①
運命の恋が終わっても、朝は変わらずやって来る。
絶望はしない。
十九年間、俺は彼女がいない人生を普通に生きてきた。
たった二か月間一緒に過ごした女の子が俺の前から消えただけだ。大げさに悲観することじゃない。
また昔のように、それなりの恋愛を楽しむ毎日に戻ればいい。
簡単なことだ。俺はもともと、そういういい加減な奴なんだから。
思い返せば、彼女といるときの俺は、いつも無理をしていた。
いいところを見せたくて、もっと好きになって欲しくて空回りして、気が付けば、自分でも思いも寄らない本性をさらけ出したりもした。
もうあんなふうに心を乱されることはない。
今までの俺に……彼女と出会う前の俺に戻るだけ。簡単なことだ。
ただ、ときどき不意に、胸が苦しくなることがある。
彼女と歩いたキャンパス、一緒に勉強した図書館、俺が通った小学校と公園のジャングルジム。
何気なく暮すなかで、彼女との思い出がある場所を通り過ぎるたびに、どうしようもないほどの息苦しさに襲われる。
彼女と出会うまで、自分がどんなふうに息をして、どんなふうに歩いていたかさえも、うまく思い出せなくなる。
キャンパスで彼女と顔を合わせるのは、週に一度のスペイン語の授業だけ。
俺はいつも一番前の席に座った。彼女がどこの席に座っていたのかは知らない。
岩本教授と黒板だけに視線を固定し、九十分間をやり過ごした。講義の内容なんて頭に入らない。
振り向いて彼女を探したい衝動に抗うだけだで、精一杯だ。
「……me dia naranjya」
今日も岩本教授は、滑らかな発音で呟く。
『オレンジの半分』。スペイン語で、生涯愛するたったひとりの人を指す言葉。
世の中には、一つとして同じオレンジはない。
半分にしたオレンジが、隙間なく合わさるのは、その片割れだけ。
別の言い方をすれば、初めから半分に切られたオレンジなど存在しない。どんなオレンジにも、必ずつがいとなるパートナーが存在する、ということだ。
「そういうわけで、生徒諸君。手近にある他のオレンジで間に合わそうとして、くれぐれも後悔することがないように」
厳めしい顔つきで忠告する教授の話を、ほとんどの学生が、話半分で聞いている。
だけど俺は知っている。
俺の片割れは、あの子しかない。
でも俺のオレンジは、俺と実を寄せ合う人生ではなく、もっと刺激的で眩しい世界に飛び出したがっている。
彼女がずっと怖がっていたのは、『退屈』で『平凡』な未来。
それを知った今、俺には彼女を止めることはできない。
誰とも合わさることがない切り口が干からびて、いつか瑞々しさを失うことになったとしても、それは仕方のないことだ。
住谷さんは、顔を合わせるたびに俺達のことを気にかけてくれた。
『このままでいいの?』
そう聞いてくる住谷さんに『もう終わったことだから』と恰好をつけて呟いてみたものの、『何か始まってたっけ?』と毒舌で返され、地味に傷ついた。
確かにそうかもしれない。
俺達は、傍から見たら何も始まっていなかったのかもしれない。
手を繋いだのだって一度だけ。
でも初めて出会った瞬間から、俺達の恋は確かに始まっていた。
それはきっと、俺とまゆらにしかわからないことだけど。
クリスマスの時期に入り、店にはポインセチアやモミの木、クッキーのかたちのオーナメントが並べられ、生花を使ったリースの注文が入り始めた。
姉の結婚式の準備も佳境に入り、当日の式場の装花について、俺もプランナーさんとの打ち合わせに参加したりもする。
そんな慌ただしい日々が続いて、やっと俺のギプスが外れた頃――
店にかかってきた一本の電話が、止まっていた俺と彼女の《運命》を、再び動かし始めた。




