②
「やばっ、遅刻ぎりぎり! 何の話!?」
息を切らして割り込んできたのは、同じ学部の住谷宏美さん。
秋が深まるこの季節にお似合いの、真っ赤なベリーショート。
潔く刈り上げられたもみ上げも、ゴーグルみたいにごつい黒縁眼鏡も、いわゆる『愛され女子』とは対極にある。
「いや別に」という俺の呟きに被せるように、「教授まだ来てない? 課題やって来た? あれ、なんか橘君顔色悪くない? 風邪? 花粉症?」と一方的な会話が始まる。まるで壊れたラジオだ。基本的に住谷さんは人の話を聞いていない。
加えて、中身だけではなく外見までもが騒々しい。
これでもか、と言わんばかりの多色使いのコーディネート。
今日は全面にアメコミがプリントされたカラフルなパーカーとデニムのショートパンツ、紫と黄色のボーダーの二―ハイソックス。
俺は住谷さんに会うたびに、十二色入りのクレパスの蓋を開けたような気分になる。
正直、得意なタイプではない。
でも前期の社会学の講義で同じディスカッション・グループに割り当てられて以来、顔を合わせると必ず話しかけられるようになってしまった。
サブローはあからさまに溜息をつくと、いつも鞄がわりに使っている百均の書類ケースを持って立ち上がった。
「眠いから一番後ろに行くわ」
立ち去り際、机の下で脛を蹴られた。……俺のせいかよ。
当の住谷さんは気を悪くした様子もなく、「行ってらっしゃーい」と笑いながら元気に手を振る。
気のせいかもしれないが、住谷さんは、他の女子とは違う目線でサブローを見ている気がする。
少なくとも、肉食獣が獲物を狙うようなギラつきは感じない。
「相変わらず佐々木君は眩しいね! 目の保養だねっ。ところで橘君、早苗に振られたってほんと?」
「……情報早いね」
「当たり前だよ。橘君と付き合った瞬間から、早苗は女子の間で要注意人物だもん。別れると同時に佐々木君を狙いに行くって、みんな気付いてたよ。橘君の歴代彼女って、基本みんな佐々木君狙いだもんね?」
満面の笑顔で傷に岩塩を擦り込まないでくれ。
「……女子の間で、俺ってどんな位置づけなのかな?」
「はっきり言えば、世界遺産級のイケメン『じゃない方』で、女子から告白されたら断れない優柔不断で、利用されてることにも気付いていない扱いやすいお人好し、かな」
そこまではっきり言えとは頼んでいない。
お喋りな住谷さんの口を、オブラートどころかサランラップでぐるぐる巻きにしたい衝動に駆られながら、それでもやはり、そんなふうに見られるのは自業自得なのだと思い直す。
確かに、今までの彼女達で本気で俺を好きになってくれた女の子なんていなかったかもしれない。その事実に傷つきながらも、ほっとしている自分もいる。
本気じゃなかったのはお互い様だ、と思うことで、自分の中の罪悪感を宥めているふしがある。
いや、むしろ今まではそれを言い訳にして、いい加減な自分を肯定してきた。
だから罰が当たったのだろうか。
十九年間待ち続けた《彼女》が……俺の『運命の恋人』が、よりにもよってあんな子だったなんて――
彼女の鋭いまなざしと、冷ややかな『さよなら』の言葉を思い出すたびに、胸が疼く。
痛みだけではなく、彼女の唇に良く似た木苺に歯を立てた時のように、頬の内側じゃなく体全体が、甘酸っぱく縮んだ。
情報通の住谷さんに、彼女のことを聞いてみようか――
真っ直ぐな黒髪をボブにした、小柄で色白で木苺みたいな唇の、信じられないほど綺麗な女の子。
……いや、やめておこう。こんなに主観的な手がかりだけじゃ特定できそうにない。
有益な情報を手に入れるよりも、住谷さんに十倍の規模で拡散されるリスクの方が高い。
そんなことを考えながら住谷さんのお喋りを聞き流している間に、四限目のチャイムが鳴った。
五分前行動が基本の岩下教授が、この時間に教壇に立っていないのは珍しい。
教授は時間に正確で、講義の時間から一分でも遅刻したら出席と認めないことで有名なのだ。
一年の頃から教授の講義はいくつか受けているが、今まで一度たりも遅れて来たことはない。
「橘君、掲示板見た? 休講通知は出てたっけ?」
「見てないけど、これだけみんなが集まってて、それはないんじゃない?」
八割方席が埋まった教室が、ざわめきに包まれる。
みんな考えていることは同じだ。スマホで友人に尋ねたり、大学のHPの休講連絡をチェックしたりしているようだ。
俺もみんなに習ってスマホに手を伸ばした瞬間、教室の前のドアが慌ただしく開いた。
教室内に、あからさまな落胆の色が広がる。
だが入って来たのは教授ではなく、学務係の女性事務員だった。
黒板に大きく『岩下教授、急病により本日休講』とチョークで書かれた瞬間、「やった!」という歓声がまばらにあがる。
研究室を出た瞬間のぎっくり腰らしい。
不謹慎かもしれないが、気の毒な教授のことよりも、降って湧いた九十分の自由時間をどう過ごすかで、誰もが気もそぞろになっている。
「レポートの回収と出欠確認を行いますので、呼ばれた方から前に出てきてください」
女性事務員が履修者名簿を読み上げていく。
俺の番が来るまでは、まだ時間がかかりそうだった。
ざわめきのなか、頬杖をついて、性懲りもなく彼女に思いを馳せる。
面影を探るだけで、胸の鼓動が敏感に反応する。でも頭では、彼女に惹かれる自分に腑に落ちなさを感じている。
確かに美人だった。怖いくらいに。
でもあんなふうにお高く止まったタイプは好みじゃない。
上から目線の高慢な態度、不可解な言動。
あんなおかしな子――いや、あんな変な女、全然好きじゃない。
二度と会えなくたって全然ショックじゃない。
「――橘 颯太さん」
名前を呼ばれ、返事をして立ち上がる。
その瞬間、教室の後ろのドアが開いた。
いつもより騒がしい教室の中で、普段は聞き逃すようなかすかな音が、なぜか耳についた。
振り向く前から予感はしていた。
体ごと引っ張られそうな吸引力。こんなおかしな現象を起こすのは、《彼女》しかいない。
だからこそ、自分を奮い立たせるように、さっきと同じセリフを心の中で呟いた。
全然タイプじゃないし、全然好きじゃない。だから俺は、失恋なんかしていない。
覚悟を決めて肩越しに振り返る。
予想通り、彼女はそこにいた。
全然好きじゃない。全然……
――いや、嘘だ。
好きだ。俺は、もうどうしようもないくらい君が好き。
教室の一番後ろで、赤い唇を一文字にして俺を睨んでいる彼女に、プライドなんて簡単に崩れ去る。
彼女の瞳を見ているだけで、時間も場所も人目も、何もかもがどうでもよくなる。
全部忘れる。
こんな狭い教室の、何人もの学生がひしめき合う騒がしい空間のなかでも、目と目が合うだけで、俺は彼女と二人っきりになれる。
それくらい、彼女以外何も見えない。見たくない。彼女の声以外、聞きたくない。