⑥
悔しかった。
無理だとわかっているハードルに全力で挑んで、跳ね返されて傷ついたまゆらを――
きっと涙を隠して平気そうな顔を取り繕っていた、俺と出会う前のまゆらを思って、たまらない気持ちになった。
そのときのまゆらのそばにいたかった。
俺のパーカーで、小さな体を包んだあの夜のように。まゆらが傷ついたときは、いつも俺が一番近くにいたかった。
タイムスリップして過去に戻ることなんてできない。だけど──今ならそばにいられる。
運命なんて関係ない。
恋人じゃなくても、親友でも、肩書なんてなんでもいい。
将来だとか生き方だとか、プライドだとか、そんなものもどうだっていい。
俺はもう二度と、強がりなあの子を独りきりで泣かせたくない。
「颯太君、まゆらはね。あなたがくれる未来に満足できないわけじゃないの。
あらかじめ用意されている未来を、無抵抗に受け入れることが怖いのよ。
あの子はずっと、運命に抗って頑張り続けて来たから……頑張れなくなることが怖いんだと思う。頑張らなくてもいい、今のままで十分幸せって思ってしまうことが……そう思わせるあなたのことが、怖いんだと思う。
きっと、ただそれだけ。だから私は、あなたにまゆらのそばにいてほしいの」
すみれさんの言葉が、俺の背中を優しく押す。
冷めた紅茶を飲み干して玄関に向かった。
靴箱の上には、写真立てが飾られていた。
入ったときには緊張しすぎて見る余裕がなかった。
白い木のフレームの中に、ランドセルを背負ったまゆらが立っていた。
シンプルな紺色のワンピースを着て、緊張した面持ちで唇を引き結んでいた。
眉の上で切りそろえられたボブの髪も、恥ずかしさを無愛想で隠す表情も、今とほとんど変わらない。
「小学校の入学式ね。
まだあの子が、あの世界に憧れる前の写真よ。
この頃のあの子の夢、何だかわかる?」
言葉に詰まる俺を見て、すみれさんは言った。
「──『お花屋さん』よ」
目には見えない大粒のしずくが、胸の真ん中に落ちてくる。
その場所から、あたたかい何かが全身に滲んでいくのを感じた。
履き古したスニーカーに足を突っ込んで、踏んづけた踵を直すのさえもどかしかった。
「待って颯太君、忘れ物」
呼ばれて振り向いた瞬間、強烈なデコピンが俺を襲う。
額を押さえてうめく俺を見て、すみれさんは悪戯っぽく笑った。
「この前の舞台の帰り、まゆら、あなたと一緒にいたんでしょう?
夫には内緒で教えてくれたの。『颯太に送ってもらった』って。あの子、あなたの前で泣いたんじゃない? 目が真っ赤だった」
「誤解です。俺が泣かせたわけじゃなくて……」
「わかってるわ。だから、ただのやきもちよ。
母親の私が最後にあの子の泣き顔を見たのは、高校二年生のときの受験で、一次試験に合格したときの嬉し涙だけ。
あの子が辛いときに涙を流せるのは、あなたの前だけなの。
あなたはまゆらの特別なのよ」
すみれさんとまゆらはよく似ている。
綺麗な顔からは想像もつかないくらい、タフで一筋縄ではいかないところが。
今度は夫がいるときに、まゆらと四人で食事でもしましょう。
そう言って手を振るすみれさんに頭を下げて、駆け込むようにワゴンに乗った。
バッグミラーには、取り立てて特徴のない男の顔が、上半分だけ切り取られて映っていた。
こんな平凡でなんの取り柄もない俺を、あの子は世界でたったひとりの特別な男に変えてくれる。
そんな魔法を使える女の子は、やっぱり世界でたったひとり、君しかいない。