②
自分の最低さを噛み締めながら、二つ折りの財布から学生証を出す。
自動受付機に裏面をかざした瞬間、耳障りなエラー音が鳴った。磁気が反応しないようだ。
そのまま何度か試してみて、あきらめて図書館を出た。
ここ最近、こんなことが頻繁にある。
買ったばかりの自転車のチェーンが外れて講義に遅刻したり、廊下に落ちていた瞬間接着剤のチューブを踏んづけて、しばらくその場に足止めを食ったこともある。
一番ひどかったのは、くしゃみをした拍子にコンタクトレンズが落ちて、小一時間ほど校門の前で探す羽目になったことだ。
この大学に入って一年、冗談のような不運振り回されること、数知れず。運命にいたずらをされているとしか思えない。
どうせなら、『いたずら』ではなく『出会い』を連れて来てほしい。切実に。
そんなことを思いながら、肩からずり落ちたリュックサックをそのままに、図書館の裏庭にまわった。
日当たりが悪く、銀杏の木が一本生えているだけの殺風景な場所だ。
でも確か、石造りのベンチが置いてあった気がする。
レポートに取り組むのに適した場所とは言えないが、次の講義までの時間潰しくらいはできるだろう。
今は和やかな日差しの下でくつろぐ気にも、賑やかな学食の喧騒に包まれる気にもなれなかった。
――今にして思えば、この瞬間、俺を苛立たせ続けた『運命のいたずら』は、堂々のフィナーレを迎えようとしていた。
いや、『いたずら』だと思っていたのは俺の勘違いで、本当はずっと心憎いアシストをしてくれていたんだ。
履き古したスニーカーの爪先から、二十メートル向こう。
俺の『運命の恋』が、今度こそ本当に始まろうとしていた。
最初に視界に飛び込んできたのは、ラズベリー色のニットだった。
枯れ草が生い茂るセピア色の風景の中、そこだけ鮮やかな色彩に、目が吸い寄せられた。
銀杏の木の下、古びたベンチに腰を掛けて、女の子が本を読んでいた。
すっきりとしたシャープな頬のライン、細い顎。高い鼻。美術館に展示された彫刻みたいに、完璧な横顔だった。
見つめ合う前から、俺の心が知っていた。
この子が《彼女》だ。
予感や、希望的観測といったものからはかけ離れていた。
あまりにも単純で、だからこそ揺るぎない、確信だった。
息が苦しくて、水面から顔を出して息継ぎをするように、慌てて空気を吸い込んだ。息をすることすら忘れていた。
一歩前に踏み出すと、スニーカーの裏の枯れ枝が乾いた音をたてて折れた。
《彼女》が弾かれたように顔を上げる。
その瞬間、本当に時が止まった。
こんなに綺麗な目に見つめられたのは、生まれて初めてだった。
真っ直ぐに俺を射抜く黒い瞳と、かすかに青みがかった白い部分のコントラストが鮮やかで、目を離せなかった。
彼女も俺と同じように、瞬きもせずに固まっていた。
言葉も交わさなくても、彼女が俺と同じ衝撃に包まれていることが、手に取るようにわかった。
十九年間、ずっと何かが足りなかった。
あらかじめピースが足りないパズルを組み立てているように。
結末を切り取られた推理小説を、無理矢理読まされているように。
どんな相手にも、本気になれなかった。
でもようやく俺は、人生の最後のピースを見つけた。
「やっと会えたね。正直、待ちくたびれたよ」
気が付くと、そんな言葉を口走っていた。
多分そのとき、俺は笑っていたと思う。
見ようによっては、待ち合わせの時間に遅れて来た恋人を見つけた男のような顔をしていたかもしれない。
実際、ほっとしていた。油断すると涙が滲みそうなほど。
今まで、誰にも打ち明けられなかった。
だってそうだろ?『運命の恋』を待ち続けているなんて、正気の沙汰じゃない。
でも、やっと出会えた。
言葉が通じない見知らぬ星で、やっと理解し合える相手を見つけた気分だった。
枯葉を踏んで、さらに一歩近づくと、彼女の顔が不意に歪んだ。感極まって泣く寸前のように見えた。
今すぐ彼女を抱き締めたくて、俺の心の空洞が、狂おしいくらいに鳴いた。
でも、当然のように手を差し伸べる俺に待っていたのは、あまりにも予想外の仕打ちだった。
「いい加減にしてっ!」
舞台女優のように張りのある、凜とした声だった。
銀杏の木で休んでいた鳥達が、大袈裟な羽音をたてて飛び立った。
「本当にしつこいのね! いい加減、あきらめたらどう?」
眉間と鼻の頭に皺を寄せ、威嚇する猫のような顔で俺を睨みつける。
どう見ても、『運命の恋人』に向ける表情ではない。
おそるおそる後ろを振り返る。期待も虚しく、誰もいない。
「……俺のこと?」
「他に誰がいるって言うの?」
憎々しげに吐き捨てる彼女に、ショックや悲しみよりも、戸惑いが勝った。
どうやら彼女は、まごうことなきこの俺に怒りをぶつけているらしい。
「一応、確認だけど……俺達、初対面だよね?」
「そうね」
「こんなこと言ったら、危ない奴だって思われるのは重々承知なんだけど──俺は君に『運命』みたいなものを感じてるんだ。君もそうだよね?」
「腹立たしいことにね」
彼女は怒りを静めようとするかのように瞼を閉じると、深い溜め息をついた。
しばらくそのまま目を閉じていたので、俺は遠慮なく彼女を見つめた。
十人中十人の男が美人と評価するだろう。それほど整った顔をしていた。
切れ長で少し吊り上がった瞼も、弓形の形のいい眉も、真っ直ぐに筋が通った完璧な鼻も。
可愛い、とか、癒される、という言葉とは対極にある。見つめられるだけで緊張を強いられそうなタイプの美人だった。
彼女の綺麗な顔を観察しているうちに、今やっと、悲しみが戸惑いに勝った。
理由はわからないけど、彼女は俺との出会いを歓迎していない。
それだけで、目がくらみそうなほど落ち込んだ。
正直に言えば、早苗に告げられたばかりの別れの言葉よりも、彼女の眉間の忌々しげな皺のほうが、よっぽど心に堪えた。