⑤
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帰りのタクシーの中では、お互い黙り込んだまま、一言も会話を交わさなかった。
気のよさそうなタクシードライバーが、沈んだ空気を変えようと何度か話を振ってくれたけど、俺にとっても彼女にとっても、今は迷惑でしかなかった。
車が小手鞠町に入る頃には、すっかり夜が更けていた。
「そこの大きな家の前で、ひとり降ろしてください」
運転席側に身を乗り出して俺が言うと、まゆらがバッグから財布を取り出す。
チェリーピンクのレザーに小さなスタッズが並んだ、彼女らしい辛口のデザインだった。
初めて会った日、学食の売店で一緒に飲み物を買った。奢ろうとする俺を押しのけて、財布を開いていた姿を思い出す。
鼻の奥が熱く疼いた。
彼女に気付かれないように、顔を背けて窓の外を睨んだ。
「千円しかないの」
「いいよ」
「でも、余った分は明日学校で返してくれればいいから」
「いいって言ってるだろ」
情けない鼻声をごまかしたくて、思いがけずに強い口調になった。
まゆらは、何も言わずに財布のファスナーを閉めた。
タクシーが彼女の家の前で停まる。
本当なら、俺の馬鹿な行動のせいでこんな時間になるまで彼女を付き合わせてしまったことを謝罪するべきなんだろう。
でも今は感情を抑えることに必死で、そんな余裕はなかった。
病院のロビーで、彼女の口から語られた俺達の未来は、俺の想像を遥かに越えていた。
ドアが開く音がして、革張りのタクシーのシートが、彼女の体の重みを失って小さく軋んだ。
ブーツの踵がアスファルトにぶつかる音。
今振り返らなければ、きっともう二度と、彼女を見送ることはない。
「颯太、私ね……」
「――さよなら、宝生さん」
顔を背けたまま、彼女の言葉を遮る。
ちゃんと冷たい声が出た。
ちゃんと冷たい声が出て、安心した。
まゆらはしばらくその場に佇んでいた。
振り返りたくなる衝動を、奥歯を噛んで殺した。
「……さよなら、橘君」
いつものように凜とした、でも悲しそうな声。
それを合図に、ブーツの足音が遠ざかる。
格子状の門を開ける音がかすかに聞こえた。
戸惑うドライバーに、「行ってください」と告げる頃には、もう涙がこらえられなかった。
十九年と十カ月生きて来て、今まで五人の女の子と付き合った。
好きだと言われて嬉しくて、心のどこかで物足りなさを感じながら、それでも楽しかった。
嫉妬に我を忘れたり、腹が立って怒鳴ったり、思い通りにならなくて身悶えたり――そんなことは、今まで一度もなかった。
精一杯優しく、敬意を持って大切にして、そしていつも、彼女達の方から別れを告げられた。
理不尽に思うことも、落ち込むこともあった。
鬱陶しがるサブローに付き合ってもらい、カラオケで失恋ソングを熱唱したことだってある。
でも今日、俺は、失恋して初めて泣いた。




