②
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土曜日の昼下がり。くすんだ水色の壁に囲まれたフレンチ・カントリー調のリビングの片隅で、俺は目の前に置かれたティーカップを見つめている。
猫の足のように優雅なカーブを描く取っ手と、薔薇のつぼみが描かれたソーサーを持ち上げる。
手が震えているせいで、陶器同士がぶつかり合い、耳障りな音をたてた。
緊張で喉が乾き切っているのに、ティーカップがなかなか口までたどり着かない。ソーサーに乗った金のスプーンがずり落ちそうになり、さらに慌てる。
別世界だ。
ドーナツ屋の福袋でもらった分厚いマグにティーバッグを放り込み、ポットのお湯を入れるだけの我が家の紅茶とは違い過ぎる。
でも動揺しているのは、丁寧に淹れられた紅茶のせいでも高価そうなティーカップのせいでもない。
問題なのは、今置かれているシチュエーション。
心を落ち着かせるために、薔薇の香りがする紅茶を一息に飲んだ。
強烈な熱さが舌と喉を焼き、慌ててカップを置く。
自分が猫舌なことを忘れるくらい、動揺している。相当重症だ。
初めて招待された彼女の家で、二人っきりという状況のなか――俺は、彼女がシャワーを浴び終えるのを待っている。
独りきりの部屋に、時計の針の音が響く。
ドアの向こうからは、かすかな物音。耳をすまさないようにしているのに、どうしても過敏になってしまう。
スリッパの足音が少しずつ近付いて、ドアが開いた。
「お待たせ。……いやだわ、そんなにかしこまらないで」
ドアが開くと同時に、反射的に直立して姿勢を正す俺を見て、彼女は――まゆらのお母さんのすみれさんは、濡れた髪をタオルで拭きながら笑った。
「ごめんなさいね、こんな格好で。颯太君が来る前にちゃんとシャワーを浴びておこうと思ったんだけど、予定よりレッスンが長引いちゃって」
俺を迎えてくれた時は、レオタードのような服を着て、髪をひとつにまとめていた。
今は足首まである長いワンピースを着て髪を下ろしている。それだけで随分印象が変わる。
「病み上がりだったのに、ごめんなさいね。『颯太君を指名で』なんて無理言っちゃって。重たくなかった?」
「平気です。ツリーはあの場所でよかったですか?」
俺がリビングのテレビの横に置いたモミの木を見て、すみれさんは笑顔で頷く。
十一月のこの時期にモミの木の配達を頼まれるのは珍しいことじゃない。だが配達先が、同じ小手鞠町の宝生さんの家、しかも俺指名で、となると話は別だ。
ためらう背中を母に蹴とばされ、シートに包んだ背の高いモミの木を店のワゴンに乗せて、複雑な思いで彼女の家に向かった。
電話を受けたのは母だったが、注文をしたのがまゆらじゃないことはわかり切っていた。案の定、玄関から出て来たのはすみれさんだった。
『さっきまで、まゆらも部屋にいたんだけど……逃げられちゃったわ』
その言葉を聞いて、むしろほっとした。
初めて足を踏み入れたまゆらの家は、外観と同じように中身も豪華で、俺の家との生活水準の差を浮き彫りにした。
『あなたがくれる幸せじゃ満足できない』
あの夜のまゆらの言葉を思い出し、乾きかけていた傷口が疼いた。