③
若干惨めな気持ちになりながら、紙袋の中のスーツに着替える。持つべきものは予知能力がある運命の恋人だ。
これで二人とも披露宴に出席できる。
……いや、でもちょっと待て。
「わざわざ俺を脱がさなくても、こっちのスーツをお前が着ればよかっただろ!」
ゆるいウエストをベルトで閉めながら吠える俺に、まゆらが言いにくそうに、
「パパのスラックスだと、佐々木君には短すぎると思うの……」と呟く。
確かに俺のスーツに着替えたサブローは、手足が長いせいか、ジャケットもスラックスも丈が短めだった。身長はさして変わらないのに、屈辱である。
俺がワイシャツのボタンを留めているあいだに、サブローはネクタイを締め、シャツの衿を整えている。
「颯太、スピーチの原稿は?」
「ジャケットの内ポケットだよ」
サブローはカンペを取り出すと、一読して苦笑いした。
「見事なコピペだな」
「いいんだよ! もともとお前の穴埋めだからな」
急遽サブローの代役を務めることになり、インターネットのスピーチ例文集を繋ぎ合わせたような月並みな言葉ばかりになってしまった。
サブローはカンペを俺のジャケットのポケットにねじ込むと、不敵に笑って披露宴会場に歩いて行く。
乱れた服装のまま後を追おうとする俺の首に、まゆらがシルバーのネクタイを巻きつける。
「落ち着いて。佐々木君なら大丈夫よ」
「随分信用してるんだね、あいつのこと」
つい不機嫌な声が出てしまった。
「……颯太は信用してないみたいね、私のこと」
まゆらは上目づかいに睨んでから、ネクタイをきつく締め上げた。
……本気で苦しくて、一瞬息が止まった。
手際よくタイを整えて、まゆらはかすかに頬を染めながら呟く。
「言ったでしょ、私にとっての危険人物は、地球上であなただけって」
本能のままに抱き寄せたくなる衝動に必死に抗って、後ろ髪を引かれながらサブローの後を追いかける。
一度だけ振り向いて、ガラスのドアの向こうにいるまゆらに、「電話する」とジェスチャーで伝える。
赤い唇の口角がかすかに上がって、ほほえんでいるように見えた。
両開きの重たいドアを押すと、お色直しを終えた姉と仁さんが、ちょうど着席したところだった。
招待客の拍手が落ち着いたのを見計らって、司会者の女性が俺の名前を呼ぶ。
テーブルに俺がいないことに気付いた両親が、焦った顔で周囲を見回している。
司会者もその様子に気付いたのか、上擦った声で再度俺の名前を呼んだ。
会場がざわめきに包まれるなか、テーブルの間を縫うように、サブローが壇上に近づいて行く。
次第にざわめきはおさまり、会場中の老若男女が、突然現れたこの世ならざる美形に目を奪われている。
棒立ちになって固まる司会者からマイクを受けとると、サブローは白い歯を見せて爽やかに笑った。
「ただいまご紹介に預かりました新婦の弟──の幼馴染で、新婦の弟分の佐々木 希嵯武郎と申します。
どうぞ皆様、ご着席ください」
言われるまでもなく、女性ゲストの七割が、魂を抜かれたかのように椅子に崩れ落ちた。
サブローは、振り袖姿の姉貴に目を向けることなく、淀みのない口調でアドリブのスピーチを始めた。
「突然現れて、一体何者だ? とお思いの方もおられるとは思いますが、どうしても新婦に伝えたいことがあり、弟の颯太君に無理にお願いしてこの場に立たせていただきました。
彼女に初めて会ったのは、俺がまだ保育園に入園したばかりの頃で、その瞬間から彼女は、俺にとって──」
声が止まった。
サブローの目が、思い出を探すように遠くを見つめる。
下瞼のふちが、痛みに耐えるようにわずかに引き攣っていた。
初めて会った瞬間に、姉はサブローの特別な女になった。
こいつの十七年の不毛な片思いを、俺は誰よりも一番近くで見ていた。
あの日からずっと、サブローの心は姉に捕らわれたままで──それはきっと、この先も当分変わらないんだろう。
動揺を微笑みで隠しながらスピーチを続ける様子を見て、そう確信した。
「初めて会ったときからずっと、彼女は、俺と颯太君にとって頼もしい姉貴でした。
ご覧の通り、見た目は薔薇のように美しく可憐な女性ですが、中身はなかなかの豪傑で、むしろ兄貴と呼びたいくらい雄々しい女性です。
そんな彼女が唯一、女性らしい柔らかい顔を見せるのが、今隣に座られている新郎の仁さんの話をするときでした。
新郎の仁さんにお会いするのは今日が初めてですが、新婦のそんな顔を目にするたびに、絶対に新郎には叶わないな、と思い知らされたものです」
サブローは言葉を切って、俯いた。
少しの沈黙のあと、顔を上げて、花嫁姿の姉貴を初めて見つめた。
「美咲。
──結婚おめでとう。幸せになれよ。
なかなか言えなくてごめんな」
そう言いながら微笑むサブローに、姉の目から涙があふれ出す。
生まれてこの彼方、俺は姉が泣くところを見たことがない。まさに鬼の目にも涙。
その貴重な光景を目に焼き付けたかったが、残念ながら無理そうだ。
なんでかって? 俺の方が、その十倍くらいの勢いで号泣していたからだ。
サブローが俺を見て手招きをする。こんなみっともない顔を人前に晒すのは気がひけるが、仕方がない。
とりあえずいったん鼻をかみ、サブローからマイクを受け取った。
「すみません、幼馴染に出番を取られましたが、新婦の弟の颯太です」
スーツの内ポケットからカンペを取り出そうとして、すぐにやめた。
急ごしらえの借り物の言葉は、この場にはふさわしくない。サブローが必死に絞り出した祝福の言葉を汚してしまう気がした。
「……仁さん。俺達の姉貴を、どうかよろしくお願いします」
涙で声を詰まらせながら、そう言うのが精一杯だった。
サブローと一緒に頭を下げた瞬間、あたたかい拍手に包まれて、また目頭が熱くなる。
その様子を笑って眺めているサブローの耳に、誰にも聞こえないように小声で囁いた。
「……呪いの言葉しか出てこないんじゃなかったのかよ」
「仕方ないだろ。俺があいつにやれるもので、あいつが欲しがるものっていったら、これしか思いつかなかったんだよ」
「……泣かすなよ、この糞イケメンが」
「褒めるかけなすか、どっちかにしとけ」
むせび泣く俺の肩を抱き、サブローが目尻に皺を寄せて笑う。
永遠のように長い初恋から卒業したサブローの笑顔は、ますます俺の涙腺を崩壊させた。
人生で初めての身内の結婚式は、切なくて、あたたかくて、涙と笑顔にあふれた最高の式だった。