③
「橘 颯太さん! 橘 颯太さぁん! 欠席ですか!?」
――しかし現実には、そうも言っていられない。隣に座る住谷さんにも促され、慌ててレポートを掴んで教壇に向かう。
途中何度も振り向いたけど、彼女は不機嫌そうにうつむいて目も合わせてくれなかった。
その後、田中、仲山、浜田、と次々と学生の名前が呼ばれていく。
「宝生 まゆらさん」
「――はい」
透き通るような凛とした声に、何人もの男が振り返る。
そのぶしつけな視線をものともせず、彼女は真っ直ぐに前だけを見て教壇に向かう。
宝生 まゆら。
俺は、ようやく彼女の名前を知った。
事務の女性にレポートを渡す彼女の後姿を見ながら、住谷さんが驚いたように呟いた。
「宝生さん、この講義取ってたんだ。知らなかった」
「知り合いなの?」
「うん、同じ小学校だったもん。クラスは違うけど」
彼女はレポートを手渡した後、元の場所には戻らずに、一番前の空いている席に座った。俺達の場所からは、艶やかな黒髪と白いうなじしか見えない。
「同じ大学だって知らなかったなぁ。うん、でも、あんまり変わってないかも。『マヤ子』ちゃん」
怪訝な顔をする俺に、住谷さんはいたずらっぽく笑った。
「橘君、小学校のときはやってた、テレビの『オカルト7』って知らない?」
インチキ心霊写真や嘘くさい霊能者、信憑性の低いUMA関連の目撃情報なんかを、コントを交えて面白おかしく紹介する番組だ。
毎週月曜の放送で、翌日学校はその話題で持ち切りだったことを覚えている。
「あの番組で『マヤ文明の終末論』を知ったの。2012年の12月に人類が滅亡する、っていう予言。あれを観たときは、興奮して眠れなかったなぁ。結局外れたけどね!」
その予言は俺も聞いたことがある。でも、それが彼女と何の関係が?
怪訝な顔をする俺に、住谷さんは屈託のなく話し続ける。
「小学校の頃は有名人だったんだよ。宝生さんには超能力があって、予言ができるって。だからみんな、『マヤ文明のマヤ子』って呼んでたの」
「……ちょっと意味がわからないな」
住谷さんは嬉々として語り出した。
いつもは生返事の俺が、ちゃんと興味を持って耳を傾けていることで、いつもの倍は早口になっていた。
住谷さんの話をまとめると、一番最初は給食のプリンだったらしい。
給食にフルーツ以外のデザートがつく日は、みんな密かにテンションが上がる。
俺も経験があるからわかる。そんな空気に水を差したのが彼女だった。
普段はおとなしい彼女が、『食べちゃだめ!!』と怒鳴ったらしい。
もちろん、彼女の意見を聞き入れる生徒は少数だった。
結果、担任を含め、クラスの半数が食中毒で病院に運ばれる羽目になった。
それ以外にも、運動会のリレーの練習に参加せず、『本番は中止になるから無駄よ』と言って雨天中止を予言したり、密かに付き合っている教師同士の結婚や、産休に入る時期までもを、的確に言い当てたらしい。
「そんなことが重なったからかな。なんとなくみんな、マヤ子ちゃんのことを怖がるようになったみたい。特に先生とか、大人が一番怯えてたよね。何か弱味でも握られてるみたいに、あからさまに贔屓したりして」
……だから、マヤ子? なんだそれ。ふざけてる。
「でもね、原因は予言だじゃないと思う。女子って、集団行動が基本でしょ? でも宝生さんは、一匹狼っていうのかな。誰かと仲良くしたり、笑ったりしてるところ、見たことないもん。人に合わせて自分を曲げるのが嫌なのかもね。
いつもそんな感じだから、女子の間ではあんまり評判良くなかったみたい。『うちらのこと、見下してる気がする』って。
まぁ、あたしも昔は、女子の中では浮いてたけどね」
気持ちはわかる。俺も同じ側の人間だ。彼女や住谷さん側ではなく、むしろその逆。
『和を以て貴しとなす』。それが俺のモットーだ。
彼女のように『人に合わせるくらいなら独りがいい』という顔で和を乱す人間は、苦手だ。
正直に言えば、何でそんなに尖がってるの? と小馬鹿にするような気持ちさえある。
誰も本音の付き合いなんか望んでいない。お互い不快にならないように、その場だけ空気を読んで適当に合わせればいい。
親睦会のカラオケだって、歌いたくないなら適当にタンバリンでも叩いていればいいし、体育祭の悪趣味なクラスTシャツだって、一日だけ我慢して着ればいい。
意固地に自分のポリシーを曲げない人間に出会うと、適当に調子を合わせて笑いながら、『そのこだわり、そんなに重要?』と心の中で小馬鹿にしていた。
でもなぜだろう。どうやら俺は腹を立てているらしい。
彼女を『マヤ子』と呼んで異端者扱いをしたクラスメイトと、彼女を助けなかった教師達に。
一番前の席で、真っ直ぐに背筋を伸ばして座る彼女の後姿は、とても綺麗だった。
ラズベリー色のニットと、艶のある黒いボブヘアーの間の白いうなじが、この世界で一番清潔で無垢なものに見えた。