⑦
「…………それについては、
今後、ゆっくり、様子を見ながら、ということで……」
弱々しく呻きながら、俺は開きかけていた背中のチャックを全力で閉めた。
羊の皮の下の狼が、ふさふさの尻尾を金具に巻き込まれて悶絶している。
今日は初デート今日は初デート今日は初デート――
その言葉を心の中で呪文のように繰り返し、必死に平静を取り戻そうとする。
そんな俺とは裏腹に、まゆらはいつもと同じクールな表情で呟いた。
「冗談よ。本気にしないで」
「するよ! めちゃくちゃするよ!
……てゆうか、どこからどこまでが冗談?」
「ところどころ?」
どことどこですか!?
いっそのこと全部文章に起こして、下線付きで解説してほしい。
「……でも、サブローの《運命の恋人》が俺達の子供っていうのは、冗談じゃないんだよね」
「そうね。颯太にとっては残念かもしれないけど」
「……頼むから、嘘だって言って」
「言うのは構わないけど、何も変わらないと思うわ。
《運命の恋》は、逃げようとしてもどこまでも追いかけて来るものだから。私達の実験で実証済みでしょう?」
照れ隠しに目をそらす仕草が可愛すぎて、余計に俺を落ち着かない気持ちにさせる。
「少し散歩しない?」
首を傾げて甘えるようにねだられると、他のことは何も考えられなくなってしまう。
とりあえず、俺達の娘と義息子の問題については、ひとまず置いておこう。
風船を手にしたまま、踊るような足取りでチャペルの方に歩いて行くまゆらのあとを追いかける。
真っ白な大階段には、フラワーシャワーのときの薔薇の花びらが残っていた。
「素敵な教会ね」
「親子三代でここで式を挙げてるんだよね」
まゆらはじっとチャペルを見つめている。
「もしかして、《声》が聞こえた?」
笑いながらきくと、まゆらは恥ずかしそうに目を逸らした。
まゆらの予知によると、数年後、俺達もここで式を挙げることになっている。
「私ね、ずっと自分の力が忌々しかった。こんな才能、いらないって思ってた。どうして私は、ママの才能を受け継がなかったのかしらって――運命を呪ったわ。でも今は、前より嫌いじゃないの」
「まゆらのおかげで、会場の外で裸で震えずに済んだしね」
風邪をひくところだったわね、と言って、まゆらは笑う。
木苺の唇から白い歯がのぞくだけで、変わり映えのない風景が、妖精の粉でもふりかけたみたいにキラキラ輝きだす。
クリスマスの魔法? いや、そうじゃない。
これはきっとサンタクロースじゃなくて、俺だけの《運命の恋人》のしわざ。
こんなに普通で平凡な俺が、まゆらの目を通して見る世界では、最高のヒーローに変わるみたいに。
「未来が視えたって意味なんかない。
颯太に出会って、初めてそう思ったの。
あなたが私を連れて行く未来は、私の予知通りでも、そうじゃなくても、いつも私の想像を越えるから」
「『つかもと』のメンチカツサンドみたいにね。
味わうまで、本物の美味しさはわからない」
「味わうまで?」
そう呟いて、まゆらは急に顔に皺を寄せた。
もしかしたら、あらぬ誤解を与えてしまったかもしれない。
「いや違うよ、変な意味じゃない! 味わうって言うのはいかがわいい意味じゃなくて……そもそもまゆらに対して、いかがわしい気持ちなんてない! 断じてないから!」
焦って早口になる俺の前で、まゆらは小さくくしゃみをした。
……くしゃみが出たかっただけか。まぎらわしいにも程がある。
まゆらは小さく鼻をすすって、不満げに唇を尖らせた。
「颯太は、いかがわしい気持ちも無しに私と付き合ってるのね。そこまで言い切られると、逆に複雑な気持ちになるわ」
「いや、ないわけじゃないよ! むしろある! 凄くある!
でもいかがわしいっていっても不純なものじゃなくて、真剣に思っていればこその、愛があるいかがわしさっていうか……」
まゆらはじっと俺を見つめていたが、やがて、こらえきれないというように噴き出した。
どうやら、からかわれてしまったようだ。
まゆらは弾むような足取りで俺に近づく。
ヒールの音がするたびに、俺たちの距離が近づく。
一メートル、五十センチ、二十五センチ……十センチ。
「いかがわしい気持ちになってる?」
「なってる……かも」
至近距離で試すように囁くまゆらに、声が上ずる。
「愛は?」
「めちゃくちゃある」
それだけは断言する。
手を伸ばしてまゆらの髪に触れると、華奢な体全体がかすかに震えた。
「……今日はまだ、《初めてのキス》の日じゃない」
そう来るか。俺の恋人は、俺には見えない未来の予定がお見通しだ。
「ちなみに《声》の予定では、いつだって?」
「初詣の帰りに、『末吉』のおみくじをひいた後で」
ごめん、そんなに待てない。
「わかった、じゃあここからはアドリブで」
思い切って顔を近付ける。
まゆらの高い鼻に俺の低めの鼻が触れそうになった瞬間、まゆらがはっとしたようにまばたきをした。
何か言いたそうに俺を見つめて――でもすぐに、長い睫毛を伏せて目を閉じた。
唇に触れる柔らかい感触。
ただ息を詰めて、無器用に触れ合うだけのキス。
中学生の時、初めての彼女と学校の理科室でしたキスよりも、ずっとぎごちなくて……でも最高に刺激的で、全身が甘い毒にやられたみたいに痺れていく。
今日もいつものように、瞼の裏に白い光がちらつく。
キスに集中したいのに――そう思って目を開きかけた瞬間だった。
足許で、サイダーの栓を抜いたような小さな音が聞こえた。その瞬間、噴き上がる水しぶき。
俺のスーツも、まゆらのコートもずぶ濡れになった。
そうだ、この式場は、ガーデンウエディング用に、水が噴き出す広場を作ったばかりだった。
夜はライトアップもされて、なかなか人気の演出らしい。
まゆらの綺麗な髪は濡れて、雫をしたたらせている。
「まゆら、ほんとはわかってたんじゃない? ここにいたらこうなるって」
キスの一瞬前、まゆらは何かを察知したようにまばたきをした。
あのとき本当は、俺達の初めてのキスが台無しになる未来を予知していたんじゃないだろうか。
まゆらはハンカチで水を拭いながら、拗ねたように呟いた。
「わかってたけど私も、颯太と同じで待ち切れなかったから」
顎の先にパンチを食らうと脳震盪を起こすって知ってた? 破壊力が半端じゃない 。
ノックダウン寸前で何とか意識を立て直し、まゆらの頬にはりついた髪の毛を耳にかけた。
「まゆら、実験してみない?」
その台詞をまゆらの口から聞いたのは、まだ三か月前のことなのに、ひどく懐かしい気がした。
怪訝そうに俺を見つめるまゆらの肩を引き寄せて、睫毛が触れてしまいそうな距離で囁いた。
「運命の恋人と恋に落ちた後、その恋が永遠に続くかの検証実験」
「……いつまで?」
「死ぬまで」
二回目のキスは誓いのキス。
閉じた瞼の裏側に、今度は鮮明に、色とりどりの映像がメリーゴーランドのように巡る。
無数の目まぐるしいイメージの中、俺が捕まえたワンカットは──
真っ白なウエディングドレスを着た、満面の笑顔のまゆらだった。
「──颯太……?」
唇を離して茫然とする俺を見て、まゆらがいぶかしげに眉を寄せる。
「俺、今……一瞬だけ未来が見えたかも」
まゆらは、わけがわからない、というように首をかしげる。
どうやら、映像が見えるのは俺だけらしい。
あの最高の笑顔がもう一度見たくて、まゆらの小さな肩を引き寄せる
でも唇が触れる寸前で、不機嫌そうに鼻をつままれた。
「キスがしたいの? 未来が見たいの?」
「……キスです」
ほんとに? と拗ねる顔に、ますます骨抜きにされる。
実験は失敗した。俺は運命の恋人と恋に落ちた。
そして今日から、俺達の新しい実験が始まる。
「早く帰って着替えないと、風邪をひいちゃうね」
「そんな未来は見えていないから大丈夫」
照れたように呟くまゆらを抱き上げ、もう一度キスをする。
そのあと、式場のスタッフが忘れ物のを届けに来て咳払いで教えてくれるまで、俺達は今までのぶんを取り戻すように、何度もキスを繰り返した。
結論から言うと、俺達の実験は成功する。
勿論、『そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました。』なんて言葉では片付けられないくらい、これからもいろいろなことが起こるわけだけど──
とりあえずあのチャペルで式を挙げた数年後、俺達のあいだには愛の結晶が誕生し、その双子は両親以上に驚異的な超能力を発揮して小手毬商店街に愛をふりまいたり、絶体絶命の危機を救ったりするんだけど、そんな冗談のような本当の話は、もし今度また、機会があれば。
FIN