⑤
「そんな顔しないで。まゆらはね、ただ怯えているだけの子じゃないの。
いつも運命に抗ってる。あらかじめ用意された未来をなぞるだけじゃなくて、自分で新しい未来を創ろうとしているの。
まゆらから聞いてない? 昔私がいた劇団のこと」
「前に、少しだけ教えてもらいました。子供の頃からずっと憧れていて、いつか自分も舞台に立ちたいと思ってたって……」
でもまゆらの夢は叶わなかった。
四度の受験に失敗し、年齢制限からはみ出てしまったまゆらは、二度とチャレンジすることもできない。
『私には、もう努力することもできない』
夜の公園の前で、涙で声を詰まらせながら、まゆらは話してくれた。
影踏みをするようにじゃれ合いながら歩いた日から、まだ一カ月しか過ぎていないのに、もうずっと昔のことのように思えてくる。
「颯太君、不思議に思わなかった?
未来が見えるのに、どうしてまゆらは四度も受験したんだろうって。
どうして自分が不合格になることがわからなかったんだろうって」
「まゆらさんは、自分には全てが見通せるわけじゃない、って――」
すみれさんは紅茶を飲み干すと、そっとカップをソーサーに戻した。
その表情からはほほえみが消えていた。
真っ直ぐに俺を射抜く鋭い瞳は、まゆらによく似ていた。
「あの子は知っていたの。ちゃんと全部見えていたの。
どんなに努力しても、自分があの学校に合格できない未来が。
それでもあきらめなかったの。
まゆらは、そういう子なのよ」
膝の上に置いた拳の震えを止めたくて、痛いほど強く握り込んだ。
暖房のきいたあたたかい部屋で厚手のセーターを着ているのに、鳥肌が立った。
「バレエのレッスンも、声楽のレッスンも、親の贔屓目ではなくて、誰よりも熱心だったわ。
爪先が血豆だらけになっても、爪が剥がれても、喉を痛めて水を飲むことすら辛そうでも、一度も弱音を吐いたりしなかった。
いつも口癖みたいに、『大きくなったらあの学校に行くの。絶対に、ママが立ったあの舞台で踊るの』って呟いてたわ」
中学三年の春、初めての受験で、まゆらは一次試験で不合格だった。
自分の番号が無いことに気が付いても、まゆらは顔色ひとつ変えなかったらしい。
ショックを受けた様子もなく、当然のことのように受け止めていた、とすみれさんは言う。
落ち込むこともなく再びレッスンに励むまゆらを見て、すみれさんは思った。
一度目の不合格はまゆらにとっては想定内で、肩慣らしのつもりで受けたんだろう、と。
今回は失敗だったものの、きっとまゆらには、何度目かの試験で合格する未来が見えている。そうでなければ、叶わないとわかっている夢のために、こんなに努力できるはずがない。
一年後、まゆらは再び不合格だった。それでも前年と同様に、ただストイックに自分を磨くことだけに取り組んでいた。
「でもね。三回目の受験の一次試験の発表で、あの子、泣いたの」
「それは、三回目の試験でも不合格だったから……?」
すみれさんは静かに首を横に振った。
「受かってたのよ。まゆらは、一次試験に合格したの。受かっていたことが信じられなくて泣いたの。
どんな厳しいレッスンにも音を上げなかったあの子が、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら言ったの。
『ママ、わたし頑張る。今までよりも、もっとずっと頑張る。絶対にあきらめない』って――
そのときわかったのよ。ああ、この子には、自分が何度受験しても失敗する未来が見えてるんだって。
はじめから何もかもわかっていて、それでも未来に打ち勝つために、運命を変えるために、必死に頑張っているんだって」
すみれさんの声が、真っ白になった俺の頭に反響する。
その声に呼び覚まされるように、今までまゆらが俺に見せたいくつもの表情が、めまぐるしく浮かんだ。
黒板を見つめる真剣な顔、いい加減な俺を咎めるときの険しい顔。
届かない月を見上げる濡れた瞳。
声を殺した嗚咽。
気を落ち着かせるために、ティーカップを取ろうと手を伸ばした。でも指が震えて、華奢な取っ手をつまむことができなかった。
代わりに、生成り色のテーブルクロスに水滴が落ちる。
みっともないことはわかっていた。
それでも、自分の意志に反して滑り落ちる涙を、抑えることができなかった。
「そのあとの二次試験では不合格。
四回目の受験では、一次審査すら通らなかった。未来が覆ったのは、あのときの一回だけ。
でもね、あの瞬間、たった一度だけだけど……まゆらは、自分が予知した未来に打ち勝ったの。
運命を変えたのよ」
すみれさんが、綺麗に畳まれたハンドタオルを渡してくれた。
好意に甘えて目許を覆いながら、声が漏れてしまわないように、奥歯を噛み締めた。
「ねえ、颯太君。絶対に失敗するってわかっていて、その事に全力をそそぐことができる?」
俯いたまま何度も首を横に振る俺を見て、すみれさんがほほえんだのが、顔を上げなくてもわかった。
「私も同じ。誰にでもできることじゃないわ。
だから私はね、自分の娘にこんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、あの子のことを心から、誰よりも尊敬してるの。ただ、いつも頑張り過ぎるから、そこだけは母親としてすごく心配なんだけど」
すみれさんの言葉を聞きながら、俺よりもひとまわりも小さいまゆらの背中を思った。
自分が恥ずかしかった。
子供の頃からずっと、運命の相手を待ち続けていた。
なかなか現れない彼女に苛立って、ふてくされて、半分あきらめながらいろんな女の子と付き合った。
いつ訪れるかもわからない『運命の出会い』を待ち続けるしかない自分の人生を、最後の数ページを切り取られた推理小説に例えて嘆いたことだってある。
でもまゆらの人生は、そんなものじゃない。
犯人もトリックも犯行動機も、次のページに何が書いてあるかさえもがわかっている推理小説。
だけどあの子は、うんざりしながらただページをめくり続けていた俺とは違う。
与えられた物語を惰性で読むことは選ばずに、自分だけの新しい物語を創ろうとしている。