を突くべく、急ぎに急いでいた。
山野も海も朱に染めて、夕陽が沈んで
いった。源平両船一千隻の船かがり火が、
闇の中で妖しく揺らめき、情念の幽鬼を
異界から呼び寄せているかの如くであった。
その薄明るい波間を、小舟が一隻、
田野浦から源氏方へと漕ぎ出していった。
「日高見船・月天丸船長・禅海。急ぎ
御大将義経殿に伝えたき義有り。取り
つがれたし。」
身に寸鉄も帯びぬ法衣姿の禅海は、
水夫と女一人を伴っていた。半刻の後、
禅海は義経主従の船に案内された。義経
も弁慶も忠信も、禅海を見知っていた。
義経は秀衡の後援に対する礼を、禅海に
述べた。
「これなるは、建礼門院の雑仕女にて
朱雀。日高見のじもく耳目にござりまする。
片や、月天丸の水夫にて弥平次。」
禅海は、二人が探り見聞きした話を
義経に語った。
「御座船とせし唐船には、松浦・山賀の
衆乗り込み、安徳帝・ニ位の尼などの御方
は、屋形船に御動座なされた由。御座船の
印は、揚羽蝶の小旗にて候。おそらくは
中納言殿の策かと思われまする。」
禅海の話に、義経は得心した。唐船を囮
にして源氏方を引きつけ、三種の神器を
死守せんとする策。知盛ならば成すだろう。
義経は、禅海らに厚く礼を述べた。報せ
終わると禅海らは、修羅の巷に長居は無用
とばかり、再び小舟に乗り、長門の陸へと
漕ぎ出していった。
半月が海を照らし、かがり火の爆ぜる音
だけが聞こえていた。和布刈神社
の社殿に身を横たえていた知盛は、気が
高ぶって寝つけずにいた。一の谷の合戦で、
父を庇って死んだ、息子の知章
の事がしきりに思い出された。
「まだ十六歳であったに。」
寝つけぬまま夜が明け、飯を炊ぎ魚を焼く
匂いが漂い始めた。知盛は装束を整え、白檀
の香を焚き込めた紺糸威の
大鎧を着た。
卯の上刻(午前六時)。知盛は源氏方のほら貝
を聞いた。備えよという合図に違いなかった。
卯の下刻になると、和布刈神社に平家一門と
水軍の長が参集した。
参拝の後、知盛は一門に向かい大音声
(だいおんじょう)を発した。
「皆聞くがよい。平家、天運曇り不覚を重ね、
ついにこの日に至った。天運無くば、日本わが
朝においても、天竺・震旦において
も、及びなき名将勇士といえども、命運尽きれば
力及ばず。されど、名こそ惜しめ。勝敗は天に
預け、東国の者共に弱気を見せるな。
命を惜しむな。いざ、出陣ぞ。」
一門の後ろに控えし、先陣の山賀秀遠、
侍大将の飛騨三郎景経、上総介悪七兵衛景清
(かずさのすけあくひちびょうえかげきよ)など
が、知盛の激を承り、勝ちどきをあげて応じた。
「早や落潮なれば、時を移さず先陣仕る。」
山賀は知盛に告げ、田野浦に駆け去った。
辰の上刻(午前八時)。山賀水軍が出陣の太鼓
を打ち鳴らし、撃って出た。突撃用龍船は、
ゆるやかな落潮に乗り、満珠・干珠の間を
進んだ。だが源氏船団は、錨を上げただけで、
撃って出る気配はなかった。むしろ湾を回り
こむような潮に乗って、竜王山の岬方向へ
回避しようとしていた。水夫は船首に取り
付けられた「逆櫓」を漕いでいた。
「敵を目前にして、一矢も交えずとは情けなや。」
義経を激しく嫌悪する、鎌倉の軍監・
梶原景時は、義経の策を無視し、手勢の
水軍に突撃を命じた。
「景季、景高、続けや。」
梶原景時はわが子を励ましつつ、潮に
逆らって船を満珠・干珠に進めた。
山賀龍船の船首水中部には、鋭い鉄の衝角
が突き出していた。龍船は梶原船の横腹に激突
し、船底に穴をあけた。梶原船は大きく揺れ、
その衝撃で水夫や鎧武者が海に投げ出された。
それと同時に、山賀兵のひとう飛刀(手裏剣)
や海戦用半弓から射られた矢が、間断なく
撃ち出された。
梶原船は方々で傾き、浸水していった。
揺れる船上から応戦した矢は、的が定まらず、
虚しく海上に舞っていた。
「山賀兵藤次秀遠の矢、
受け候へ。」
名乗りをあげた梶原景時に向かい、山賀
秀遠は五人張りのこわゆみ強弓をきりきり
と引き絞り、ひょうと放った。矢は景時の
わき腹をかすめ、郎党武者の腹を射抜いた。
矢は腹巻きを貫き、矢尻は背に達していた。
郎党武者は「うぐっ」とうめいたまま海に
崩れ落ち、海中へと沈んでいった。
源氏武者の血潮が、波間のあちらこちらに
漂っていた。その血の匂いを嗅ぎつけて、
鮫が群がり寄ってきていた。
「たまらじ・・・」
さしもの梶原景時も、引き貝を吹かせた。
梶原船団は、串崎の浜へと散じた。
田野浦の山賀水軍に続き、第二陣の松浦
水軍も、彦島から押し出してきた。山賀・
松浦水軍は、逃げる熊野水軍を取り囲み、
豪雨の如く矢を浴びせた。熊野の船は、
たちまち針山の如き姿となった。だが、
突撃用衝角を巧みに避け、船を散じていた。
ならばと、松浦兵たちは手に野太い銛を
持し、腹巻きを着したまま海中に身を躍らせ、
熊野船の船底に迫った。その間、楯に守ら
れた甲板には火矢が射込まれていた。
「させじ・・・」
熊野兵は海水を浴びせて火矢を防ぎ、
海中の松浦兵を討つべく各々海へ飛び
込んだ。船底に穴を開けようとする松浦兵
に、熊野兵が組みついた。海中の至るところ
で死闘が繰り返され、血潮が涌き上がった。
傷ついた海中の兵たちは、次々と鮫に喰われ
ていった。
刻を追うごとに潮の流れは急になり、
山賀・松浦水軍は源氏船団を圧迫し、
押しに押した。巳の上刻(午前十一時)、
知盛率いる平家本隊が低潮の急流に
乗って押し出した。
「義経やある。義経は何処ぞ。」
能登守教経は船上で大音声を発しつつ、
強弓を射て次々に源氏武者を海中へ
と葬り去っていた。
知盛本隊が満珠・干珠の沖まで
出張ってきた事を知った義経は、長府
の沖から壇ノ浦方向に手勢を進ませ、
知盛を背後から突こうと画策していた。
串崎船は軽快に波を切り、知盛船を
目指した。だが松浦船団の守りは堅く、
近づく事すら容易ではなかった。
弁慶は船上に立ち、大薙刀を車輪の
如くに回し、飛び来る矢を防いだ。義経
はすぐさま退却を命じ、干珠島の島かげ
に潜んだ。
知盛は焦れていた。源氏は守りを堅め、
方々に散じ、決定的な戦果が得られぬまま、
刻だけが過ぎていった。
「これが義経の策なるや・・・」
知盛の脳裏に、「敗退」の思いが湧いた。
あと二刻もすれば、潮流が反転
する。それまでに、義経の首を挙げなけ
ればならない。知盛は悪鬼の如き形相と
なり、「押せや、押せや」と、声を限りに
叫び続けた。
源氏船団は、数に勝る平家船団にじわ
じわと包囲され、各水軍の船が燃え、沈没
し、武者や水夫の多くが海中に没し、ある
いは深手を負っていた。船上に飛び移った
松浦兵が源氏武者を屠り、あるいは平家
武者が源氏武者に斧で兜の天辺を割られ
ていた。
船上でも海中でも激闘が続く中、能登守
教経の手勢は、ひたすら義経の旗艦を追い
求めていた。だが義経の串崎船は逃げた。
「能登守と対するな。」
と厳命し、凌ぎに凌いだ。佐藤忠信も無念
の思いに耐えながら、主命に従った。
耐えながら逃げているうちに、潮の勢いが
次第に弱まり始めた。刻はひつじ未の上刻
(午後二時)を過ぎていた。源氏船団はこの時
を待っていた。
「全船逆櫓を外し、船かがり火を燃やせ。」
湛増は熊野水軍全船にそう命じた。突撃に
邪魔な逆櫓を捨て、火矢の火種として
かがり火が焚かれた。
「熊野の火祭りよ。知盛船団の唐船に突撃
し、矢継ぎ早やに火矢を射かけよ。」
湛増は次々に指示を発し、総攻めの陣太鼓
を打たせた。
空船が数十隻集められ、逆櫓と藁束が積ま
れた。練達の水夫が水軍の先頭に立ってその
船を漕ぎ、飛び交う矢をすり抜けながら知盛
船団に迫った。空船に火矢が射こまれ、たち
まち巨大な炎と化した。水夫たちは素早く
海中に身を翻した。
知盛船団が散を乱しているのに乗じて、
熊野水軍が唐船に迫り、次々に火矢を
放った。唐船の水夫たちの消火よりも、
火矢の数が勝っていた。竹網代(たけ
あじろ)帆が燃え落ち、両舷の船体が炎
を上げ始めた。
唐船が燃え上がるのを合図にして、
源氏水軍は全船逆櫓を外し、総攻めの
態勢に入った。
「息抜かず射続けよ。射手のみを狙うな。
水夫や舵師を射るともかまうな。」
湛増は大音声で激を発しながら押し出した。
大三島水軍と真野水軍は、豊前・田野浦
側から、義経本軍は干珠島の側から、中央
からは熊野水軍が、豪雨の如き矢を放ち
ながら平家船団を圧迫していった。
じわりと、潮が動いた。止まっていた潮が、
周防から長門の方向へと逆流し始めたので
ある。その時、串崎沖で義経本軍と対峙
していた阿波国の田内成良(でんないしげ
よし)船団が赤旗を下ろし、白旗を掲げた。
「わが子、教良に合力いたす。」
父子に分かれて戦っていた田内成良は、
源氏方に寝返った。
「汚し。弁慶、成良を討て。」
義経はこの寝返りに激怒した。父・
義朝が家臣・長田荘司
の寝返りによって落命しているだけに、
義経は寝返りを極度に嫌っていた。
「その儀は戦さの後にでも・・・」
弁慶は義経を諌めた。平家は阿波成良の
寝返りに動揺し、壇ノ浦へと引き始めた。
その壇ノ浦の両岸には、源氏の白旗が
ずらりと翻っていた。それは平家陸上部隊
の壊滅を意味していた。逆流する平家船団
に向かって、源氏武者の遠矢が降り注いだ。
平家武者は次々に喉や額を射抜かれて、
壇ノ浦の海中へと沈んでいった。
申の上刻(午後五時)。源氏水軍は全船、
高潮の急流に乗って、狭い壇ノ浦に終結
していた。平家の空船と赤旗が、潮に
乗って虚しく漂っていた。空船の中には、
首の無い平家武者の骸が捨て置かれ、海猫
が羽を休めていた。
能登守教経も源氏船に包囲され、逃げ場
をなくしていた。だが教経の豪勇を怖れ、
近づく者はなかった。
日が傾き、あか朱く熟していた。朱鷺
(とき)の群れが身を朱く染めながら、何処
かへ飛び去っていった。知盛は御座船に
いた。鎧に折れ矢を幾本も突き立てたまま
の姿だった。安徳帝を抱いていた二位の尼
は、知盛の悲壮なる姿を見て全てを悟った。
「疾く、旅立ちましょうぞ。」
二位の尼が建礼門院を促した。安徳帝の母・
建礼門院徳子は、数珠を握りしめて静かに
うなずいた。
源氏武者の雄叫びも次第に止み、平家女官
のすすり泣く声が、物悲しく聴こえていた。
朱く染まった壇ノ浦の海中に、一人、また
一人と、艶やかな十二単の女官が身を投じ、
身悶えながら呑まれていった。門脇中納言
教盛、新三位資盛(しんざん
みすけもり)、少将有盛などの平家一門の
公達も、鎧を持し、あるいは鎧を重ねて
海へ身を投じていった。
「知章。父もそなたのもとへ参ろうぞ。」
知盛は最期にそう叫び、壇ノ浦の海中へ
消えていった。享年三十三歳であった。
能登守教経は、ただ一隻で源氏船団に
突入していった。
「東武者ども。我が死出の供とせむ。」
教経は強弓を矢継ぎ早やに射て屠り、
射尽くすと太刀を抜き、源氏船に切り
込んだ。もはや兜はなく、髪乱れて
大わらわとなり、悪鬼の如き形相だった。
教経が飛び移った船には、安芸国の
太郎実光と、弟の次郎がいた。教経は
豪力の二人に組み伏せられた。教経は
野獣の如く吠え、目をかっと見開いて、
最期の力を振り絞って二人を両脇に
抱えあげた。
「もはやこれまで。」
そう叫ぶと教経は、安芸太郎・次郎を
供として入水した。
二位の尼・平時子は、八歳の幼帝と
共に、東の伊勢大神宮に向かって別れ
の言葉を述べ、西の浄土に向かって
念仏を唱えていた。建礼門院・徳子も、
女官長あぜちのつぼね按察局もそれに
習った。
「いまぞ知る 御裳濯川のながれ
には 浪の底にも 都ありとは 」
二位の尼は、辞世の歌を詠んでから、
宝剣を腰に帯び、安徳帝を抱え、神爾
の箱を持して船べりに立った。
「おばば様。いずくへまいられまするや。」
何も知らぬ幼帝が問うた。
「じきに浄土の都より、阿弥陀様の御使いが
参られましょうほどに。」
わが子のはかなき運命に、建礼門院は
血涙を滲ませた。徳子は数珠を持して合掌し、
何度も念仏を唱えてから、わが子の後を
追って海に身を投じた。按察局がそれに
続いた。空の御座船が波間に漂い、平家は
壇ノ浦に滅んだ。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第二章・吉野静<1>
下弦の月が、闇の中に溶け入りそうな
夜だった。濃い潮の香とさざなみの音
だけが、彦島の平家陣屋跡を覆って
いた。夢とうつつ現の狭間にまどろむ
暗い海の底から、呪うが如き嘆くが
如き、平家武者の慟哭が響いてくる
ような夜だった。
自らの首を求めて彷徨う亡霊が、
源氏武者の所業に悲憤し、悪鬼・怨霊
に変じようとしていた。源氏武者は、
海上から救い上げた平家の女官たちを
次々に凌辱していった。女官たちは
我が身の悲運に涙し、闇の底でもがき
苦しんでいた。
平家の侍大将・悪七兵衛(あくひち
びょうえ)景清もまた、辛くも生き
残った一人だった。生き恥を晒して
生きるよりはと、何度も自害を思った。
だが、闇の底から聞こえる女官たちの
悲痛な絶叫に接しているうちに、
我が身に眠る憎悪の情念が、生きる
糧に変じた。
「この上は、義経を屠り、頼朝を
殺し、修羅の業火の道連れと成さん。」
景清は闇の中で、復讐の刃を研いでいた。
二位の尼と安徳帝は、壇ノ浦の水底
(みなそこ)深く沈んだが、建礼門院徳子
は、入水後間もなく救い上げられた。
徳子は生ける屍の如くに放心し、表情を
無くしていた。
その徳子は、義経と共に彦島の陣屋に
いた。義経の寝所でその身を晒し、黒髪
を乱していた。義経は徳子の身体を貪った
後、赤地錦の袋から笛を取り出し、寝所
の表へと立った。
義経は暗い海に向け、笛の音を響かせ
た。名笛「薄墨」は、父・義朝が母の常盤
に与えた品であり、義経は片時も離さず
持していた。笛の音はもの悲しく、父母
を恋ふる義経の、哀切の情に震えていた。
徳子の胸の内にも、その哀切の情は
届いた。暗い定めだった。徳子は身を
起こし、笛の音を聞いた。
「さぞや、晴れがましい御心にござり
ましょう。」
笛の音の絶え間に、徳子は義経に恨み
ごとを呟いた。
「否。」
義経は徳子の脇に座した。
「確かに、平家を滅ぼす事のみが悲願
であった。その事のみに生き、耐え忍ん
でおのれを磨きもした。だが、かような
事と成り、その悲願を達したと言うに、
心晴れぬ。」
義経は徳子に、薄墨を差し出した。
「父がわが母に贈った形見の品よ。」
「・・・・・・・・」
「そなた、われを恨んでおろう。」
「・・・・・・・・」
徳子は義経を見た。目の前の男は、母
である二位の尼とわが子安徳帝、兄の知盛
を死に追いやり、自身を辱めた憎んでも
余りある仇敵のはずであった。だが徳子は
義経もまた哀れなる運命を負った迷い子に
観えた。
「わらわはもはや、生きながら死せる者。
勝ちて奢るも、敗れて怨むも、やがては
過ぎ去りましょう。」
義経は徳子の仏臭い言葉を、鼻で笑った。
「そなたが清盛入道の娘でなければ、かよう
な仕儀には及ばなんだであろう。清盛入道は
我が母・常盤を同じように辱め、勝ちに奢った。
我は唯、その憎しみを糧として生きた。そなた
も我を憎み、生きよ。」
「されど、望みを果たせど心晴れぬとの仰せ。
この後、何を糧となさりまするや。」
徳子は気丈な目線で、義経を射た。義経
に返す言葉はなかった。
「さればそなたは、何を糧と成すや。」
「御仏に・・・」
「すがると申すや。」
「亡き霊と共に。」
義経はふと、秀衡を思った。秀衡が望む
仏の御心による国造りとは何なのか、思って
みた事がなかった。そもそも仏の御心とは
何なのか、わからなかった。
「仏に祈ったとて、内府殿、大納言殿の命
が助かるというわけでもあるまいに。」
義経は吐き捨てるが如くに言った。平家
の総大将・内大臣宗盛やその子・清宗、
大納言時忠らは捕らえられ、鎌倉の頼朝の
もとへ送られる事になっていた。
「生くるも死ぬるも、すべては御仏の御心。
わらわが意に反し、今ここにあるのも、
浄土に入る障り有りとの事にござりま
しょう。」
「我は仏など信じぬ。」
「されば何を以って、おのれを支えまする
や。人の世も心も移ろい易きものにござり
ましょう。」
義経も徳子も、人の世の変転を嫌と
いう程目にしてきた。子が親を討ち、
親が子を斬り、家臣が主君を裏切り、
昨日の敵が今日には味方に変じ、川の
表を舞う落ち葉の如く、変節が常態の
浮世だった。
義経には、徳子を説き伏せるだけの
言葉がなかった。何もわからぬまま、
義経は徳子の唇を塞ぎ、身体を求めて
挑みかかった。間もなく夜が明けよう
としていた。
周防国府の阿弥陀寺では、夜明けと共
に矢車が、鳩に餌を与え、その足に文を
結んでいた。
「源軍 平家を壇ノ浦にて滅ぼす 」
という内容の文だった。
「さあ、自分のねぐら寝座へお戻り。」
矢車はそう言いながら、鳩を一羽ずつ
大空へ向けて放った。鳩は、京の首途
(かどで)神社、若狭国小浜湊、尾張国
常滑湊、筑前国博多湊の藤原館に向け、
飛び立っていった。
翌朝には京の首途神社から、同様の
結び文を付けた三羽の鳩が、平泉の
柳御所を目指して飛び立った。壇ノ浦
の海戦から三日の後に、秀衡は慈海か
らの第一報を受け取った。
「和子殿が成し遂げられたか・・・」
秀衡は結び文を握ったまま、南の空の
彼方を見上げ、言いようのない感慨に
浸った。
「急ぎわが子らにこの儀を伝え、わが館
に参ずるよう申せ。」
秀衡は伝令を各所に走らせ、五人の子を
伽羅御所に集めた。秀衡の家督を継ぐ嫡男・
泰衡は、平泉政庁たる柳御所で
政務を執っていた。側室の嫡男・国衡は、
衣河において騎馬武者を号令し、兵を
練っていた。西木戸に家があることから、
西木戸太郎と称していた。
夕刻となり、伽羅御所に酒肴が整えられ
た。泰衡、国衡に続き、倉町で川舟からの
荷揚げを見届けた泉三郎忠衡と、四男の
本吉冠者高衡、六男の
錦戸太郎頼衡が参じた。五男
の和泉七郎通衡は、出羽・
酒田湊(山形県酒田市)に在った。
秀衡は柔和な老人の顔で、五人の子らを
頼もしげに眺めた。後継の泰衡は人を和する
に長じ、家臣たちから親しまれていた。
信仰心厚く、学芸を好んだ。国衡は武芸を
好み、剛直の性で、軍の将たる器だった。
忠衡は船を好み、水軍と勧進船を束ねて
いる。年若い高衡や頼衡は、伸び盛りの
季節にある。
秀衡は盃を傾けながら、平家亡き後の世
についての存念を問うた。
「赤間ヶ関に藤原館設ける事、肝要と存じ
まする。」
忠衡が言った。
「うむ。赤間ヶ関は勧進船のかなめ要の地。
早速にも手配せねばなるまい。」
秀衡が満足気にうなずいた。
「京と瀬戸内を結ぶ、要の湊も必要と存じ
まする。」
忠衡が続けて言った。
「何処に良き湊有りや。」
「和泉国(大阪府)堺の湊。播磨国
大物浦(はりまのくにだいもつのうら・
兵庫県尼崎市)が第一かと心得まする。」
秀衡の問いに、忠衡が即答した。
「おお、さすがは泉の三郎殿よ。」
国衡が戯れた。
「人は何とするや。」
「筑前博多の月天丸が足止めを解かれ、
越の海よりこちらを目指しておると
の報せ、届いておる。禅海をもって、
赤間ヶ関の束ねと成すがよろしかろう。」
国衡の問いに、泰衡が答えた。
「されば堺の湊は慈海。」
「左様。かの二人は勧進船の要。」
泰衡はそう言った後、秀衡に向かって
居住まいを正し、言葉を続けた。
「御館。月天丸の禅海より、新たなる
宋版一切経入手との由にござりまする。」
秀衡は「おおっ」と感嘆し、喜色満面
の笑みを浮かべた。
「禅海殿が成し遂げたか。ううむ、難儀
であったろう。うむ、でかしゃった、
でかしゃった。」
「奥御館(おくみたち・初代・清衡)の代
に入手した一切経は、宋国の寺社・役人
に用いた黄金も含め、十万五千両程と聞き
申す。この度の一切経は、八万両程かと。」
「黄金は用いねばただの砂ぞ。経に変じて
こそ宝となる。」
高衡が、秀衡と泰衡の話に首を傾げた。
「御館。一切経とは、それほどの宝であり
ましょうや。」
「おお、高衡殿。ようお聞きなされ。一切経
とは文字通り、大宋国が国の総力を挙げて
編じた経典の事。宋の帝は、国の外への持ち
出しを禁じた程の宝におわす。それ程の良き
経典が日高見国に有るとなれば、花々に
群がる蜜蜂の如く、名僧高僧こぞって日高見
に集まりましょう。高徳の僧の学識・見識に
よりて人育ち、それら育ちし者が、さらなる
豊かさをもたらしましょう。」
秀衡は若い高衡に向けて、雄弁に語った。
「御館の先見、高衡、得心してござり
まする。」
秀衡は手元の塗り椀を持し、話を続けた。
「高衡殿、頼衡殿、よう聞かれませ。この
秀衡塗りと称する椀はのう、宋国において
好まれておる。砂鉄より打ち出した日高見
の刀も優れておる。信夫もぢ摺り
の布ものお。それら優れたる物を生み出す
匠が、まず在る。黄金を集むる匠もおる。
これらは日高見が産する宝。されど、これら
を運び、用いねば他の宝には変じぬ。」
高衡や頼衡は、畏まって父の話を聞いて
いた。
「そこで荒海を渡り、船を操る者が肝要と
なる。他国の言葉を解するおさ訳語も多く
要する。それらの者を育み、伝習する者も、
さらには船を造る匠も多く要さねばなる
まい。血も肉も骨も血がめぐる道も、全て
分かち難いように、匠も船師も束ねたる者
も、全て分かち難く、いずれが欠けても
難儀を生ずる。そうした道理を解せし者
たちの集まりたるところが日高見国であり、
日高見の心であると、左様心得なされ。」
高衡と頼衡は、若き血を高ぶらせ、目を
輝かせていた。だが泰衡と国衡は、別の
懸念に悩まされている風であった。
「御館。鎌倉の坂東武者どもに、日高見の
道理が通じましょうや。」
泰衡が言った。
「通じまい。」
酔眼の国衡が、吐き捨てるが如くに
応じた。
「坂東の武者どもは、宋国の蜜蝋無くば、
蝋燭出来ぬ事すら考え及ぶまい。」
国衡は、室を照らす蝋燭を指して言った。
「屋島の合戦で名を挙げた、那須与一宗高
なる者、弓の名手なれどまな漢字も読めぬ
と聞く。力のみを頼る野獣の如き者ども
なり。おのれの土地のみを見て、宋国の事
など思いも及びますまい。」
秀衡は国衡の言葉にうなずきながら、
眉根を寄せた。
「御館。頼朝はいずれ、わが日高見に兵を
向けましょう。国境の守り堅め、鎌倉の
動き探る事、肝要と心得まする。」
国衡が断固とした口調で言った。
「国衡の言、泰衡も同意。鎌倉の探りに、
耳目衆を倍に増しまする。されど頼朝に
対するに、正規の使いを送り、和をもって
共存の道を求むる事もまた肝要。」
泰衡は、秀衡と国衡を交互に見比べながら
、穏やかな口調で言った。
「泰衡殿、国衡殿。思うままに成されるが
よろしかろう。されど、平泉の禅房が空に
なりまするのお。」
秀衡はそう言って、穏やかに笑った。
「鎌倉への耳目衆、京・堺・赤間ヶ関へ
勧進聖を送る役目。この
忠衡にお申し付け下さりませ。」
今まで黙っていた忠衡が、大音声を
発した。
「忠衡、日天丸と共に三浦、尾張、熊野を
経て瀬戸内を渡り、しかる後、赤間ヶ関
から筑前・筑後を経て大宋国に渡りとう
ござりまする。」
忠衡ならばいずれ言い出すであろうと、
秀衡は予期していた。
「忠衡殿も思うままになされよ。」
秀衡は即答して許した。
「忠衡。その役目、わしと替わらぬか。」
泰衡が半ば本気で戯れた。泰衡もまた、
大宋国をこの目で見たいと、強く願って
いた。
「この儀ばかりは、たとえ兄上の御言葉
とても譲れませぬ。」
忠衡は柔らかな口調で笑いながら言った。
泰衡は苦笑するしかなかった。
「ときに御館。」
忠衡が改まった口調で、秀衡に呼び
かけた。
「平家亡き後、西国は義経殿が束ねる事に
なりましょうや。」
「うーむ。」
秀衡は困り顔で嘆息した。
「義経殿は、一の院(後白河法皇)に好ま
れていると聞き及びまする。」
泰衡が秀衡を見ながら言った。
「さらに義経殿は、わが日高見を後ろ楯
にせしこと明白。頼朝は一の院を嫌い、
日高見の力を恐れておりまする。」
と、泰衡が言葉を継いだ。
「鎌倉にては、義経殿は頼朝の意向を
軽んじ、独断に走る者として評判芳し
からず。」
国衡は、鎌倉に対する不快な感情を
露わにしながら語った。
「一の谷、屋島の戦さぶりを知る坂東
武者は、義経殿を戦神と
して崇めておる。人をあ悪しざまに笑う
を楽しむ都人さえ、義経殿は別ものと、
上々に評しておる。それに加え、かの
巨大な平家の水軍を撃ち破ったとなれば、
奇中の奇の者として、戦神に成るは必定。」
国衡は義経に対する世間の評判を語った。
「頼朝は、大恩ある上総介広常を騙まし
討ちにした男。」
上総介広常は、頼朝が挙兵して石橋山の合戦
に敗れ、辛くも虎口を脱して房総に渡った際、
二万騎の兵と共に合力した男である。国衡は
武人として、頼朝の陰湿な性根に我慢ならぬ
ものを感じていた。
「小さき穴蔵の中に居て、力を恐るる小心者
が、義経殿の力増すを、あっさり受け入れる
とは思えませぬ。性根の腐った男には、恩も
親族の情も通じぬと観まする。」
国衡の読みに、泰衡も同意した。
「もし義経殿が平家の旧領を封ずれば、
鎌倉は日高見国と、院宣を奉ずる義経殿
の西国に挟まれまする。頼朝もそこは
読んでおりましょう。ゆえに頼朝は、
義経殿の力を削ぎにかかりましょう。」
泰衡は、国衡と忠衡がうなずくのを
見てから、さらに言った。
「されば我が日高見が成すべきは、義経殿
を盛り立て、西国に根付かせる事。平家
追討の恩賞として、長門・周防・伊予三国
の太守に封ぜられるよう、院と摂関家に
働きかける事を第一と考えまする。」
秀衡は「うむ」と、小さくうなずいた。
「泰衡殿。そう成されよ。」
と言い、
「和子殿も難しい舵取りを迫られるで
あろう。和子殿の性分では、兄と戦うを
是とはなさいますまい。」
と独り言の如くに言った。
秀衡は盃を干してからしばらく考え、
「泰衡殿。首途の蔵は満ちておるや。」
と問うた。
「常に十万両の黄金・練絹などの進物、
蓄えておりまする。」
「忠衡殿。日天丸にさらに十万両を積み、
首途の蔵に届けよ。後の事は首途と慈海殿
に託すのがよろしかろう。」
「承知。」
忠衡は秀衡の懐の深さに感嘆しながら、
船出の際の心高ぶる思いに浸っていた。
この夜から、平泉はにわかに慌ただしさ
を増していった。牡鹿湊の日天丸に向け、
川舟が幾隻も日高見川を下り、国衡率いる
五千の兵が、手に手に斧や鍬を持し、東山
道(奥州街道)を南下していった。泰衡の
書状を持した早馬が各所に放たれ、中尊寺・
毛越寺・無量光院・観自在王院の禅房・
僧房の勧進聖、熊野社・北野天神・祇園社・
白山社の巫女たちが、旅支度を始めていた。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第二章・吉野静<2>
後白河法皇の離宮である法性寺殿
(ほっしょうじでん)から、北へ二里余。
船岡山山麓の今出川に、日高見国が根拠地
とする首途八幡宮がある。社域は
うっそうたる杉木立に囲まれ、森閑として
いる。
首途神社の背後には、紫野の原野が
大文字山の方へと広がっている。紫野
には時折、公家の牛車が訪れて薬草狩り
をする姿もあるが、常にはほとんど人の
気配はない。
杉木立の暗い参道から鳥居をくぐると、
正面に八幡造りの本殿と拝殿がある。屋代
に塗りや飾りは無く、板張りの侘びた簡素
な風情から、黄金の日高見を連想する事は
難しい。
本殿背後にも杉木立が茂り、その奥の
広大な敷地に、回廊と宿坊、米蔵、塩蔵、
味噌蔵、酒蔵、絹蔵、文書蔵などの高床
の蔵、茶畑、奥州馬数十頭の厩、数十羽の
鳩小屋などがあろうとは思えない。都人は
もちろん、野盗にすら知られていない。
この神社に参詣する者は、日高見国と
関わりある者に限られている。
宮司は藤原秀遠という名を用い、秀衡
の使いとして摂関家に出入りしている。
歌道に通じ、身分を越えた人の繋がりを
多く得ている。秀衡の異母弟とも言われて
いるが、首途に関わる者は全て、記録の外
に在る。名も風体も、自在に使い分けるの
である。
常住する神官たちも、根は平泉の禅房に
在った。藤原や安藤姓の神官名の他に、法名
もある。ともあれ、秀衡から全幅の信を受け、
全権を託されている者たちだった。
参詣する者の姿も多様であった。公家の
館に仕える雑仕女、直垂姿の侍、琵琶法師、
魚や野菜のあきうど商人、仏師、医師
番匠(ぱんしょう・大工)、陰陽師
白拍子などの異能者たちだった。
この日高見の耳目衆がもたらす話は、
秀遠ら神官のもとに集められ、話の内容
に応じた対策をとっていた。公家に婚儀
あると知れば、祝いの品を秀衡の名で届け、
館の内に持仏堂を建立したいという望みを
知れば、数日後には仏師と番匠たちが、
砂金と共に公家の館に届くという手際の
良さだった。
二年前、木曾義仲軍が京に乱入し、
略奪・暴行の限りを尽くした。加えて
畿内は、日照り続きによって凶作と
なり、餓死する者が野に満ち、鴨川
の河原は死体で埋まった。秀遠ら首途
の者たちは、日高見の米を若狭国
小浜湊から鳰の海(琵琶湖)を
経て京に運び入れ、公家たちの腹を
支えた。秀衡の名と仁徳は、いやが
うえにも高まっていった。
首途神社は、公家たちの機嫌を取り
結ぶ為の機関ではない。腕の良い細工
や番匠、船師や水夫、有能な僧などを
探し、次々に日高見国へと送っていた。
平家が壇ノ浦で滅んだとの早鳩の文
に接した秀遠は、早速小浜湊の日高見
船宛に早鳩を飛ばした。日高見船・
吉祥丸は、長門国青海島に向かった。
船長の仏哲らは、松浦党・山賀党の者
どもを救い出し、戦さの様子などを聞き
出した。
また、日高見船の勧進に合力する者
どもを募り、人別帳をつくった。源氏
軍は平家の落武者を厳しく追ったが、
松浦・山賀の水夫までは追っ手が及ば
なかった。
義経は、平家の軍船や宝物を各水軍
に分け与え、およそ1千隻の船団を率
いて瀬戸内を渡り、壇ノ浦海戦のひと月
後、京に凱旋した。京の都では、院も公家
も町の都人も、義経の奇中の奇と、平家の
哀れなる最期の話で沸き返っていた。首途
神社では、慈海からの詳細な戦さぶりの
報せを基に、日高見の琵琶法師が語り物を
編み、町の辻へ繰り出して義経の雄姿を
伝えた。
都人は法師の語りに群がり、琵琶の哀調
と平家の公達の悲哀を重ね、袂を
濡らした。やがて法師は、公家の館や法性
寺殿の後白河法皇の宴席へも招かれる事と
なった。
都が新たなる戦神・義経の熱に酔っている
最中、首途神社に参詣する白拍子がいた。
名を山吹という。山吹色の切袴
に紅梅色のからぎぬ唐衣を纏った山吹は、供
を一人連れていた。
白拍子の根は巫女であった。古代より最も
神に近い女である巫女には、厳しい修行が
課せられた。ゆえに神社を逃れ、巫女抜け
する女も多かった。そうした女たちは、身に
つけた歌舞音曲をなりわい生業として諸国を
巡った。
女たちは卜占で吉凶を判じ、口寄せして
祖霊を呼び出しもした。人は女たちを歩き
巫女と呼んだ。その中に、鼓と笛で男舞を
舞い、今様を詠う女たちがいた。女の身で
立烏帽子を戴き、白や浅黄色の水干に緋色
の袴を着し、腰に太刀を帯びて舞い歌うの
である。この女たちが、白拍子と呼ばれた。
清麗な気品の中に漂う淡い色香が、公家の
間で好まれた。
平清盛の母・祇園女御も
白拍子であった。後白河法皇の祖父・白河
法皇の寵愛を受けた後、清盛の父・忠盛に
下された。この為、清盛の実父は白河法皇
ではないかと、都人の間で密かに語られて
いた。
後白河法皇もまた、今様と白拍子を好んだ。
遠く平泉の地に在りながら、院や摂関家の
内情を知り得るのは、山吹ら白拍子が首途の
秀遠にもたらす話によるところが大きかった。
山吹と供の女は、首途神社本殿で秀遠と
対座した。樹木の涼気に包まれた
堂内に、郭公の鳴き声が響いていた。
「ささ、一服喫しませ。」
秀遠は、山吹と供の女に茶を勧めた。菓子
には環餅(まがり・後のかりん糖)が添えられ
ていた。山吹は慣れた様子で、供の女は初めて
口にするのか、怪訝な顔色で茶を喫した。
「かの姫御には、ちと渋うござったかのお。」
秀遠は、年若い供の女に言った。春先の白梅
のつぼみを思わせる、瞳涼やかなる女だった。
「妙なる御味にござりまする。」
「左様か。言うに言われぬ味とかや。」
秀遠は若い女の才気を愛で、微笑んだ。俗歌
に「妙の字は わか少き女の乱れ髪 ゆ結(言)う
に結われず 解(説)くに解かれず」とある。
茶の味を「妙」と応じた裏には、この歌の意味
が隠されていた。
「名は何と申されるや。」
「静と申しまする。」
「静。よい御名である。」
秀遠は静に環餅を勧めた。
「いまだ十四歳というに、舞いの鮮やかなる事、
他の者から抜きん出ておりまする。」
山吹は、わが娘を愛でるが如き口調で言った。
「六条堀川の館に住まいせし、判官様の御前で
舞うておりまする。」
と、山吹が続けた。
「ほう。義経殿とな。」
「判官様が笛を、弁慶様が鼓を打たれまする。」
秀遠は静に、義経という男について問うてみる
ことにした。
「静。判官様とはいかなる御仁なるや。」
「笛の音が哀しゅうござりまゐた。」
「ほう。笛の音がのう。」
秀遠は静をまじまじと見つめた。今を
ときめく御大将たる義経の栄華を語らず、
心の内を観て哀しいと察している。たぐい
稀なる心根の者と、秀遠は感嘆した。
「静殿は、舞いがお好きなるや。」
「舞うは楽しゅうござりまする。」
「判官様の笛で舞うはいかがぞ。」
「哀しき御心を和らげようと存じまする。」
「静殿は、生まれながらの菩薩とぞ見ゆる。」
秀遠はそう言って目を細めた。
「判官様は、平大納言時忠の娘を室に
迎えるとの事。」
山吹が冷笑気味に言った。
「ふむ。娘を嫁しておのが延命を謀るとや。
時忠は相変わらず喰えぬ男よな。」
義経には、河越太郎重頼の娘・妙
という正室がいる。とは言え実質的には、
義経の監視役と言える。妙は京における
義経の細目を手紙に記し、実家へ知らせて
いる。
ここで義経が平家と縁を結ぶという事は、
西国を束ね、鎌倉と並ぶ志を表明したのと
同じである。婚儀とはそうした政治的意味
を持つ。少なくとも鎌倉ではそう理解した。
「それもよろしかろう。」
秀遠は日高見流の思惑を込め、義経が
西国を束ねる事を善しとした。勧進船を
知らぬ坂東武者を、秀遠も好ましく思って
いなかった。
「そればかりではありませぬ。」
山吹がやや語気を荒げて言った。
「唐橋大納言や鳥飼中納言など、時忠殿
に続けとばかりに、判官様に娘を差し出し、
縁を結んでおりまする。」
「ほほう、それはそれは。判官殿が羨ま
しい。」
「秀遠殿。戯れ言にはござりませぬぞ。」
「いや、これは山吹殿。すまぬすまぬ。」
秀遠は、笑いながらため息をついた。
義経が鎌倉方の者として生きる道は、
まず無くなったと思った。頼朝はまず第一
に、院の力を排した国造りを目指していた
からである。
「山吹殿。この後も判官様の事、頼みます
るぞ。いずれ鎌倉と判官様は、手切れと
なりましょうほどに。」
秀遠の言葉に、山吹はさっと真顔になった。
「手切れと読まれまするや。」
「十中八九。山吹殿、静殿。判官様の事、
お頼み申しまするぞ。」
静は、二人が語る話の意味を知るや知らずや
わからぬまま、ただ微笑んでうなずいた。
その翌日、義経は平宗盛・清宗、平時忠
らの捕虜を護送して鎌倉へ向かった。夏至
を過ぎ、日中は汗ばむ日差しの中、軍団は
近江・美濃・尾張・三河・遠江・駿河と
進み、七日後に箱根を越えた。
義経一行が、相模国小田原(神奈川県
小田原市)の宿所で休んでいた時、鎌倉から
頼朝の使者・北条時政が捕虜受け取りの為
に現れた。時政は捕虜を受け取るやいなや、
護送の軍勢を率いて急ぎ鎌倉へ引き揚げて
いった。
義経と郎党一行は、鎌倉方の軍勢と引き
離され、酒匂の宿所に取り残され
た。そこへ再び、鎌倉からの使者・結城
朝光が現れた。
「断りなく鎌倉へ入るを許さず。しばらく
この辺りに逗留し、召し出されるを待つ
べし。」
と、朝光は頼朝の書状を読み上げた。
一の谷、屋島、壇ノ浦において大功を
挙げた者に対して、勝手に鎌倉に入るな
とは何事ぞと、義経は激怒した。義経は
頼朝の胆が読めなかった。
「北条か、梶原か、大江広元か。兄を取り
巻く者どもの成せる業なるや。」
義経は、兄・頼朝との対面を願い、とも
かく待った。数日待って何の使いも無い為、
義経一行は大磯の浜を進み、茅ヶ崎を過ぎ、
江ノ島の北、腰越の万福寺を宿所とした。
極楽寺切通しを越せば、そこが鎌倉である。
義経は弁慶に筆をとらせ、頼朝の側近・
大江広元に宛てた書状を口述した。
「左衛門少尉義経 恐れながら申し上げ候
意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅宣の
御使いとして朝敵を傾け、累代弓箭(きゅう
せん)の芸を顕はし、かいけい会稽の恥辱を
雪ぐ、抽賞せらるるべきところ処に、
思の外に虎口の讒言に依って、
莫大の勲功を黙止せられ、義経犯すこと無う
してとが咎を蒙り、功有って誤無しといえ
ども、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙
(こうるい)に沈む。
つらつら事の意を案ずるに、良薬は口に
苦く、忠言は耳に逆らうとは先言なり。
ここに因って、讒言の実否を正されず、鎌倉
の中へ入れざるの間、素意を述ぶること能
(あた)はずいたずら徒に数日を送る。この時
にあたって永く恩顧を拝し奉らずんば、骨肉
同胞の義既に空しきに似たり。宿運の極まる
ところ処か、はたまた先世の業因に感ずるか。
悲しきかな。この条、故亡父の尊霊最誕し
給はずんば、誰人か愚意の非難を申披(もうし
ひら)き、いず何れの輩か哀憐を
垂れんかな哉。事新しき申状、述懐に似たり
といえども、義経身体はっぷ髪膚を父母に
受け、幾の時節を経ずして、
故左馬の頭殿御他界の間、実無し子となって
母の懐中に抱かれ、大和の国宇多の郡
龍門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵
の思に住せず、甲斐なき命をながらう
許といえども、京都の経廻難事の間、諸国を
流行せしめ、身を在々所々に隠し、
辺土遠国に棲まんが為に、土民百姓等に服仕
せらる。然れども幸慶たちま忽ちに順熱して、
平家の一族追討の為に、上洛せしむるの手合に、
木曾義仲を誅戮するの後、平家
を攻め傾けんが為に命を亡くさんことを顧みず、
ある時は漫々たる大海に、風波の難を凌ぎて、
身を海底に沈め、骸をけいげい鯨鯢の腮
(あきど)に懸けんことを痛まず。
しかのみならず、甲鎧を枕とし、弓箭を業
とする本意、併せて亡魂の憤を休め奉り、
年来の宿望を遂げんと欲する外に他意なし。
あまっさえ、義経五位の尉に補任せら
るるの条、当家の面目、希代の重職、
何事か是に加へん。然りといえども、今憂深く
欺斬なり、仏神の御助にあらざるより外は、
いかでか愁訴を達せん。ここに
因って、諸神諸社の牛王宝印(ごおうの
ほういん)の裏を以って、全く野心を挿まざる
旨、日本国中大小神祇冥道を請じ驚かし奉って、
数通の起請文を書き進ずといえども、猶以って
御宥免無し。我国は神国なり。
神は非礼を稟けたまふべからず。たのむ
所他にあらず、ひとえに貴殿広大の御慈悲を
仰ぐのみ。便宜を伺い、高聞に達せしめ、秘計
を廻らされて、誤無き旨を優せられ、芳免に
預らば、積善の余慶を家門に及ぼし、栄華永く
子孫に伝え、よって年来の愁眉を開き、一期の
安寧を得ん。愚詞を書き尽くさず。併せて省略
せしめ候いおわんぬ。賢察を垂れんことを欲す。
義経 恐惶謹言 」
義経の真情と、弁慶の博識の才が一つに
合した文と成った。会稽の恥辱とは、春秋
の頃、呉王の夫差が、父の仇を討つ
為薪の上に寝て復讐の心を保ち、三年の後に
越王・匂践を会稽山で撃ち破る。
越王・匂践は、苦胆を嘗めて呉王を討ち返す
べく会稽の恥辱を忘れず、十二年の後に呉王・
夫差を滅ぼしたという、臥薪嘗胆の故事に
由来する。
兄弟共に臥薪嘗胆して平家を滅ぼしたと
いうのに、臣下の讒言に惑わされ、骨肉
相争うとは、父・義朝の霊も悲しむだろうと、
義経は兄に訴えている。兄弟の情においては、
頼朝もまた同様の感慨を抱いていたのかも
しれない。
だが、五位の尉は希代の重職であり、源家
の誇りではないかという義経の訴えに対し、
頼朝は否と言う。武家の世を成すには、官位
を喜ぶ性根など害にしかならない。武家の世
を成す為には、旧恩も情も捨てる。非情に
徹せねば成せぬ業もある。それが頼朝という
男であった。
弁慶にも、義経と頼朝を隔てるものが何で
あるのか、理解出来た。ゆえに、義経が連綿
と訴える情に涙しながらも、一方で腰越の
万福寺をおの己が死に場所と覚悟した。鎌倉
の手勢が十重二十重に寺を囲めば、いかに
豪勇無双の弁慶とて、逃げ切る事すら望め
ない。
だが万福寺には、頼朝よりの沙汰も無ければ、
義経への討手も現れなかった。頼朝はこの間、
漫然として義経を黙殺していたわけでは
なかった。舅の河越太郎重頼を呼び、次いで
畠山次郎重忠を呼んで、義経捕縛を命じていた。
だが二人とも、主命を固辞した。
弁慶は緊迫した静寂の中で、常に大薙刀を
持して討手に備えていた。寺の庭に出て人の
気配を探ったが、眠気を誘う夏の日差しが
ゆったりとまどろんでいるだけだった。遠望
すると、江ノ島の海が銀色に照り輝き、悠然
とたゆとうていた。弁慶の脳裏に、義経と共
に熱く駆けた西国の山野や海が、夢幻の如く
蘇ってきた。
熱く生きた季節を想うは、年老いた証かと、
弁慶は苦笑した。この後の事に考えを巡らせ
ていた時、義経が歩み寄ってきた。
「殿。京へ戻るべきと心得まする。」
弁慶の進言に、義経は「うむ」と答えた。
「是非もあるまい。」
義経はそう言って、しばし海を見ていた。
それからさらに数日を経て、義経主従は京
に向けて駒を進めた。義経を亡き者にする
千載一遇の機会であったにもかかわらず、
ついに討手は現れなかった。鎌倉方の耳目は、
義経が腰越を去って京に戻った事だけを頼朝
に告げた。
鎌倉方の耳目の他に、義経が京を出立
して腰越を去るまでを、ずっと見届けて
いた者がいた。琵琶法師に化けた、首途
神社の勧進聖・月照だった。
月照は義経の去った万福寺に立ち寄り、
住職から頼朝との対面ならずとの話を
聞くと、その足で鎌倉の府内に入った。
月照は日高見の耳目に繋ぎをつけると、
自らは再び京へと引き返していった。
月照の報せは、鎌倉から早鳩の文に
託され、平泉の泰衡のもとへもたらさ
れた。泰衡は信夫庄の国衡に向け、伝令
の早馬を送った。
「義経殿、頼朝殿との対面叶わず。手切れ
との由にござりまする。
」
国衡は、阿津賀志山
福島県伊達郡国見町)山麓の陣場に在って、
要塞の縄張りを指揮していた。
「やはりのう。頼朝とはわしが思うた通り
の男であったわ。」
国衡は使者に休息を命じた後、
「平泉に戻ったらのう、泰衡殿にこう申す
がよい。義経殿の次は、我が日高見である、
とな。」
国衡の眼下では、三千の兵が山麓の平地
を五丈(十六メートル強)の深さに掘削して
いた。いずれはおおくま逢隈(阿武隈)川の
水を引き入れて、水堀と成す胆である。
水堀の全面には、空堀と馬返しの逆茂木
(さかもぎ)を組み、水堀後方に城壁を構築
する事にしていた。
国衡は1千の兵を逢隈川に沿って配し、
亘理郡角田の高蔵寺付近
に、兵糧と武具の蔵を増設させた。また河口
の逢隈湊を整え、川舟と蔵を造らせた。
国衡は鎌倉方の大兵を迎え撃つ拠点として、
白河の関から二十里程奥まった、阿津賀志山
を選んだ。その理由は逢隈川にあった。遠く
会津の山塊を源とし、笹の葉色の水を漫々と
たたえて流れる逢隈川は、日高見川と並ぶ
大河である。
国衡は蔵王・相馬の山塊を天然の城壁に
見立て、逢隈川を天然の堀に見立てた。
阿津賀志山は、扇の要の地にあたる。ここを
破らぬ限り、騎馬武者は奥へと侵入出来ない。
加えて日高見の者にとって、川は船が往来
する道でもある。平泉から日高見川を下り、
牡鹿湊から塩釜湊、逢隈川河口湊を経て、
川舟で兵糧・武具を調達することが出来た。
また国衡は、残り1千の兵に、白河関から
平泉までの間に、のろしだい狼煙台を造る
事を命じた。鎌倉方の大兵を迎え撃つ防備
は、着々と進められていった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第二章・吉野静<3>
周防国阿弥陀寺を引き払った慈海ら一行
は、京の首途神社を宿所とした。義経の
鎌倉出立と時を同じくして、慈海は和泉国
へと旅立ち、矢車は白拍子に化けて山吹の
もとにあった。
生煮えの蒸し風呂の中に居るが如き
京盆地の夏が去り、全山が紅葉に色づく
秋となった頃、ひょっこりと矢車が首途
神社に現れた。
矢車は不満顔に膨れていた。秀遠は孫娘
をあやすように、干し柿や梨などの水菓子
を勧めて機嫌をとった。
「近頃、義経殿の御様子はいかがかな。」
秀遠は、井戸で冷やした梨を頬張る矢車に
聞いた。
「いかがも何も、静、静とうるそうて
かなわぬ。」
「ほお、左様か。」
秀遠は、矢車が不機嫌な理由を知り、目
を細めて微笑んだ。
「弁慶も伊勢三郎も、酒ばかり食ろうて
廓に入り浸っておる。」
「うむ、やり切れぬであろう。鎌倉と手切れ
となり、平家の旧領二十四ヶ所ことごとくを
召し上げられてはのう。莫大な戦功が水泡に
帰したのじゃ。」
義経をめぐって、後白河法皇と頼朝の
間で、激烈な綱引きが続いていた。頼朝が
平家の旧領を奪うと、院は義経を伊予守
に任じて、これに対抗した。頼朝は伊予国
の御家人に収税の権限を与え、伊予守の
職を名ばかりにした。何としても義経を
潰そうという、頼朝の執念が働いていた。
矢車の腹が水菓子で満たされ、不機嫌
が収まった頃合を見計らって、秀遠が刺客
の話を始めた。
「近々、土佐房昌俊
なる者が、義経殿を討つべく堀川館を襲う
そうじゃ。」
秀遠は、紅葉でも愛でるが如きおっとり
した口調で言った。
「討つ前に首途にまで知られるとは、
ずいぶんと間の抜けた刺客じゃな。」
矢車は、鳴り物入りの刺客に失笑した。
「ちょうど良い気散じとなる。この矢車様
の飛刀でもてなしてくれよう。」
日高見の耳目衆は大抵、護身の為に武術
を修得していた。宋国の禅の名刹・嵩山
少林寺より伝わる体術や棒術が主たるものだが、
矢車は飛刀(手裏剣)を好んだ。
「これこれ矢車殿。かような荒事は、弁慶や
伊勢殿に託せばよい。」
秀遠は困り顔になり、矢車をなだめた。
「深追いはせぬ。危うくなれば逃げる。」
「左様。逃げなされ。」
秀遠はそう言いながらも、矢車から頼まれて
いた飛刀の束と、防護服を差し出した。服は
黒木綿の羽織と筒袴で、日高見兵が夜戦に
用いる「隠形」という装束だった。羽織
には鉄片と厚革が縫い込まれていた。
矢車は嬉々としてそれを受け取り、上機嫌
になっていた。
「ときに土佐房とは何者じゃ。」
「下野国(栃木県)の住人と聞くが、委細は
知らぬ。梶原・和田・三浦など、主たる
御家人どもが皆、義経殿捕縛を固辞した
そうな。」
「討手の数は?」
「九十騎あまりかのお。三条の持宝寺を宿所
に致しておる。」
秀遠がのんびりと語っているという事は、
すでに持宝寺に耳目を潜らせ、手配りは終えて
いるものと、矢車は察した。
「今宵は三日月ゆえ、望月の頃かのお。」
「承知。」
「頼朝が討手を向けたと知れば、義経殿の
迷いが解けるやもしれぬ。」
秀遠に手勢があれば、先手を打って持宝寺
を囲み、急襲していただろうが、それは首途
の役目ではない。矢車も堀川館に戻ると、
義経ではなく、静と弁慶に夜襲の事を伝えた。
「それがまこと真実であるならば、土佐房が
討ち入るのを待つしかあるまい。」
弁慶は、矢車の話にそう応じた。館内に
乱入され、火を放たれては困る。野戦に持ち
込みたい。弁慶は生き生きと語り、策を
練った。
「土佐房の物見も、堀川館を伺っておろう。
ここはわざと隙を作り、我らは館の外に出て
備えようぞ。」
弁慶は矢車を交え、伊勢三郎や佐藤忠信
らと段取りを語り合った。
(ほんに男という生き物は・・・)
と、矢車は思った。戦さを語る男どもは、酒
に酔い頼朝を罵る姿とは全く別の姿だった。
目を輝かせ、戦さ支度を楽しんでいる様子
だった。
やがて望月の冴えた光が、京の夜を照ら
した。土佐房の物見は、夜襲に備えた様子
の無い館を見て、勝算を高めた。
「弁慶は娼館で酒に浸り、他の者もこれに
類す。夜の館は、女と義経のみにて候。
我が方の勝ちは決したり。」
度重なる物見の報を聞き、用心深い
土佐房が意を決した。
「よし。決行は今宵といたす。備えよ。」
十七夜の夕刻から、持宝寺境内はにわかに
慌ただしくなった。殺気立った武者の気を
察して、百頭余の馬がいななき騒いだ。
首途の耳目たちも、各所に使いした。
決行は今宵と告げて回った。弁慶は法衣の下
に腹巻きを着したまま、夜の更けるのを待ち、
矢車も隠形服を着して夜襲に
備えていた。
子の上刻(午前0時)。ひたひたと迫る馬蹄
の音で、浅くまどろんでいた矢車が目を覚ま
した。矢車は腰に飛刀束を巻き、背に太刀を
負うと、隣室の静を伺った。静は灯を入れて、
義経に鎧を着せていた。
矢車は厩に走り、義経と共に一の谷の断崖
を駆け降りた、名馬「青海波」を引き出した。
「喜三太、殿の御前へ。」
と、厩番の喜三太に青海波を託すと、自らは
大手門脇の大楠に登り、夜襲隊を待ち受けた。
土佐房昌俊率いる九十騎は、月光と先導する
松明の炎によって、程なく六条堀川の館へと
駒を進めた。
「夜中多数を以って駒を並べ、
都大路を騒がすは何者ぞ。」
矢車は木の上から、騎馬武者めがけて大音声
を放った。時ならぬ女の声に、武者たちは
一瞬たじろぎ、やがて失笑した。
「女か・・・」
「控えぬか、土佐房昌俊。八幡大菩薩の使い
に対し、無礼であろう。」
闇の中、頭上より我が名を呼ばれ、土佐房
は背筋を凍らせた。だが勇をふるって矢車に
答えた。
「我らは野盗にあらず。鎌倉の源頼朝公の命
により、逆賊義経を捕縛に参った者。」
「笑止なり、土佐房。兄が弟を討つとは、
天道に背く大逆。わが主、八幡大菩薩の教え
にあらず。恩賞の欲に目が曇るとなれば、
天罰たちどころに下るであろう。」
矢車は口寄せの芸を用い、野太い男の声に
変じて語った。
「源家の正嫡たる頼朝公こそ、八幡大菩薩の
化身にあらずや。主命に従うが天道なり。」
土佐房はそう言い放ち、大門を掛矢で打ち
破るよう指図した。
二人の郎党が掛矢を持し、大門に向けて
振り下ろそうとしたその刹那、月光にきらめき
ながら飛刀が宙を切り裂き、一人の男の左目
に深く突き刺さった。続けざまに、もう一人
の男の左鎖骨が飛刀に砕かれた。
「うぐぐぐっ・・・」
二人の郎党は、鮮血を流しながら悶絶し、
その場に倒れた。
「ちっ、外れた。」
眉間を狙った矢車が、悔しそうに舌打ち
した。
「近頃、舞いばかりに興じておったから
のう。」
矢車が時を稼いでいる間に、義経は鎧兜
に身を固め、しげとう重藤の弓を脇に抱え
て、かつかつと大手門に進んだ。
喜三太は閂を外し、門を八の字に押し
広げた。土佐房の郎党共が、一斉にざわ
めいた。
「聞けや、土佐房昌俊。われこそは左馬頭
義朝の子、検非違使の判官、伊予守義経
なり。討たんとする者はわれに続け。」
そう言うと義経は、青海波の胴を両
の鐙で蹴り、単騎で駆け出した。駆け
ながら矢をつがえ、振り向きざまに
ひょうと射た。矢は土佐房の郎党の腹巻き
に突き立てられた。
「うぬ。追え、追え。」
土佐房の大音声に急き立てられ、八十七騎
が一斉に駆け出した。馬蹄が地鳴りの如くに
響き渡った。五条の鴨川河原辺りに出た時、
大薙刀を持した僧兵が単騎、土佐房勢の前
に立ち塞がった。
「伊予守義経が家人、武蔵棒弁慶、見参。」
土佐房が謀りごとと知って舌打ちした時、
左右から続けざまに矢が飛来した。
「同じく常陸坊海尊。」
「伊勢義盛。」
「片岡経春。」
「佐藤忠信。」
「伊豆有綱。」
「亀井六郎。」
数々の修羅場をくぐり抜けてきた一騎
当千の兵どもとは言え、義経主従は小勢
であった。それでも八十七騎を八方より
囲み、土佐房勢に斬り込んでいった。
弁慶や常陸坊は大薙刀を振るい、右腕を
狙って次々に斬り裂いていった。利き腕
を負傷すれば、戦闘力はかなり衰える。
十七夜の月光の中、たちまち乱戦と
なった。
「敵は小勢ぞ。押し潰せ。」
土佐房は叫びながら義経を求め、太刀を
振るって駆けていた。土佐房がふと四条
河原の方を見ると、そこに新手の騎馬隊
が四十〜五十騎、突如として現われた。
「敵か、味方か。」
土佐房は動きを止め、新手の騎馬隊に
目を凝らした。新手はみるみる土佐房に
近づいてきた。
「伊勢義盛はいずこぞ。」
先頭を行く騎馬武者が、繰り返し伊勢義盛
を捜していた。
敵と太刀を合わせていた伊勢義盛が、
その声に応じた。
「われは鈴鹿の土蜘蛛。手下と共
に助け働きいたす。」
「おお。」
伊勢義盛は感嘆の声を上げた。その声
と名には聞き覚えがあった。義経の郎党と
なる以前、義盛は鈴鹿辺りを根拠とする
山賊を生業としていた。土蜘蛛はその時
の配下だった。義盛は、義理がたい男たち
一人一人の手を握り、
「存分に稼がれよ。」
と言って回った。
鈴鹿の山賊、土蜘蛛の配下たちは
「夜叉丸・・・羅刹・・・黒酒
・・・」
と、それぞれ義盛に名乗り、すぐさま乱戦の
中に駆けていった。右腕を斬られ、あるいは
矢傷を受けた者に、筋金入りの棒杖を振るって
馬上から叩き落とし、組み伏せて咽輪に短刀
を当て、
「命は取らねえ。身ぐるみ脱いで、馬を置いて
去れ。」
と、山賊働きを始めた。
東の空が白み始めた頃には、八十七騎だった
土佐房勢は大半が蹴散らされていた。
「秀遠殿の隠し業が、鈴鹿の山賊とは・・・」
樹上で物見していた矢車は、首途の手配の
細やかさに感嘆した。山賊の戦利品は、首途
が買い取るのだろう。矢車は大笑いをこらえ、
義経主従の大勝を見届けると、堀川の館に
引き上げた。眠れずに帰りを待つ静に、義経
の無事を伝える為だった。
土佐房昌俊と息子の太郎、従兄弟の伊北
(いほうの)五郎盛直は生け捕られ、伊北
家季、錦織三郎は討死
した。
「仕損じたとあっては、もはや帰れぬ。疾く
討て。」
土佐房はそう言って、義経の助命を頑強にはね
つけた。
「そうまで申すならば、是非にあらず。」
義経は土佐房ら三人に、六条河原での斬首を
申し渡した。
第3章「北斗星」第4章「日高見夢幻」へと続きます。