③
レッスンを終えたばかりで汗だくだというすみれさんに、少し待っていて欲しいと頼まれ、こうしてここでお茶をいただいていたわけだが……正直一刻も早く帰りたい。
モミの木の代金を受け取り、領収書を書いているあいだに、すみれさんはキッチンで紅茶を淹れなおしている。
「もう一杯だけ、付き合ってくれないかしら。
夫はゴルフだし、まゆらは帰って来ないし、今日は夜のレッスンもないし、退屈なの」
お得意様の申し出を無下に断るわけにはいかず、手のひらの汗をジーンズで拭う。
気を抜くと、すぐに視線が彷徨って、まゆらがこの部屋で過ごしている気配を探そうとしてしまう。
なるべく目を伏せて、テーブルの上のシュガーポットだけを見るようにした。
俺のティーカップに湯気の立つ紅茶を注ぐと、すみれさんは向かい側の椅子に座って頬杖をついた。
まゆらそっくりのアーモンド型の目を細めて、ほほえみながら俺を見つめる。
「ごめんね、強引なおばさんで。でも私も夫も、ずっとあなたに会いたかったの。
夫は、私とは少し違った感情を持っているみたいだけど……」
「それはどういう――」
「気にしないで、あの人の場合は、ただのやきもちだから。でもね、私達はずっと、あなたを待っていたの。
まゆらの運命の恋人の《たちばな そうた》君をね」
すみれさんは、シュガーポットから角砂糖をひとつつまむと、優雅な仕草でカップに入れた。
――そうだ。初めて会った時から、すみれさんは俺のフルネームを知っていた。
もしかして、すみれさんにもまゆらと同じ力が……?
だとするとあの予知能力は、血筋によるものなのだろうか。
そんな疑問が顔に出ていたらしい。すみれさんは笑いながら首を振った。
「私にも、夫にも、あの子のような不思議な力はないの。どちらかというと、超常現象とか心霊現象には懐疑的なタイプなのよ。
でも自分の娘が言うことは、やっぱり信じざるを得ないのよね。実際に、あの子の予知が的中する瞬間を数えきれないくらい見て来たし」
使い終わったティースプーンを受け皿に置いて、すみれさんは不意に俯いた。その肩が小刻みに震えだす。
どうやら、笑いをこらえているらしかった。
「ごめんなさい、あの子が初めて予知をしたときのことを思い出しちゃって……」
「はぁ……」
どんなリアクションを取るべきかわからず、間抜けな相槌を打つ。
「まゆらが三歳の頃ね、夫があの子に言ったの。こうやって抱き上げながら、『まゆは、大きくなったらパパと結婚するんだよな』って。
そしたらあの子ね、今と同じような生真面目な顔をして言ったのよ。
『ごめんなさい。私、パパとは結婚できないわ。私は《たちばな そうた》のお嫁さんになることが決まっているの』って」
舌を火傷しないように注意して紅茶を飲んでいた俺は、再び咳き込んだ。
「その日からね、夫が復讐に燃える鬼と化したのは。
『たちばなそうたは、男親なら誰でも夢見る幸せを、俺から奪ったんだ』って。
まゆらがあなたの名前を口にするたび、別人のような昏い目をするようになったの。
あれから二十年、毎朝八キロのランニングと三十分のシャドウボクシングを欠かしたことがないのよね。
まぁそれは、嘘のような本当の話だからいいとして……」
全然よくないし、物凄く怖い。
もし俺とまゆらが順調に付き合い続けて結婚の挨拶に……なんてことになった場合、ドアを開けた瞬間にワンツーパンチで沈められそうである。
……いや、でも取り越し苦労だ。
俺とまゆらに、そんな未来が来ることはない。
「すみれさん、俺とまゆらさんは……」
「お義母さんて呼んでって、言ったでしょう?」
絞り出すような俺の呟きを、すみれさんは柔らかにほほえみながら遮る。
でも俺は、その未来を、他でもないまゆらに突き返された。
「まゆらさんに、はっきり言われたんです。俺じゃ満足できないって」
「それであきらめちゃうの? 随分簡単なのね」
すみれさんが首を傾けると、耳にかかっていた髪が一房落ちて、まゆらの髪が揺れたときと同じ香りがした。
簡単、なんて言わないでほしい。
この家の門をくぐったときから、目に入るもの全てがまゆらを連想させて、苦しくてたまらないのに。
玄関に揃えて置かれたベビーブルーのファーのスリッパも、テレビの前に飾られた紙粘土のバレリーナの人形も、ソファにぽつんと置かれた黒猫のぬいぐるみも。
サイドテーブルに置かれた、赤いレザーのブックカバーがかかった文庫本でさえ、それを彼女がめくる姿を想像して、苦しくなる。
簡単なんかじゃない。
でもどんなに一緒にいたくても、まゆらが望んでいない未来に、あの子を連れて行けない。




