②
実験が完全に失敗したことを、俺も、きっとまゆらも、確信していた。
正直に言えば俺は、当初はこうなることを期待していた。
『親友』を目指す名目で近付いて、少しずつまゆらの頑なな心をほどき、「絶対に好きにならない」という言葉を撤回させる。そう決めていた。
初めてまゆらを家まで送った日、落ち着きがないキムにリードを引っ張られながら、俺は聞いたはずだ。
『実験に失敗したら、もう二度と会わない。絶交よ』
ゆるぎない凛としたまなざしで、まゆらはそう言い切った。
その言葉ですら、ひるがえさせることができると、たかをくくっていた。
――そう、はじめのうちは。
実験を進めるにつれて、俺は少しずつ気付き始めた。
この女の子は一筋縄ではいかない。流行のツンデレ女子とは違う、芯のある強情さ。
どんなに俺が手なずけようとしたところで、雰囲気に流されて誘惑に負けるような女の子じゃない。
だからこそ、好きになればなるほど慎重になって、前に踏み出せなかった。
いつのまにか俺も、『親友』という居心地のいい関係を壊すことを恐れるようになっていた。
現に今だって、会いに行く手段がないわけじゃない。
商店街を駆け抜けて坂を上り、あの門の前で待ち伏せすればいい。たとえ予知能力がある彼女でも、家に帰って来ないわけにはいかないはずだ。ストーカーじみているけれど、今のところそれが一番確実だ。
わかっているのに俺が前に踏み出せないのは――『親友』になることに失敗した以上、他の代替案を提示しなくては、まゆらが納得しないとわかっているからだ。
新たに『恋人』を始めるか、もう一度心を入れ替えて『親友』をやり直すか、絶交して他人に戻るか。
三番目の案は有り得ない。
まゆらが一番納得するのは二番目だろう。だが実現の可能性は低い。
俺が選びたいのは、一番目の恋人。そしてそのためには、ずっと目を逸らし続けていたあの真実に――まゆらにだけは視えている、俺達が結ばれた後の不都合な未来に、向き合う必要がある。
それがたまらなく怖かった。
「姉ちゃん。弟としてじゃなくて、人生の後輩としての質問なんだけど……もし、仁さんと結婚したあとの未来が必ず不幸になるってわかってたら、どうする?」
「縁起が悪いことを言うんじゃないわよ」
強烈なチョップが眉間に炸裂する。
確かに、二か月後に挙式を控えた花嫁にする質問ではなかった。でもそれにしたって狂暴過ぎやしないか。
姉は憤慨しながらも、難しい顔でしばらく考え込んでいた。それから顔を上げ、やけにあっけらかんと二文字の言葉を言い放つ。
「無理!」
「……だよな。確かに」
わざわざ不幸な未来が待ち受けているのに、敢えてそこに飛び込むような無謀な人間はいない。
納得しながら落ち込む俺の横で、姉はあぐらを崩すと、壁に背中を預けた。
「そうじゃなくて、想像するのが無理、ていうことよ。仁君が隣にいるのに、自分が不幸になってる未来が想像できないの」
完全に予想外の答えに、目を見開いた。
姉は手を伸ばすと、ベッドサイドの自由の女神のオブジェを取って懐かしそうに目を細めた。二年前に、姉貴と仁さんがアメリカに旅行に行ったときの土産だ。
「このときもさ、成田で出発直前に仁君のパスポートの期限が切れてることに気付いたんだよね」
「……え? NY、行ってないの?」
じゃあその手の中のミス・リバティは、一体どこで手に入れたのか。衝撃の事実に愕然とする俺に、姉は平然と「熱海。」と答える。
確かに、観光地の土産物屋には、ご当地グッズの他にもエッフェル塔やユニオンジャックの掛け軸など、出所が怪しい謎の物体が売られていることがある。
そういえば、両親への土産のTシャツには、
『I ♡ATM』というロゴがプリントされていた。
当時は『I love money』的なアメリカン・ジョークだと思って深く考えなかったが、まさかの熱海。
言ってなかったけ? と、とぼけたことを言いながら、姉は熱海土産の謎の土産物を元の場所に置き直した。
「聞いてないよ。父さんも母さんも知らないと思う」
「別にどっちでもよかったんだよね。タイムズ・スクエアでも伊豆山神社でも。仁君と一緒だったから」
キャンセル料を取られたのは痛かったけど、と言いながらも、姉は熱海旅行の思い出を楽しそうに語った。
仁さんが荷物を置き引きされたり、写真を撮ってもらおうと外国人観光客にデジカメを渡したらそのまま盗まれそうになったりと、ほとんどが失敗談だったものの、姉の顔は楽しそうにほころんでいた。
「だからかな。もし将来、お人好しの仁君が友達の連帯保証人になって借金まみれになっても、リストラされて二人でホームレースになっても、二人で作った愛の段ボールハウスに隕石が落ちて来て木端微塵にされたとしても、『どうしよう、美咲ちゃん』って泣きべそをかく仁君の隣で、あたしはいつも笑ってる気がするんだよね。不幸、って思ってる自分を想像できない」
そういうものじゃない? 病めるときも、健やかなるときも、って。と、姉はこともなげに言う。
俺の手からスケッチブックを奪い取り、下手くそなヒトデ……もとい、スノードロップらしき絵を描き始める横顔に、不覚にも鼻の奥が熱くなった。
幸せになるために結婚するわけじゃない。どんな不運が待ち受けていようとも、一緒にいられるだけで幸せだと思える相手を見つけて、一緒に生きていく。
飾り気のない言葉から伝わる姉貴の決意が、踏み出せずに凍りついていた俺の足を、少しずつ溶かしてくれる。
それから俺達は、ああだこうだと言い合いながら、結婚式のヘアスタイルとヘッドドレスのデザインを完成させた。
「夕飯どうする? 父さんは会社の飲み会で、母さんは今日、商店街の集会があるらしいけど」
「あたしはサブローと約束してるからいい。颯太も来る?」
「……いや、やめとく」
そういえば、そっちの問題も残ってたな。のこのこ付いて行ったりしたら、即トイレに連行されて壁ドンで凄まれた上で追い返されそうだ。
「姉ちゃん、最近、やけにサブローと会ってない?」
「まぁね。愚痴とかも聞いてもらってるし、それがガス抜きになってるかもね」
本気を出し始めた肉食獣にロックオンされているとも知らずに、姉はどこまでも呑気だ。
「今日あたしが奢ってやろうかな。結婚式のスピーチも頼みたいし」
髪を束ねていたゴムを外し、背中に落ちたロングヘアーを無造作にかきあげながら、とんでもないことを言う。ケースに片付けていた色鉛筆を、床にばら撒きそうになった。
「それはやめたほうがいいんじゃないかな! いろんな意味で。何ならほら、俺がやるよ! いや、是非やらせて下さい!」
「あんたよりサブローの方が百倍見栄えがするのよね。なんでかわかんないけど、あたしの友達にもあいつのファンが多いし」
なんでかわからないあなたの方が異常だ。
動揺する俺をよそに、姉貴はスケッチブックを片手に軽い足取りで部屋を出て行こうとする。ドアを閉める寸前に、ふと思い出したように俺を振り返る。
「颯太、サブローって最近、彼女できたりした?」
できるはずがない。
「なんでそう思うの?」
「この頃妙に女の扱いが上手くなったっていうか、気遣いができるようになったっていうか……まぁ、あいつも大人になったってことかもね」
鈍すぎる。とりあえず、現時点ではサブローの気持ちに全く気付いていないようだ。
ダサ眼鏡ジャージ姿から細身のジーンズとロングカーディガンに着替えた姉貴が出かけて行くのを、なすすべもなく見送った。
……しかし、結婚式のスピーチ。子供の頃から散々姉貴に下僕扱いされ、大概のことには耐性ができているサブローといえど、さすがにハード過ぎるのではないだろうか。
いくらサブローといえど、そこまで酷な仕打ちをされれば、さすがに姉に愛想を尽かすかもしれない。
いや、いっそ弾みがついて、長年の思いのたけを打ち明けるだろうか。
……確実に嵐が来る予感がする。




