⑦
混乱する俺の心を読んだように、まゆらは硬い声で呟いた。
『颯太と結婚して、あなたの子供を産んで、毎日あなたの帰りを待ちながら、お母さんのお店を手伝って。
お花屋さんの仕事と子育てに追われながら、いつのまにか年を取って、また二人だけに戻って、いたわり合いながら暮らしていく――
そういう生活を《幸せ》と呼ぶんだって、私にもわかってるわ』
『じゃあどうして……』
『満足できないの。
颯太がくれる《幸せ》じゃ、私は満足できないの』
まゆららしい、何の誤魔化しもない、ストレートな言葉だった。
だけどそれは、今まで投げつけられたどんな言葉よりも、俺の何かを粉々にした。
未来の俺が彼女に捧げた精一杯の幸福は、リボンをほどかれ、蓋を開けて中身を確かめられて、これじゃだめだと突き返された。
男として、完全に否定されたのと同じだった。
まゆらの白い頬を、涙が一粒滑り落ちた。
こんなにプライドを叩き潰されたのに、それでもまだ、彼女の泣き顔を見ると胸が痛んだ。
本当にどうかしている。
本物の馬鹿は、まゆらじゃなくて俺の方だ。
『颯太といると、一緒にいるだけで心地が良くて、他に何もいらないなくなる。
このままでいい、このままの未来でいいって思えてくるの。
颯太といると、私は成長できない。頑張れなくなる。そんな自分が、私は嫌いなの』
『それはつまり……《町のお花屋さん》じゃ満足できない、っていうことなんだよね』
我ながら皮肉な言い方だ。
まゆらが答えを探すように黙っているあいだ、テレビで見かけたサブローの母親の顔や、まゆらが憧れ続けた煌びやかなステージに立つスターの姿が頭に浮かんだ。
まゆらが求めているのは、きっとそういう未来なんだろう。
『――そうね。凄く嫌な言い方だけど、そうかもしれない。
自分の中にそういう気持ちがあることを、否定できないわ。……ごめんなさい』
謝る必要なんかない。
同情されるいわれもない。
ただ俺達が求める幸せが、あまりにもかけ離れていた。それだけのことだ。
俺が間違っているわけでも、彼女が間違っているわけでもない。
でも俺は、絶対にそっちの道は選ばない。
あの殺風景な豪邸の、刑務所のように何もない寝室で見たサブローの寝顔。たとえ日本中の何百人、何万人に尊敬されようと、どんな功績を残そうとも、家族にあんな顔をさせる人間には、俺は絶対になりたくない。
その後は、受付で会計を済ませ、二人でタクシーに乗り込んだ。
慣れない松葉杖でふらつく俺を支えようと、何度か彼女が手を伸ばしかけるのが、視界の端に映った。
ためらいがちに伸ばされた手は、結局一度も俺の体に触れることなく、引込められた。
薄暗いタクシーの中で、きっと二人とも同じことを考えていた。
俺達はもう一緒にはいられない。
同じ人生を歩むには考え方が違い過ぎる。
俺が大切に思うものは彼女にとってがらくただし、彼女が大切に思うものは、俺にとってもがらくただった。
夫婦にも恋人にもなれない。だけど友達に戻るには、お互い好きになり過ぎた。
俺達の実験は完全に失敗した。そして、もう二度と再開されることはない。
いつのまにか眠っていたらしい。
右足の甲から徐々に這い上がる鈍痛で目が覚めた。
病院で飲んだ痛み止めが切れかけている。真っ暗なキッチンに向かい、手さぐりで電気を点ける。
水切り籠に伏せてあったグラスに水道水を入れ、苦みのある粉薬を流し込んだ。
部屋に戻ろうとしたとき、ダイニングテーブルの上に何かが置かれているのに気付いた。
近付いてみると、ラップがかかった丼。
俺が好きなつみれと白滝、はんぺんの他に、ゆで卵が四つ。
我が家には二日目のおでんはない。なぜなら母が飽きっぽいからだ。いくら味が染みたところで同じメニューは飽きる、と文句を言う。
だから卵は、一日分の四つしか茹でない。そして、家族全員が一番好きなおでんダネは卵。
深夜のリビングで冷たいおでんを食べながら、不覚にも泣かされた。
丼を流しで洗い、キッチンの細長い窓ガラス越しに夜空を見上げた。
隕石が落ちてきたわけでも、権力に引き裂かれたわけでも、歴史に翻弄されたわけでもなく、俺の『運命の恋』は呆気なく終わりを告げた。
明日からは学校で眼鏡をかけない。
人混みで彼女を探さない。
切れ味の良い、スタッカートのリズムのヒールの音が聞こえても、振り返ったりしない。
そう自分に言い聞かせながら、その夜だけは、気が済むまで女々しく思い出に浸った。




