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運命の恋人と恋に落ちないための俺と彼女の実証実験。  作者: 古矢永 塔子
決意表明です。今から俺の『運命の恋人』をつかまえに行きます。ご声援、お力添えのほど、お願い致します。
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『交換ノートじゃないわ、実験ノートよ』


初めて一緒に受けたスペイン語の講義で、まゆらが俺に見せたノートを思い出す。

実験を失敗させる恐れがある危険因子、『Vネックのニット』。


サブローの部屋から帰ってすぐにシャワーを浴び、衣装ケースからボーダーのニットを引っ張り出す。

こんなもののどこにそんな力があるのかはわからないが、とりあえず勇気はくれそうな気がした。


モッズコートを羽織ってリュックを背負い、二重に巻いたマフラーを、首の後ろできつく結んだ。


キャンパスに到着した時点で、一限目の講義はとっくに始まっていた。

俺の講義は、教育学部棟の三階『民俗学』。

でも今日は人文学部棟の一階で、廊下の壁に背中を預けて、『西洋芸術A』の教授の声に耳を傾ける。


一枚壁を挟んだ向こうで、あの子はきっと、いつものように生真面目な顔でこの声に耳を傾けているに違いない。

講義が終わった瞬間を待ち伏せて、捕まえる。



ずっと踏み出せなかった。望まない未来を知ることが怖かった。

俺とまゆらの恋がバッドエンドなら、これ以上俺達の関係を深めることは、お互いを苦しめるだけなんじゃないかと思った。


でも決めた。

もしもこの先、俺とまゆらの未来にとんでもない不幸が……いや、不運が待ち受けているとしても、俺は絶対にまゆらを不幸にさせない。


襲い掛かる不運を全て払いのけることはできないし、方法もわからない。救いようがないくらい普通な俺には、多分そんな力もない。


でもこんな平凡な俺でも、あの子の瞳を通して見た世界の中では、たったひとりの特別な《運命の男》に変わる。


だから俺は、まゆらだけが知っている俺達の恋の未来を、今度こそ逃げずに受け止める。

どんなに悲惨で残酷な未来が語られたとしても怯まない。

俺達を結び付けてくれた《運命》に、今度は全力で抗ってみせる。





チャイムが鳴り、何人もの生徒が教室から出て来る。

教材を抱えた教授が去ったあと、廊下に静寂が訪れる。


しばらくして、ドアの向こうから、ずっと待ち続けていた足音が聞こえた。


一番最後に教室から出て来たまゆらは、俺を見ても驚かなかった。

予知能力がある彼女には、俺の行動なんてお見通しのようだ。


唇が、緊張したようにぎゅっと結ばれるのが、眼鏡のレンズごしにはっきりと見えた。

膝より長い丈の黒いジャンパースカートに、丸襟の白いブラウス。腕には、赤いコートを抱えている。


自分が信じられなかった。

だって、たった五日だ。

たった五日会えなかっただけなのに、顔を見ただけで、こんなにも胸が熱くなる。


「金曜日の一時限目は、民俗学でしょう? だめよ、さぼるなんて」


「まゆらに言われたくないな」


俺を避けるために、二週連続でスペイン語の講義を休んだくせに。

まゆらは顔を強張らせたまま、困ったように目を伏せた。

瞼の縁が、何かに耐えるように震えていた。


「久しぶり。不自然なくらい、遭遇しなかったね。まるで俺を避けてるみたいに」


まゆらが、胸の前でコートをきつく抱きしめる。はじめて会った時と同じように、俺を睨みつける強気な瞳。

でも今日のまゆらには、怒りや苛立ちではなく、ただ怯えているように見えた。


「まゆら、ちゃんと説明して」


「そんな必要はないわ」


濡れた瞳が俺を見上げる。


「説明しなくても、もうわかってるでしょ? 初めに約束したじゃない。『失敗したら二度と会わない』って──」


突き放すように冷ややかな台詞。でもその言葉の下に隠された意味を、俺は知っている。


『運命の恋人と恋に落ちないための実証実験』


それが失敗に終わったことを、ついにまゆらが、自分の口で認めた。


どんなに素直で可愛い『好き』の言葉よりも、俺の心を乱暴に揺さぶって容赦なく胸を締め上げる。


嬉しさなんて感じる余裕はなかった。まゆらが苦しんでいることがわかったから。


いつも真っ直ぐに俺を見つめる瞳が、落ち着きなく揺れていて、

俺よりもずっと、まゆらのほうが混乱していることがわかった。


「……だめなの。颯太といると、私、だめになる……。

颯太といる自分が、私は嫌いなの」


別人のように弱々しい声。

でも言葉だけは、いつも以上に容赦なく俺の心をえぐる。


「連絡しなくてごめんなさい。でも、……しばらく颯太と離れていたい」


「待って!」


俺の制止も聞かず、まゆらは身をひるがえして走り出す。

慌てて追いかけ、角を曲がった瞬間だった。


台車に大量の研究所を積んで歩いて来る岩本教授に思い切りぶつかり、眼鏡が飛んで、廊下に尻もちをついた。

ぼやけた視界の向こうで、まゆらの背中が遠ざかって行く。


いっそこのまま追いかけようかと思ったが、ぎっくり腰をやったばかりの岩本教授は、本を一冊拾うだけで四苦八苦している。このまま知らん顔はできない。


手早く本を積み上げ、次のまゆらの二時限目の講義、近代フランス文学の教室に向かう。

走り出した瞬間、マナーモードにしていたはずのスマホが、最大音量で鳴り響いた。


……明らかにおかしい。この不自然な偶然の連続には覚えがある。


『颯太、二限目空きだったよな』


スマホの向こうから、死にそうなサブローの声が聞こえる。


『俺の二限目の近代芸術史、暇なら代返頼む。あと一個でも欠席したら、単位落としてマジで留年する』


「いや、俺も無理だから! 這ってでも来い!! それか他の奴に頼めよ!」


『やめとく。お前以外に頼んだら、見返りを期待されるのが怖い』


確かに。女のみならず、一部の男にまで狙われているからな。


『潔くあきらめるわ。来年からは後輩としてよろしく、颯太先輩』


言うが早いか、スマホの向こうで派手に嘔吐する音。


あぁもう、と叫んで、行き先を教育学部棟の三階に変える。

無駄だと思いつつ、まゆらに電話をかけた。


どうしても今日、話がしたかった。

できれば今すぐ。一度顔を見てしまったら、今まで抑えていた感情が溢れ出して止まらなかった。


以外にもツーコールでまゆらが出た。

勢い込んでこんで話を始めようとした瞬間、

『――橘君?』という聞き慣れた声。


なぜか住谷さんだった。


「まゆら、昨日の飲み会でスマホ忘れちゃって。預かってるんだけど、今一緒にいる?」


――いない。

なんだ、この不運の連続は。運命のいたずらとしか思えない。


しかも今回はアシストではなく、俺たを引き離そうとしているとしか思えない。

まるで、まゆらに対する俺の本気を試すみたいに。


『橘君、二限目何? あたしは近代芸術なんだけどーー』


「奇遇だね。俺もそれに出るところ」


一瞬サブローの代返を頼もうかと思ったけど、女の子の声じゃ無理だ。

あきらめて駆け足で人文学部棟を出る。



まさかそこで、あんな衝撃の話を聞くことになるとは、思いもしなかった。





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