16・天使と悪魔
「はい、お茶入ったよー、エリスちゃん」
「あんがと」
エリスの住むアパート――『一流荘』の六畳一間の部屋で、アテナの淹れてくれた紅茶を一口啜るエリス。
「しっかし、とんでもなくボロアパートだなー、ここ」
「梅こぶ茶はないのかえ?」
何故かクローズとカーミラもここに居る。
ついでに淹れてもらった紅茶のカップを手に、部屋を見渡していた。
「一流なのにお風呂もないのよね、トイレは共同だし」
「アンタそれ、何か間違ってる……」
「あ、また空が光ったよー」
学校の方角から時折破壊音が聞こえ、閃光が迸っている。
「まだ終わらないのかなー」
「いやいやエリスちゃん。あの数相手にしてたらすぐには終わらないでしょー」
「てか勝てるわけなくね? 地球も時間の問題じゃね?」
「梅こぶ茶はないのかえ?」
エリスの学校で戦端が開かれた対エイリアン戦争は、世界各国からのヒーロー達の集結によって激化の一途をたどっている。
鉄の子アントムをはじめ、九人のサイボーグ戦士やマント姿のアメリカ人、強化スーツを着込んだ鉄男、蝙蝠のコスプレ男、ロボットに変形するスーパーカー、セーラー服の美少女戦士等、戦場はいまや世界コスプレ会場と化していた。
エリスたちはそれらにすべてを任せ、さっさと自宅アパートへと帰宅したのだった。
「戦闘になってるのって、日本だけみたいですよー」
アテナは最近エリスの部屋に設置された、小型のブラウン管テレビのニュース画面を見ている。その下のテレビ台はダンボール箱だ。
「学校が跡形もなくなっちゃったねー」
「戦場のど真ん中だから真っ先に破壊されてるし」
「てかあそこ何かの特異点だったろ? 刺激与えて大丈夫なんかね」
「梅こぶ茶はないのかえ?」
クローズが指摘した通り、特異点であった学校跡は次第にその光景を変えてゆく。
最初は黒い小さな点だった。――それが少しずつ大きくなると、学校跡地はやがて暗黒空間に飲み込まれた。
その闇の中で蠢くものがある。暗黒の中から這い出してきたそれは、さらに漆黒の闇だった。
「なにあれ?」
「やばい感じがするね。敵か? 味方か?」
暗黒から生まれ出た闇は透明な闇という性質を持ち、龍の形を作った。
透き通るドラゴンの背後は、重力レンズ効果で歪んで見える。
テレビカメラが移動すると、ひとりの少年を捉えた。――亀頭大だ。
「あ、あいつテレビに映ってるじゃん。てか生きてたんだ?」
テレビカメラの前でキトーは呟く。
「暗黒物質龍だ」
その途端カメラがブレて映像が途切れる。テレビの画面には、ザアーと砂嵐が流されていた。
「ああっ、続き見せろよー! めっちゃ気になるじゃん!」
「気になるなら学校戻ったら? クローズ」
「それもちょっと面倒くさいな」
「エリスちゃん、外が……」
「梅こぶ茶がほしいのじゃ」
アテナが窓の外を指さす。釣られて三人が見たそれは――暗黒だった。
空を埋め尽くしていた円盤は、今や暗黒の闇に塗りつぶされていた。
その闇は円盤を侵食し、取り込んでしまう。
ぶぶぶとエリスのラブコンが震えた。
「なあに? ママ」
「緊急事態なのですわエリス。とってもとっても大変なのですわ」
コンパクトの鏡部分に映る女神アフロディーテの表情は、いつもと変わらず柔らかだ。
「現在地球に現れたダークマタードラゴンは円盤を飲み込んだ後、地球を取り込み始めます。そうなると、あら大変。地球上の『愛』が消滅してしまうのですわ」
「アテナのゼウスがあれば何とかなるんじゃないの? ママ」
アフロディーテは横から突き出された手が持つ、A四サイズ程の用紙を受け取った所だ。
「たった今入った情報によりますと……ダークマタードラゴンは時間の干渉を受けない事が判明いたしました。つまり、逆行によるやり直しは出来ませんわ。そして全世界に散らばった円盤、およそ十億を飲み込むまで約一時間。――エリス、タイムリミットは一時間です。それまでにダークマタードラゴンをなんとかしてくださいね」
アフロディーテの無茶ぶりに、困った顔のエリス。
「なんとかしろって言われても……どうすればいいの? ママ」
「『金の矢』ですわ。エリス、『金の矢』を使うのです。『鉛の矢』は強制的に奪う矢ですが、『金の矢』は差し出させる矢なのです。では頑張ってねエリス」
そこで通信を切られてしまった。
「え? あたし今の説明で理解できなかったんだけど、結局どうすればいいのよ」
「『金の矢』を使うだけだよー、エリスちゃん。もう一時間切ってるし、現場行こうかー」
「いや、その『金の矢』じたい分からないんだけど……」
「『金の矢』は『金の矢』だよ。なんとかなるだろ? とにかく行ってみようじゃないか。面白いものが見れそうだ」
「梅こぶ……」
エリスたちは再び学校へと戻る――いや、学校跡だ。高校だった建物は既に跡形もない。
あれだけ居た各国のヒーローたちも、どこに行ったのか誰も居なかった。
「みんなやられちゃったかな?」
ダークマタードラゴンは、上空で暗黒のブレスを吐き続けていた。
ブレスはどこまでも続き、空はどこまでも漆黒の闇だ。
「チェンジ! モード・エロス!」
掛け声とともにエリスの体に光が収束し、その衣装を剥ぎ取る。
全裸の背中には申し訳程度の小さな白い羽が生え、女神エロスの化身となったエリスはキューピッドの能力を授かった。
「『金の矢』ってどうやって出すのよ~」
弓の弦を引くも、現れる矢の先端は鉛色に輝いていた。
「修行が足りないとかー? エリスちゃん」
「アンタのママは何て言ってた?」
「えっと、『鉛の矢』は奪うもので、『金の矢』は差し出させる……だっけ」
「じゃあ、こういう事じゃね?」
クローズはおもむろに右手の中指と人差し指でエリスの顎を上向かせ、その唇に自らのそれをあてた。
「んん!?」
舌は柔らかくゆっくりと、時に激しく蛇のように絡み付き、蛭のように吸い付く。
エリスの頭は一瞬、霞がかかったが、クローズの左手が裸のヒップに伸びた時、我に返った。
「ちょっとまった! 何してんのよ!」
「ちっ、やっぱりアンタには効かないのね」
サキュバスの魅了はエリスには効かないようだ。
「だけど分かったかしら? アンタが魅了されていればアンタはアタシにすべてを差し出していたはずよ。アタシは奪う事なく、アンタが差し出す。こういう事じゃなくて?」
「唇奪っておいて何言ってんのよ!……あ、でもそうね、何となくわかったかも」
何かを閃いたエリスは、弓の弦をゆっくりと引き絞る。
目を閉じ、小声でぶつぶつと何かを呟いた。
(あたしはキューピッド……奪うのではなく……惚れさせて全てを……虜に……)
目を開け天を睨むエリス。
「あたしは奪わずに、奪う。――あたしからは盗らない、だから――差し出せ!」
光が収束し矢を形成してゆく、その先端は『金色』に輝いていた。
これこそがキューピッドの真骨頂『恋する矢』だ。
この矢に射られた者は恋に焦がれ、苦しみ抜く運命を背負う。そして恋した者に己のすべてを差し出すのだ。
エリスは弓を、空のダークマタードラゴンに向けた。
「あたしに恋せよ! ダークマタードラゴン!」
矢が天に放たれ、暗黒ブレスを止めたダークマタードラゴンがエリスを向く。
その胸部を、――『金の矢』は貫いた。
◇ ◇ ◇
「で、こいつどうすんのさ? エリス」
「さあ……どうしよ」
「エリスちゃんのペットでいいんじゃないかなー」
「妾の同胞が……まあよい。どうせ帰れなんだ」
地球の空すべてを覆っていた十億の円盤は、暗黒物質龍によって一掃された。
そしてそのドラゴンは今、小型化してエリスの足元にすり寄っていた。
透き通る闇の体は朧に揺れ、表情さえ窺えないが、頭を擦り付けるようなその動作で、エリスにご執心なのがよく分かる。
「まあ、クローズのおかげで『金の矢』も作れたし、いっか」
「ゼウスも出さなくて済んだしねー、エリスちゃん」
奇しくもサキュバスのその能力と似通った『金の矢』は、クローズの機転で生まれたようなものだ。
「ひよっこのキューピッドがやっと、一人前になったって所かしらね」
クローズの皮肉にも、エリスは言い返す事をしなかった。
闇から解放された地球の空は、夕日の赤に染まり、穏やかな風をそよがせている。
まるで何事もなかったかのような風景に、その二人の姿は溶け込む。
その二人は……悪魔と――
――天使だ。




