③
店を閉めて上がって来た母と夕食を済ませ、食器を洗い終わっても姉貴は帰って来なかった。
時計の針は十一時を回っていた。いくらなんでも遅すぎる。
『今日からラストスパートで本気出す』という魅惑の低音ボイスを思い出し、胸がざわついた。
まさか姉貴に限って、この段階で仁さんを裏切るなんていうことは……、
いやでも相手は、本気になれば地球上の雌という雌を瞬時にひれ伏させることも可能なフェロモンを装備したキング・オブ・雄、佐々木希嵯武郎。
いっそのこと電話をかけて様子を探るべきかとも思ったが、どっちに掛けるべきなのか、何を言えばいいのか、そもそも自分がどうしたいのかすら、わからなかった。
幼馴染で親友の長年の片思いを応援すべきなのか、すっかり家族の一員となった仁さんのために姉貴の貞操を守るべきなのか――
フェロモンたっぷりの魅惑の年下男子か、心優しい癒し系のエリート商社マンか。
ああ、どっちも選べない。
月9ドラマのヒロインのように頭を抱え(そもそも選ぶのは俺じゃないことはわかっているが)、落ち着きなく部屋を歩き回る俺に、晩酌をしていた母がピーナッツをぶつける。
「鬱陶しいんだよ。なんでお前がそんなに心配してるんだよ」
「いっ、いや、いくらなんでも遅いからさ! もうすぐ十二時だし、飯だけならとっくに食い終わってるはずだろ!?」
「飯以外にもいろいろやることがあるんだろ」
「いろいろ!? いろいろって何!?」
尻を蹴られた。
母は冷蔵庫から三本目のチューハイを出すと、ソファに片膝を立ててプルタブを開けた。
「気にし過ぎなんだよ。相手がサブローなら、何も問題ないだろ。今更何かあるわけでもないし」
我が家の女達の目は節穴だ。むしろ問題しかない。
うろたえるだけの俺をよそに、母は豪快に笑う。
「まぁ、万が一何かあったとしても、女にだって結婚前の火遊びの一回や二回や三回や四回、必要だってことだよ」
「まるで経験者みたいな口ぶりですが」
「まぁな、五回くらいはな! 父ちゃんには言うなよ!」
「聞こえてるわ! つーか、ずっと前からいるわ! お願い気づいて!!」
そう叫ぶのは俺ではなく、ダイニングの片隅で俺がチンした肉じゃがを食べている、スーツ姿の父である。顔は俺そっくり――つまり救いようがないくらい普通だ。
ただし存在感の無さだけは尋常じゃなく、休日で一日中家にいようとも誰にも気づかれないことがままある。
かつてはこの地域一帯のヤンキーをまとめていた暴走族のリーダーとは到底思えないほどの人畜無害っぷりである。
「あ、謙ちゃん、帰ってたんだ。お疲れ!」
「遅っ! 三十分遅っ!
さっき冷蔵庫に酒取りに行く時、麗華ちゃん、俺の横を通ったよな?」
「悪い、目に入ってなかった」
「つーか火遊びってどういうこと!? 誰と!? 洋二? 和也? 幹人? 昭太!?」
「忘れた」
容疑者が多すぎる。
なんだか雲行きがあやしくなって来たので自分の部屋に撤退した。
結局姉は帰って来なかった。
俺はベッドに入ってもなかなか寝付けず、スマホの落ちゲーを惰性で続けながら気を紛らわせた。
深夜二時過ぎ、あいつからの着信。
なんとなくそんな予感はしていた。
すでに眠っている家族を起こさないよう、物音をたてないように気をつけて、ガレージの自転車に鍵を挿した。