犬になりたい男の後悔
「変態にお姉様を近づけません」
「違う!!俺がウミだ」
「貴方がウミを誘拐したの!?返しなさい!!お姉様は悲しんでるのよ!!」
「俺がウミだ!!ロアーナに会わせろ!!」
「面会謝絶よ!!ウミは仔犬よ。憎たらしくても穢れてはいなかったわ!!お姉様の名前を口にしないで。穢れるわ!!この変態を追い出しなさい。私の命令よ。お姉様に近づくならその首を落とすわ」
テリーヌ・アナム伯爵令嬢は連日最愛の姉に面会を求める男を今日も兵に捕えさせ追い出した。最愛の姉の部屋に行くと犬の縫いぐるみを抱きしめている姿に顔を緩ませる。
「お姉様、ご気分はいかがですか?」
「ウミは私が嫌になって出て行きましたのね。きっと可愛いご主人様に拾われて、私は―」
テリーヌが贈った犬の縫いぐるみを抱きしめて儚く微笑んでいるのはロアーナ・アナム伯爵令嬢。テリーヌの姉であり、つまらない女と言われ婚約破棄され、可愛がっていた仔犬に逃げられた幸の薄い令嬢である。
身体が弱く、子供の頃はずっと部屋で過ごしてたロアーナは極度の人見知り。
そんなロアーナは慣れた人の前では表情豊かな可愛らしい少女であり、テリーヌは自他共に認めるシスコンである。
****
スカイ・オメガ伯爵子息の婚約者は同じ歳の可愛げのない令嬢。
アナム伯爵家の長女のロアーナと15歳の時に婚約して2年経つが笑顔の一つも見せずに、相槌を打つだけで碌に会話も成り立たない。次男のスカイはロアーナと婚姻すればアナム伯爵になれる。それでもつまらない女と一生共にするなど耐えられない。武術の嗜みもあり王宮騎士に志願すれば生活には困らない。
引き締まった体に輝かしい金髪と母親譲りのエメラルドの瞳に整った顔立ち、女は勝手に寄ってくるため不自由もない。
スカイは会場で待ち合わせをしたロアーナとはファーストダンスだけ踊りすぐに別れた。最初の形式的な挨拶以外の会話はなく、その後のロアーナの行動は知らない。友人達と酒を楽しみ、誘ってほしそうな視線を送る令嬢とダンスを踊りオメガ伯爵邸に帰る。
そして邸に帰るとスカイにとって不本意な婚約を思い出す。年に数回エスコートするパーティでさえも苦痛なスカイは今日も気に入らない婚約者を思い浮かべ父の部屋に乗り込んだ。
「父上、俺は爵位のためでもあんな女は嫌だ!!つまらない。ダンスだって下手、しかも田舎領地」
「王都から離れているが、海を持つ豊かな領地だ。それに可愛らしいご令嬢」
「どこがだよ!!愛想笑いもできない!!常に無表情。挨拶以外で話せず、取り柄なんて家柄だけで」
「お前は人を批判できるような立派な男なのか?」
「はぁ!?アレと比べれば」
不機嫌な顔のスカイと呆れた顔の伯爵の何度目かわからない言い争い。ただし今日だけは違っていた。
扉の外から笑い声が聞こえ、部屋の中に入ってきたのは、海の色を持つ少女。
「すごい自信ですこと。ふふふふ。ご挨拶はもうよろしいですわね?どうぞ破棄なさってくださいませ。うちはオメガ伯爵に是非と頼まれて了承致しましたの。お姉様の魅力がわからない方などごめんですわ。お父様には私からお話しますわ。お姉様、行きましょう」
アナム伯爵家に受け継がれる海の色を持つ姉妹。青い髪に国内でも珍しいマリンブルーの瞳を持つテリーヌと背に庇われているのは姉のロアーナ。
色白の肌に上品な青いドレスを着ている華奢な体のロアーナ。美しい顔立ちに妹に向けて微笑む顔に見惚れるものは多い。体が弱くほとんど領地から顔を出さない少女にお近づきになりたい者は多くも近づけない理由があった。
姉とお揃いの緑色のドレスを着ているが正反対の小麦色の肌と豊満な胸と引き締まった腰を持つのはテリーヌ。明るく活発な性格で毒舌のシスコンとして有名な15歳の少女である。
パーティでは常にこの姉妹は一緒である。テリーヌが単独で参加することはあっても姉のロアーナが一人で参加することはない。ロアーナに近づけるのはシスコンのテリーヌに許された者だけだった。
容姿端麗なスカイとロアーナが並ぶ姿にうっとりする者も多いが、二人の冷めた態度に特別でないのは明らかだった。裕福なアナム伯爵領の跡取り娘と言われる美しいロアーナの婿に選ばれたい者も多いがロアーナには近づけないためスカイと破局を望む者も多いので、スカイの誤解を訂正する者はいない。
そしてスカイに恋い焦がれる令嬢達も。
スカイはこの婚約を整えるためにどれだけ父親が苦労したか知らなかった。
ロアーナは手に持っていたスカイの上着をテリーヌに渡して礼をして無言で立ち去った。テリーヌは動揺している姉から上着を受け取り、鋭い視線でオメガ伯爵とスカイを睨み口を開く。
「忘れ物です。バルコニーに置かれていたのをお優しいお姉様がわざわざ届けるために寄られました。うちの敷居を一切跨がないでくださいませ。もう私達の前に現れないでください」
テリーヌは力いっぱい腕を振りかぶり上着をスカイの顔を狙って投げつけて礼もせずにすごい速さで出ていく。無礼な婚約者に姉を託したくないテリーヌは絶対に婚約破棄させようと意気込みながら姉を追いかけた。
スカイは上着を顔面にぶつかり、後ろに倒れ込む。上着を放り投げて天井を見てニヤリと笑う。
「バカ力。これで一見落着?」
「バカ!!謝ってこい!!」
「あんなのと結婚するなら犬と結婚したほうがマシだ」
「ふぅん。犬と結婚したいの。新しいものを試したかったし、利害の一致ね。お代はいらない。サービスよ。私は善良なのよ」
オメガ伯爵が怒鳴る前に、突然部屋に姿を現したローブを着た少女が楽しそうに話す。
少女が聞き取れない言語を呟くとスカイの体が輝き、スカイは眩しさに目を閉じる。スカイと少女の姿が消え伯爵は気を失った。
スカイは目を開けると父の部屋ではなく外にいた。伯爵邸に帰るために歩くと視界の低さに周りを見渡すと、スカイの周りに大きな人が集まっていた。
「犬!?嘘でしょ」
「気持ち悪ぃ!!」
「不吉な」
「真っ黒なんて」
「悪魔だ!!」
黒は不吉な色と言われており、真っ黒な犬を見て蔑む声が響く。スカイは長い足に蹴とばされ吹き飛び、石を投げられ文句を言おうとしても口が開かない。身の危険を感じ逃げ出した先には見覚えのある二人がいた。
市で買い物をしていた海の色を持つ少女はボロボロの黒い犬に膝を折り、柔らかく微笑み両手を広げる。
「あら?まぁ、おいで」
「お姉様、それは」
「傷だらけね。手当をしましょう。意地悪しませんよ。うちにくれば美味しいミルクもありますよ」
ロアーナは二足歩行の汚れて傷だらけの黒い犬を抱き上げ、馬車に乗る。テリーヌは怪しい犬を躊躇いもなく抱き上げる慈愛の女神のような姉に見惚れる。うっとりとするテリーヌは姉の腕の中で暴れているスカイに気付き我に返り睨みつける。
「テリーヌ、心配しないでくださいな。お父様達は留守、私のお部屋でお世話を。お父様は犬が嫌いですもの。こんなに可愛いのに、意地悪しませんよ」
「もしもお姉様を傷つけたら」
「可愛い貴方の口からそんな言葉は聞きたくありません。ごめんなさいね。テリーヌは心配性だけど優しくて私と違ってとても魅力的で―」
「お姉様は世界で一番素晴らしい方です!!あんな方の言葉なんて気になさらないでくださいませ」
ロアーナの腕から逃れようとしていたスカイの動きが止まる。本人に言うつもりはなかった。ロアーナは動きを止め、しょんぼりした顔をして見える犬を膝の上に乗せて頭を優しく撫でる。
「優しい子。あら?大丈夫ですよ。そこまで嫌がられてましたのね。私もせめて領地を大事にしていただける方をお迎えしたいので構いませんよ。いざとなればクリフがいますし、ご縁を紡ぐ前で良かったですわ。お父様はそう思っていただけるかわからないけど」
「ご安心を。絶対に説得します!!」
意気込むテリーヌと優しく微笑むロアーナが馬車から降りると、スカイが暴れたため泥だらけにされたロアーナを見て侍女が悲鳴をあげる。
「お嬢様!!そのお姿は!?」
「お父様には内緒にしてくださいね。湯あみを。この子の食事を用意してくださいな。お部屋でこっそり元気になるまでお世話します。責任は私が持ちます。お願いできて?」
悪戯っ子のように笑い首を傾げるロアーナに侍女達が笑顔で頷く。伯爵邸の侍女達はあまりお願いをしない身体の弱いロアーナに弱く表情豊かな優しいお嬢様を溺愛している。
テリーヌも大事にしているが激しいシスコンゆえに少し引いている。そしてたくましくお転婆のテリーヌにはどちらかというと手をやいている。落ち着かせてくれるロアーナと一緒の時だけが一番安心できる。二人並んで座っていれば女神のような美しさと絶賛する伯爵家の使用人達はどちらのお嬢様も大好きである。
スカイは見たことないほど饒舌で愛らしい声で話し、表情豊かなロアーナを夢中で見ていた。
「お姉様、お待ちになって。これは」
テリーヌはロアーナの腕からスカイを抱き上げて鋭い視線で全身を確認して口を開く。
「これの湯あみは侍女に。犬とはいえ殿方にお姉様の美しい肌をお見せできません」
「お嬢様、綺麗に洗ってお部屋にお連れしますよ。ご無理をなさってはいけません。湯あみをして休んでください」
「心配性ね。わかりました。お願いします」
身体の弱いロアーナは皆を心配させないように明るく笑いスカイをテリーヌに預けて湯あみに行く。コホっと空咳をすると侍女の顔が青くなるのでニコッと無邪気に笑ってごまかした。
テリーヌは姉を見送り鋭い視線でスカイを睨む。
「私はこの犬は下品に見える。お姉様に不埒なことをしないようによく見てて!!お父様が帰宅されたら私に。あの憎き男!!お姉様をつまらない女と!?謝罪に来ても追い返しなさい!!しつこいなら首を撥ねればいいわ」
「お嬢様?」
「お姉様の元婚約者。名前を口にするのもおぞましい!!これお願い。お姉様のお部屋にお連れするから綺麗にして」
声を荒げて怒るテリーヌを宥められるのは一人だけ。テリーヌはスカイを侍女に投げて、自分も湯あみに行く。そして暴言を吐かれても怒らない姉の代わりにスカイの暴言を侍女に話し発散する。
スカイは侍女に預けられ、お湯をかけられゴシゴシと乱暴に洗われる。暴れるスカイを取り押さえる細い腕のわりに恐ろしいほど腕力のある侍女にドン引きし、暴れるほど乱暴になるので動きを止め途中からはされるがままだった。
恐ろしい腕力を持つ侍女がスカイを抱いてロアーナの部屋を目指すと部屋にはテリーヌもいた。
「お嬢様、お待たせしました」
「ありがとうございます。怪我の手当ても終わってますね。お食事にしましょうか」
ロアーナは侍女から受け取ったスカイをクッションの上に降ろし、前にミルクを運ばせる。
スカイは皿の上のミルクを見る。自分の手足が短く黒く毛むくじゃらになっているのはわかっていても現状を理解していなかった。話そうとしても声にならずに話せない。
纏めている髪を解き、夜着にガウンを羽織ったロアーナはクスクスと笑いスプーンを用意させ、スカイを抱き上げてスプーンで掬ったミルクを口に近づける。
「どうぞ。ミルクは好きではありませんか?」
「変な犬ですね。お姉様に食べさせてもらう贅沢を」
スカイはテリーヌの殺気に怯え口を開くとミルクが口に入れられる。
「えらいですわ。はい、どうぞ」
微笑みながらロアーナにスプーンをまた口にあてられる。空腹が満たされたスカイは眠気に襲われ目を閉じた。
「可愛い。お父様が動物をお嫌いでなければ」
「お姉様もそろそろお休みください。まだ病み上がりですよ」
「わかりました」
「お姉様、一緒に寝るのは駄目ですよ。そこの篭に入れてくださいね。犬の毛が混じればお父様に見つかりますよ」
ロアーナは動物の毛が邸に入るのさえも嫌う父を思い出し、残念そうにスカイを篭にいれベットに入り眠りにつく。
それから鳴かない犬をウミと名付けて可愛いがった。
「ウミ、ここに隠れていてください。お父様には内緒ですよ」
体力のないロアーナは部屋で過ごすことが多い。スカイを抱いて本を読みながら、表情をコロコロ変える。
素っ気ないテリーヌとは正反対のロアーナに大事に世話をされてスカイはどんどん惹かれていく。
優しく微笑む顔にも、楽しそうに笑う顔も。泣いているときは肉球で涙を拭うと微笑みかけられ頭を撫でられると恐ろしく気持ちがいい。スカイはロアーナの部屋でのんびり過ごすのが気に入っていた。
コホっと咳をしたロアーナは悲しそうにため息をつき、スカイを篭に入れてテリーヌに渡した。
「ウミをお願いします」
「わかりました」
「大丈夫ですよ。はしゃぎすぎましたわ。薬を飲んで一晩眠れば治ります。心配しないでくださいな」
「お大事になさってください。ウミ、来なさい。駄目よ」
テリーヌは嫌がり篭から抜け出すスカイを抱いてロアーナの部屋を出て自室に行く。
「私はお姉様みたいに優しくないわ。食事は自分で食べなさいよ。置いておくから。お父様に見つからないように部屋から出ないでね」
テリーヌがミルクを置いて部屋を出ていくとスカイはロアーナの部屋に行く。咳が聞こえ、ベッドに近づくと真っ赤な顔で咳き込みながら、熱で朦朧とするロアーナがいた。スカイはロアーナのことを何も知らない。ベッドの上に飛び上がり、髪を乱して、汗をかくロアーナの顔を眺める。
「だ、だいじょうぶですよ。死んだりしませんよ。いつもと一緒。テリーヌ、大丈夫ですよ。泣かないでください。安心してください。お姉様は病気に負けませんわ。テリーヌと一緒に大人になりますわ」
ロアーナはいつも心配そうな顔をしている妹と間違えて微笑みかける。体の弱いロアーナを跡取り娘に選んだのは両親の願いだった。ロアーナがいないと困るから生きてと。どうか病に負けないで。社交は姉妹で協力すればいい。二人で協力して領地を盛り立てなさいが両親の口癖。小さい頃から自分が倒れるとロアーナよりも辛そうな顔をする妹にいつものように手を伸ばし微笑み続ける。スカイは潤んだ瞳で微笑むロアーナを見て胸の鼓動が速くなる。乱れた夜着から覗く真っ白い肌にささやかでもふくらみのある胸元、熱で染まった赤い顔に、濡れる唇からこぼれる吐息。スカイは目を閉じたロアーナの熱い頬に手を伸ばし、そっと唇を重ねると光に包まれる。魔法が解けるには口づけというのは物語のお決まりである。
テリーヌはスカイを探し、ロアーナの部屋に入ると目の前の光景に息を飲む。姉の寝顔を見ている見覚えのある憎い人物を鋭い視線で睨み、肩を掴んで背負い投げする。気を失ったスカイを外に捨てるように執事に命じる。スカイが姉の寝込みを襲ったと知られれば姉の醜聞になるので兵に突き出すのはやめた。そしてぐっすり眠る姉から憎い男の匂いがしないかを確認しながら汗を拭き、服を整え犬探しを再開する。テリーヌはスカイが姉を襲ったなら暗殺する気だったが未遂だったので見逃した。優先すべきは犬探しだった。一晩中、家臣総出で探しても姿がなく、テリーヌは慌てて犬の縫いぐるみを手配した。
スカイは目が覚めるとアナム伯爵邸の前だった。自分の手が黒くないことに驚き、立ち上がると視界が高い。ロアーナの部屋でテリーヌに投げられた後の記憶がなく考え込むスカイを執事が冷たい顔で見つめ口を開く。
「お目覚めですか?お嬢様より今回だけは見逃しますが次はないと仰せつかっていますどうかお引き取りください」
「は?あ、え、ロアーナは」
「恐れながら貴方にお話すべきことはありません。どうかお引き取りを」
「俺は彼女の婚約者だ」
「すでに破棄されてます。お引き取りを」
それからスカイとテリーヌの攻防戦が始まった。
しばらくして久々に寝込んだロアーナを心配した伯爵はロアーナを空気の綺麗な領地に返した。王都での社交にはテリーヌを残して。
体調が回復したロアーナは伯爵領に住む二つ上の幼馴染を訪ねた。アダム伯爵領に住む海の男を取り仕切る海兵隊の総長の孫の名はクリフ。ロアーナとは正反対の大柄な体とこんがりと焼けた肌を持つチョコレート色の瞳の青年である。
クリフは帽子を被っても日焼けをするとすぐに肌が赤くなるロアーナの手を引いて日陰に移動する。ロアーナはハンカチを敷いて地面に座る。王都で買ったお土産のお菓子をクリフに渡し膝を抱えて顔を埋める。
「婚約破棄されました」
「伯爵閣下は?」
「なにも。私は婚約破棄されたことよりもウミが出て行ったことのほうが悲しく」
クリフは膝を抱えて落ち込むロアーナの頭を撫でながら、侍女にお使いを頼む。侍女が特効薬を持って戻ってくるまでロアーナの沈んだ声の話に耳を傾ける。婚約者とうまくいかないのは知っていた。人の感情の機敏に聡く、人見知りの幼馴染が不機嫌な顔で睨む婚約者を怖がり、ダンスさえもまともに踊れないのも。
婚約が決まってからは婚約者とダンスを連続で踊ることもあるだろうと倒れそうになりながらも必死に体力をつけた。そしてようやく3曲までなら倒れずに踊れるようになった。
クリフは体は弱いのに心だけは強い幼馴染に付き合った。伯爵や父に怒られながらもロアーナの頼みだからと。
クリフは侍女が持って来た特効薬を受け取りロアーナの頬にあてる。
「ほら、」
ロアーナは顔を上げて、クリフが掴んでいる兎を見て、満面の笑みを浮かべて手を伸ばし抱きしめる。
「可愛い!!動物がいるお家に嫁ぎたい」
「動物の毛が苦手だから無理だろう。だから発作を起こしてこうなったんだろう?」
「そうでしたわ。テリーヌには内緒にしてますのよ。お願いしますね」
「いつでもうちに来いよ」
「ありがとうございます。クリフ、私のお婿さんになってくださいませんか?」
「伯爵閣下から話があればだ」
爵位はないがアナム伯爵家では海の男を婿に迎えるのは珍しくはない。
クリフはスカイと違ってロアーナを嫌っていない。スカイにボロボロに言われ、婚約者とうまくいかなかったロアーナは自信がなかった。それでも貴族令嬢が未婚は許されないのはわかっていたので、恋人のいないクリフにお願いした。
クリフはロアーナにとっては兄代わりであり唯一の理解者。
動物の毛や埃、草、色んなものですぐに発作を起こして熱を出すロアーナ。苦しんでもいいと言う好奇心旺盛なロアーナに色んなものを見せるのはクリフだけ。そしてロアーナの身体の状態を良く理解しているのも。
ロアーナは過保護ではないクリフの隣は居心地が良く、時間ができると遊びに来ていた。自分が抱いている兎が今夜のクリフの胃に治まる予定とは気付かず、兎を愛でながら落ち込む心を浮上させた。
ロアーナが愛犬に逃げられ婚約破棄された傷を癒し、領地でのんびりしている頃に王都では噂が回っていた。
スカイがアナム伯爵令嬢、元婚約者の妹に惚れて毎日求婚しているという。
スカイは連日アナム伯爵邸を訪問し、テリーヌと笑顔で攻防を広げている。
暴れ馬のようなテリーヌにドン引きせずに付き合えるスカイにアナム伯爵は感心していた。体は弱く人見知りだが、打ち解ければ誰にでも優しい長女よりも次女の縁談相手のほうが心配していた。そして、オメガ伯爵家から謝罪を受けて再びスカイを迎えることを決めた。
「スカイ!!よくやった!!アナム伯爵が許してくださった」
「本当ですか!?」
「好みは仕方ない。まぁ伯爵はどっちの婿を選ぶかは資質を見て決めると」
オメガ伯爵邸ではスカイは新しい婚約者の名前を確認せずに喜んでいた。オメガ伯爵も力のあるアナム伯爵家との縁談に喜び祝杯が上げられていた。
「お父様、私はあんな汚らわしい男は嫌です」
「テリーヌと渡り合う男なんて初めてだろう?ロアーナも気にしていない。気になる男がいるならやめるが、ロアーナよりも好む相手はいるか?」
「いません!!お姉様が」
テリーヌもいずれ政略結婚するのはわかっていた。両家の両親の中ではすでに決まっているので反対するのは諦めた。テリーヌにできるのは姉のために変態を近づけないこと。
変態を王都の屋敷に残し、自分は領地で姉と過ごそうと切り替え策を練りはじめる。
***
「なんでお前なんだ!!」
「お姉様に近づかないで。私の婚約者なら当然ですよね?社交は私が。王都の屋敷以外は足を踏み入れないで。伯爵領に来たら首を落とすわよ!!帰りなさいよ!!」
スカイは恐ろしい婚約者を持ち、惹かれていたロアーナに会わせてもらえない。伯爵領を訪ねたスカイを見て顔色の悪い姉を見て、テリーヌはスカイの腕を抱き愛らしく笑う。
「ロアーナ」
「お姉様、お部屋にお戻りください。スカイ様の相手は婚約者の私が」
「邪魔はいけませんね。ごゆっくり」
ロアーナは震える声で無表情で礼をして去っていく。テリーヌは望まない婚姻をすると知れば姉が悲しむのを知っていたのでスカイを慕っているフリをする。テリーヌにとっては一番大事なのは姉である。子供はいずれ姉に生んでもらおうと仮面夫婦の予定である。ロアーナが去るとすぐに手をほどき、テリーヌは手をハンカチで拭く。スカイはロアーナに声を掛けるのを邪魔したテリーヌを鋭い目で睨む。
「なんで邪魔をするんだよ!!」
「お姉様に近づかないで!!穢れる!!」
テリーヌとスカイの喧嘩は日常茶飯事。お転婆なテリーヌに慣れている使用人は驚かない。
ロアーナもテリーヌは領民とはしゃいで遊ぶ姿を良く知っているので楽しそうな妹を止めない。好きな人に意地を張ってしまうものと恋愛小説を思い出しながら放れた場所からそっと眺める。
成人したロアーナはテリーヌの強い勧めと両親に命じられてクリフと婚姻する。
時々伯爵領に視察に訪問し、喧嘩している妹夫婦を船の展望デッキに上がって眺める。ロアーナはスカイには嫌われていると思い込んでいるので、できるだけ近づかないようにしている。
「これが正しい形ですね」
「テリーヌが伯爵夫人でロアーナが領主夫人?」
「はい。私は社交ができませんから。やはり伯爵家はテリーヌが継ぐべきだと思ってましたわ。もちろん海を守り伯爵領民を守ってくださるクリフも歓迎しますわ」
「今日はもう終わり。これ以上は熱が出るから湯浴みだ。潮風に当たりすぎるのもな」
クリフはロアーナの肩に止まった鳥を追い払う。
「ウミは元気でしょうか」
「亡骸がないなら元気だろう。動物は自然が一番だ。そういえばテリーヌが世継ぎは俺達に作れってさ。子供嫌いだから子育て無理だと」
「まぁ。あの子ったら。授かりものですから。スカイ様がテリーヌを慕っていたとは思いませんでしたわ。テリーヌに比べれば私はつまらない女」
楽しそうに笑うロアーナを風から守るようにクリフが抱き寄せ、ニヤリと笑う。
「俺もつまらない男だから丁度いいだろう?」
「ふふふ。私達なりに領地のために頑張りましょう。お2人の御子が生まれたら代わりに育ててもいいですし、またお船に乗せてくださいね」
「帰るよ。湯浴み。抱いて帰ろうか?」
「もうおんぶではありませんのね」
「ロアーナもお年頃だからな」
ロアーナはクリフに手を引かれてゆっくりと歩き出す。お嬢様と手を振る民に笑顔で手を振り返す。体力のないロアーナに代わりクリフが頑張ってくれるので、ロアーナは得意な内務を引き受けできる限りで頑張る予定だった。
***
スカイは目の前の書類の山を見ながら呟く。義弟になってもロアーナはスカイに怯えておりウミのときに見せてくれた笑顔はない。妻は同じ色を持ち顔の作りだけは似ているはずなのに、ロアーナの面影もなく可愛らしさのカケラもない。
「犬になりたい」
「変態」
「戻りたくなかった。もう一度」
「働いてください。お小遣いで子供さえ作らなければ愛人を買ってもいいですよ。お姉様には近づかないで」
「ロアーナが良かった!!クリフより俺のが格好いいのに」
「どの男よりも劣っている貴方の言葉には思えませんね。その自意識過剰直したほうがいいですよ。私は領地に戻りますのであとはよろしくお願いします」
テリーヌは夫に仕事を押し付けて今日も領地に帰る。
動物は飼えない姉夫婦の部屋にはこれから生まれてくる子供のために動物のぬいぐるみがたくさん置かれている。姉夫婦が鈍いのをテリーヌはよく知っている。
昔からお互いしか見えていないのに気付かない。人見知りの姉がいつも隠れるのはクリフの背中。誰よりも姉を理解しているクリフ。好きだから相手のことが知りたくなる。時間が空くと会いたくなるのは好きな人。
テリーヌは姉を愛していても一番にはなれない。幼い頃はテリーヌはクリフに恋をしたと思っていた。でも時が経つと目で追っていたのはクリフと一緒にいる姉のほうだと気付いた。庭園でクリフの背におぶられて散歩する姉を見てクリフが羨ましかった。決して本当の心は言わない。姉に横恋慕する男の中で百歩譲って任せられるのはクリフだけ。クリフが浮気するならすぐに首を落とすつもりだが。
だから今日も害虫駆除に余念はない。自分の夫にも絶対に姉は渡さない。
テリーヌは不本意でも夫の犬になりたいという気持ちは理解できる。姉に飼われて一身に大事にされたい。でも夫と違いテリーヌは姉に妹として愛されているから犬になりたいとは思わない。夫がローブを着た怪しい少女を探していても気にしない。
スカイの夢は犬になること。
横暴な妻から解放されて、最愛の人に可愛がられるのを夢に見る。
犬になりたいというスカイの言葉を聞いたロアーナが怯えているのに気付かない。クリフは怯えるロアーナを慰め、テリーヌの命令通りスカイに近づけないように協力する。仕事は出来ても変わっているアナム伯爵夫妻は変化に弱いロアーナには刺激が強すぎた。クリフはロアーナと婚姻する上で体調管理をきちんとして幸せにしろと伯爵とテリーヌから脅されていた。クリフは嫁は大事にするつもりはあり、ロアーナの体調管理はいつものことなので頷いた。ロアーナが倒れないように無理はさせずに、テリーヌと同じくらい変わっている自分を敵視しているスカイとほどよいお付き合いを目指している。
テリーヌとスカイは顔を合わせれば喧嘩をしている。でも本音が言い合えるのはいいことである。テリーヌはスカイといる時は一番生き生きしていた。夫婦の形はそれぞれとロアーナは小さな命に語りかける。アナム伯爵家はスカイ・アナム伯爵を除けば幸せである。
スカイが犬になれるか、他の幸せを見つけられるかはわからない。
伯爵領を大事に想う美しい海の一族は領民にも愛されている。
熱い信頼関係で結ばれアナム伯爵領は繁栄の道を辿る。その中にスカイが入るかは本人の努力次第である。
最後まで読んでいただきありがとうございます。