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運命の恋人と恋に落ちないための俺と彼女の実証実験。  作者: 古矢永 塔子
朗報です。完全に断ち切れたかに見えた『運命の赤い糸』ですが、現在かろうじて繋がっていることが確認されました。今後の展開をお見逃しなく。
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∞ ∞ ∞ ∞


「オレンジを手で剥く方法、知ってる?」


公園のベンチに座りながら、静さんにもらったネーブルのへたの部分に親指の爪を立てる。

林檎を剥くときと同じように、手の中で回しながら渦巻き状に皮を剥いて行く。


静さんの腕から抜け出したときから、まゆらはずっと、黙ってブーツの爪先を見つめている。強引過ぎる俺に腹を立てているのかもしれない。


「すみれさんにご馳走になったローズティー、すごく美味かったよ。まゆらの小学校の時の写真も見せてもらったし」


なんとか機嫌を直して欲しくて話しかけると、まゆらが急に顔を上げた。

ボブの髪が揺れて、甘い香りが鼻をくすぐる。

眉間に皺を寄せて、険しい顔で俺を睨む。どうやら逆効果だったようだ。


「ごめん、嫌だった?」


「違うわ。颯太が急に『まゆら』って呼ぶから……。びっくりしただけ。最後に会ったときは、『宝生さん』て呼んだくせに」


上目遣いの瞳も、拗ねたように尖らせた唇も、久しぶりに間近で見るせいか、いつも以上に蠱惑こわく的だった。


「まゆら。……って、また前みたいに呼んでもいい?」


緊張で声が掠れた。

まゆらは、取り繕ったような素っ気ない顔で頷く。でも、髪の隙間から覗く小さな耳は真っ赤に染まっていた。

心臓の音が聞こえるんじゃないかって、ひやひやした。


「ギプス外れたのね。もう痛みはない?」


「平気。最近店が忙しくて、早速こき使われてる。

まゆらは、最近、住谷さんに『まゆ』って呼ばれてるんだね。いろいろ聞いた。講義のあとに二人でカフェ巡りをしていることとか、一緒にバイトしようって誘われてることとか」


「そうなの。来週、宏美ちゃんに、家に泊まりに来てもらうことになって……」


まゆらの近況を聞きながら、胸の奥がいやな感じにざらついた。


ひとりぼっちのまゆらを守りたいと思う反面、ひとり占めしたい気持ちが膨らんで、混ざり合いながらも溶け合うことなく渦巻いて、苦しい。



「この一カ月、充実してたみたいだね」


精一杯明るい声を出した。声に嫉妬や卑屈がにじまないように、細心の注意を払った。


まゆらの表情が曇らなかったから、多分成功したんだろう。


「颯太は? この一カ月、どうしてた?」


俺?

俺は、松葉杖の使い方に慣れて、高校時代からずっと変えていなかった髪型を久しぶりに短くして、スペイン語検定の三級に落ちて、姉の結婚式の準備の手伝いに駆り出されて、サブローの代わりにすることになったスピーチの原稿作りに四苦八苦して、なのにこんなときに限って店は忙しくて――


「……死にかけてた」


俺の物騒な言葉に、まゆらが息を呑むのがわかった。


「まゆらに会いたくて、顔が見たくて、声が聞きたくて……ずっと、死にかけてた」


あの日から、どんなに疲れていても夜はなかなか寝付けなくて、スマホでよく聞く曲がUKロックから女々しいバラードに変わって、いつものジーンズが緩くなって二キロ痩せた。


どんなに忙しくても、誰と話していても、何を見ていても、心は、あの夜タクシーで君を見送った瞬間で止まっていてずっと君のことだけを考えていた。


まゆらの瞳の中の俺がぼやけて揺れた。

大きな瞳に透明の膜が広がって、今にも零れ落ちそうだった。


「私だって――私だって、初めて女の子の友達ができたのに。

カフェでケーキを半分こしたり、お泊りしたり、雑貨屋さんめぐりをしたり、お互いの洋服を選びあったりして、ずっと憧れてたことをしてるはずなのに。

なのにいつも、颯太の顔が頭から消えなくて……」


まゆらは一度言葉を切って、唇を噛んだ。小動物みたいに小さいまゆらの歯に、俺の心臓まで甘噛みされたみたいな気分だった。


「今まで、変なあだ名で呼ばれたことはたくさんあるの。

マヤ文明の預言にちなんで『マヤ子』とか、『魔女』とか、『鉄仮面』とか……でもあの夜、颯太に『宝生さん』って呼ばれたのが――今までで一番、悲しかった」


瞳の上で膨らんだ涙が、白い頬の上を転がるように零れ落ちた。


「……ごめん」


「颯太のせいじゃない」


そう言いながら、まゆらはハンカチで泣き顔を隠す。


「ごめん、まゆら。もう二度と呼ばない」


もう二度と《宝生さん》なんて呼ばない。

自分からまゆらに背を向けたりしない。まゆらが俺に背を向けたときは、絶対に追いかけて振り向かせる。


「すみれさんに聞いたんだ。まゆらが、どんな気持ちであの学校を受験したのか。

俺にはまゆらの気持ちはわからない。想像することしかできない。だけどきっと、俺の想像の何十倍も、まゆらは頑張って来たんだと思う」


まゆらは目を伏せて、黙って俺の話に耳を傾けていた。


「あの夜病院で、俺といると頑張れなくなる、って言ったよね。でも、ほんとにそう?

俺なんかの力で、強情なまゆらを変えられるのかな。

君はきっと、俺が『頑張らなくていい』って言ったとしても、俺の言うことなんか聞かない。

力ずくで止めようとしたって、きっと俺の思い通りになんてならない」


そんなことない、と言いた気に、まゆらは不服そうな顔をする。

でも俺は知ってる。おとなしそうに見える君が、ほんとは無鉄砲で何をしでかすかわからない子だってことを。


「考えたんだ。どうして、君の運命の恋人が『頑張らない俺』だったのか。

もしかしたら──もしかしたら《運命》は、頑張り過ぎる君のストッパーとして、俺を選んだんじゃないかって」


すみれさんの前でみっともなく涙を流した瞬間、俺は《いたずらっ子の運命》が出した謎なぞを、やっと解けた気がした。


まゆらが顔を上げて、俺を見つめた。


赤い唇がかすかに開く。でも言葉が洩れることはなく、ただ苦しそうな吐息だけがこぼれた。




「まゆら。頑張らなくていいよ。

もう、頑張らなくていい」



大きな瞳から涙が次々に溢れ出して、まゆらの顔を濡らす。


剥きかけのオレンジを持っていない方の手で、赤いダッフルコートの背中を抱き寄せた。


吐息はすぐに嗚咽に変わって、まゆらは声をこらえることなく、子供みたいに泣いた。


いつもは鋼鉄の芯が一本通ったように真っ直ぐな体が、俺の腕のなかで、生まれたての子猫みたいに柔らかく変わった。



「まゆらは、俺があげる平凡な幸せじゃ満足できない、って言ったけど……

それはつまり、不満はあるけど不幸ってほどじゃない、ってことだよね。でも俺は、まゆらがいないと確実に不幸になる。

もし君をあきらめたご褒美に、運命が信じられないような幸運を山ほどプレゼントしてくれたとしても、俺は幸せになれない。

だからまゆら、あきらめて。俺を可哀想だと思うなら、平凡で退屈な人生に甘んじて。

町のお花屋さんにならなくていい。芸能界を目指したっていいし、海外に飛び出したっていい。なんでも好きな仕事をしたらいい。

でも、まゆらの人生から俺を閉め出さないで」


まゆらの涙が、俺のセーターを濡らした。

しばらくそのまま、まゆらを抱き締めていた。


ジャングルジムの向こうに、茜色に染まった月がかすかに見え始めた頃、まゆらは俺の胸から顔を上げて、恥ずかしそうに涙を拭いた。


「平凡なんて思ったことないわ。

颯太はいつも、私が予知した未来とは違う行動ばかりするし、予測不可能だから。

それに……一緒にコーヒーを飲んだり、颯太が眼鏡を掛けたり外したりするだけで、いつも心臓がもたない。

退屈してる暇なんてないわ」


それはこっちの台詞だ。

素直じゃない表情とぶっきらぼうな口調とは裏腹に、こっちが赤面するくらいに素直な言葉で、まゆらは俺を骨抜きにする。


手で剥いたネーブルをふたつに分けて、果汁で手を濡らしながら二人で食べた。

俺達はやっと、オレンジの片割れを見つけた。


運命の恋人との初めてのキスは、甘酸っぱくてかすかに苦い、オレンジの味がした――と言いたいところは山々だけど、塾帰りの小学生の集団にひやかされ、実現は叶わなかった。


「……これも運命のいたずら?」


「かもね」


うなだれながら問いかける俺に、悪戯っぽい口調で返すまゆらは、今までで一番可愛い顔をしていた。















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