③
「橘 颯太君」
驚いたことに、彼女は俺の名前を知っていた。
透き通るようなソプラノボイス。
今まで飽きるほど呼ばれてきた自分の名前が、彼女の声を介することで、瑞々しく真新しい響きに変わる。
できることならそのまま、耳に残る余韻を味わいたかった。
でも彼女は、そんなささやかな願いすら叶えてくれるつもりはないらしい。
白い肌とは対照的な、木苺みたいに赤い唇。
そこからあふれ出す早口の独白は、俺をさらなる混乱の渦に叩き落とす。
「橘 颯太君。あなたは今日、教育学部の森本早苗さんと鹿爪町のカフェで待ち合わせをして別れ話を切り出されたあと、傷心の気持ちを引きずりながら図書館に移動して、四限目までの空き時間を窓際の席でレポートをしながら過ごす予定じゃなかったの?」
彼女は白い瞼を閉じたまま、詩の暗唱でもするように淀みなく語った。
そのとき俺は、相当間抜けな顔をしていたと思う。
どうして彼女が早苗のことを?
しかも、なぜ別れたことまで知っている?
今日の待ち合わせのことは、幼馴染みのサブローにも、家族にも話していない。
あのとき彼女もカフェにいたのか?
……いや、そんなはずはない。
二十メートル先にいる彼女を見つけただけで、息もできないほど胸を締め付けられたのに。
あの狭いカフェの中で同じ空気を吸っている彼女に、俺が気付かないはずがない。
彼女が瞼を上げて、長い睫毛の先を俺に向けた。黒い瞳には、みっともなくうろたえた俺の顔が映っている。
聞きたいことがたくさんあり過ぎて、逆に言葉が出てこない。
彼女は膝の上に文庫本を広げたまま、面接官のように冷たい表情を貼り付けて、俺に尋ねた。
「図書館にいるはずのあなたが、どうしてこんなところにいるの?」
「カードが反応しなくて──中に入れなかった」
「見せて」
凛とした声と瞳に、言われるがままに学生証を差し出す。
彼女は、興味深いものを見つけた猫のような目で、警戒心を最大限にまとながら、俺の手に触れるのを恐れるように、指先だけでカードをつまんだ。……傷ついた。
「おかしなところはないみたいね」
……おかしいのは君だ。いや、俺か。
こんな不可思議な、感じの悪い、得体の知れない女の子の一挙一動に、心が揺さぶられて仕方がない。
彼女は俺にカードを返すと、わずかに表情を和らげて溜息をついた。
「ごめんなさい、取り乱したわ。まさかあなたが、ここまで追いかけて来るとは思わなかったから」
心外だ。まるで俺が、日常的に彼女を尾けまわしているような言い草だ。
「俺はストーカーじゃないよ。君に会うのは今日が初めてだ」
「知ってるわ」
……彼女の口からこぼれる言葉は、どれもへんてこで、筋が通らないものばかりだ。
得体の知れないおかしな子。
頭ではわかっているのに、その声を、一秒でも長く聞いていたくなる。
不機嫌そうに眉をひそめる顔だけじゃなく、もっといろんな顔を知りたくなる。
そんな俺の思いを知る由もなく、彼女は何気ない顔で、右手を肩の高さに掲げた。
──その瞬間、不思議なことが起こった。
柔らかそうな手のひらに、枝から落ちた銀杏の葉が、吸い寄せられるように舞い降りた。
彼女は顔色一つ変えず、手の中の黄金の栞を、文庫本の間に挟んだ。
まるで、あらかじめ、《その時間にその場所に、銀杏の葉が落ちてくること知っていた。》みたいに。
茫然とする俺の前で、彼女は優雅に立ち上がる。眉の上で一直線に切られた黒髪が揺れた。
トートバッグを肩にかけて、俺から興味を失ったように目を逸らす。このまま立ち去るつもりらしい。
慌ててポケットを探った。
電話番号かLINEのID、それがだめなら名前だけでも聞いておきたかった。
「もう行かなきゃ」
「どうして? やっと会えたのに」
このときの俺は、あまりにも無防備だった。
予想外の彼女の態度に動揺してはいたものの、心のどこかで楽観していた。
だって彼女は俺の『運命の恋人』。
どう足掻いたって、結局は結ばれる宿命なんだ。
でもそんな余裕は、彼女の次の言葉で、焼き過ぎたクッキーみたいに粉々になった。
俺は、このとき彼女の唇からこぼれた言葉を、一生忘れない。
「これ以上一緒にいたら──
あなたのことを、好きになりそうだから」
やっと引っ張り出したスマホが、力の抜けた指先から滑り落ちる。
「さよなら。もう二度と会わないことを願うわ。
……無駄でしょうけど」
抑揚のない声で呟くと、彼女は俺に背を向けた。
艶やかなボブヘアーを揺らして去って行く姿を、立ち尽くしたまま見送る。
十九年間、ずっと『運命の恋人』を待ち続けていた。
《彼女》が現れさえすれば、全てがうまくいくと信じていた。
でもまさか、こんな仕打ちを受けるとは。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
膝小僧に頭を預けて、しばらくその体勢でいた。
澄み切った秋の空を羽ばたくのは、無邪気に微笑む恋のキューピッド。
でもその手に構えているのは、金色の弓矢なんかじゃない。戦車もぶち抜く威力の肩撃ち式ロケットランチャー・AT4。
時速九百キロ超えの砲弾に、体ごとふっ飛ばされて木端微塵。再起不能だ。
あの子はおかしい。完全におかしい。
でもおかしいのは俺も同じ。……いや、もっと重症だ。
あのおかしな『運命の恋人』に、完全に恋に落ちてしまったのだから。