④
∞ ∞ ∞ ∞
自転車を天神橋通りの駐輪場に停め、指定されたバーに急ぐ。
地下へ続く階段を駆け降りドアを押すと、落ち着いた外装には似合わない異様な熱気に、足を踏みだすことを躊躇する。
照明を落とした薄暗い店内は、まさに修羅場の真っ最中だった。
飛び交う怒声や雄叫びは、さながらデスメタルバンドのライブ会場のようである。
店の中央では、五人ほどの若い女がひとかたまりになってもつれ合い、髪の毛を引っ張ったり顔を引っ掻きあったりと、壮絶なキャット・ファイトを繰り広げている。
免疫がない男なら、一瞬で女性恐怖症に陥りそうな光景だ。
さすがに一瞬ひるんだものの、俺はすぐに状況を察した。
彼女たちがなりふり構わず争っているのは、カウンターの片隅で酔いつぶれている世界遺産級のイケメンをお持ち帰りする権利だということを。
戦いに巻き込まれないように気を付けながら、壁を這うように進み、サブローの隣のスツールに腰を下ろす。
「死にそうな声で呼び出しといて、呑気に寝てんじゃねーよ」
カウンターに突っ伏している頭を後ろからはたくと、低いうめき声を洩らしながらサブローが顔を上げた。
少し乱れた髪は、いつも学校で会うときの寝癖だらけの頭よりはマシだったが、墓場から抜け出して来たゾンビの顔をしていた。
よく見ると唇には血が滲んでいて、右頬は負け試合のボクサーのように腫れている。
「……イケメンが台無しだな」
実際はそんなこともなく、むしろ謎の色気を増していたが、とりあえずそんなことを言っておく。
サブローはうつむいて笑うと、カットソーの裾をめくって割れた腹筋を覗かせた。
へその横にある痛々しい青痣に、息を呑んだ。
そこに目を奪われたのは俺だけではなかったようで、一瞬店内が静まり返り、何人かの人間が唾を飲む音が、生々しく響いた。
しばらくののち、さらに激しい争いが始まる。
……俺は生きてこの店からサブローを連れ出せるのだろうか。もはや不安しかない。
「引導渡された。
1ミクロンの希望も残さず、完膚なきまでに叩き潰された」
「だからって何でボコられてんだよ」
「無理矢理キスしようとしたら至近距離で左ストレート食らって、よろけたところに間髪いれずにボディブローだよ」
姉よ、相手がサブローじゃなかったら過剰防衛で訴えられるぞ。
カウンターの向こうにいるバーテンにジンジャーエールを頼む。
サブローを横目で見ると、慣れた手つきで煙草をくわえていた。
女に振られて殴られた後の情けない顔で煙を吐く姿すら、映画のワンシーンのように絵になる奴だ。
しかし、長年の純な片思いがこんなかたちで終わりを告げるのは、あまりにも不憫な気がした。
「気持ちを伝えるにしても、もっと他のやり方があっただろ。
得意だろ、そういうの」
「今更『好きです付き合ってください』とか言えるかよ。
それにあいつがふざけたこと言うからムカついたんだよ」
「確かにな。結婚式のスピーチはないな」
その言葉が、ずっと抑え続けていたサブローの思いに火を点けたんだろう。
サブローは、グラスに残っていた泡が消えたビールを一口飲んだ。
「『当分顔見せるな。気持ちわりぃ』ってさ」
……天下無双の色男様に向かってなんと罰当たりなことを。
慰めの言葉が思いつかずに、ただジンジャーエールをすするしかできない俺の隣で、サブローは独り言のように続ける。
「ほんとはわかってた。
あいつの前で俺が男を出したらこうなるって。
わかってて引き延ばしてた。
──十七年間、ずっと。
……笑えるよな。何だよスピーチって。
あいつ、俺になんて言って欲しかったのかな。
呪いの言葉しか出てこねぇ」
溜め息のように吐き出す煙が、薄暗い天井に向かって伸びて、消えた。
「愛されてー……」
煙の行方を見届けるように喉を反らし、サブローは絞り出すようにうめく。
「よりどりみどりだろ」
後ろを見ろ、後ろを。
まさに今、五人の美女がサブローに愛を捧げるために仁義なき戦いを繰り広げている。
どうでもいいけど、店の片隅で死んだ目をしている男数人は、あの中の女の彼氏なんじゃないだろうか。
今夜この店にやって来たのが運のつきだな。
「あんな暴力女のことは忘れて、次行け次」
「できるならとっくにやってるよ」
「最早呪いだな。王子様のキスでも待ってみるか?」
なんとか空気を変えようと、冗談めかして笑ったのがまずかったようだ。
急に真顔になって俺を見つめるサブローの目は、完全に据わっていた。
「──もうこの際、お前でいいかな」
「……なんて?」
身の危険を感じてのけ反ったときには、すでにサブローの腕が俺の首にまわっていた。
「いやいやいやいや!ないないない!」
「よく見りゃ結構似てるよな、血が繋がってるし」
「頭わいたんじゃねーの!? 一回も言われたことねーわ!」
「いや、どことなく。肌の質感とか?」
無理矢理過ぎるだろ、と反論しかけた俺の口は、やる気スイッチが誤作動した野獣によって強引に塞がれた。
やめろ、ジャンルの垣根を乗り越えるな!
なんとか突き飛ばそうとしたが、酔っぱらいの馬鹿力にねじ伏せられ、そのまま数秒間情熱的に貪られた。
……父さん、母さん、俺は今日、大切な何かを失った気がします。
いつのまにか店の中は静寂に包まれていた。
サブローはようやく俺を解放すると、苦しげに顔を歪ませて囁いた。
「──颯太。
……気持ちわりぃ。
吐きそう」
マジかよ!
口をおさえてえずき出すサブローに、咄嗟に羽織っていたパーカーを脱いで渡す。
──あぁ、まゆらに貸してからまだ一回も洗ってなかったのに……。
そう後悔したときにはすでに、パーカーのフードの中に何もかもがぶちまけられていた。
サブローはやつれた顔で口許を拭うと、申し訳なさそうに俺を見上げた。
「──悪い、無理だった。
やっぱ愛せねー」
「アホか! チャレンジすんなっ!!」
無理矢理キスをされた上にゲロまで吐かれ、とどめに振られる俺。激しく納得がいかない。
そのまま寝落ちしようとするサブローを肩にかつぎ、汚れたパーカーはバーテンにもらったビニール袋に入れ、なんとか階段を登って地上に出た。
引っ掻き傷に血を滲ませて争いあっていたお姉さまがたは、なぜかこころよく俺達を送り出してくれた。
まさに怪我、いやキスの功名。
世界遺産とのキスの感想?
いまだかつてないほど情熱的で、非常に勉強になったと言っておこう。
ただし二度と御免だ。