①
それは、一通のメッセージから始まった。
『ごめんなさい。風邪をひいて熱があるから、今日の四限目は一緒に受けられない』
満月の夜から二日後の月曜日の朝、まゆらから、いつものように簡潔なLINEメッセージが届いた。
やはりあの夜、薄着で出歩いたことが悪かったんだろう。そう思って心配はしたものの、『そんなに熱は高くないの』というメッセージを見て、そこまで深刻にはとらえなかった。
火曜日も、水曜日も、学校でまゆらを見かけなかった。
俺達にしてみれば異常事態だ。わざわざスマホで連絡を取り合う必要もないほど、学校や町中で運命的な出会いを繰り返していたはずなのに、あの夜以降、それがぷつりと止んだ。
何度もメッセージを送った。
『風邪は治った?』『今、何してる?』『今日はお昼一緒にどう?』
返って来る返事はどれもそっけなかった。
『咳が止まらないから、学校には行けるけど伝染すかもしれない』『ごめんなさい先に宏美ちゃんと約束したの』『今日は食欲がないから』
そして次第に、返事すら来なくなった。
木曜、金曜もその調子でスルーされ、きわめつけが今日。
再びの月曜、四限目のスペイン語の講義に、まゆらは現れなかった。
完全に避けられている。そうとしか思えない。
そんなわけで、折角の木曜日、店が定休日なのにも関わらず何の予定もない俺は、大学から帰宅後、自分の部屋で死んでいる。
引き出しから中学時代に聞いていたUKロックのアルバムを引っ張り出して大音量で流しながら、ベッドに倒れ込んで歯ぎしりをする。
『運命の恋人と恋に落ちないための実証実験』を始めて一カ月余り。最近の俺は油断していた。
飴と鞭の高速切り替えは、出会った頃のまゆらの常套手段だったじゃないか。
ぎりぎりまで引き寄せてからの、まさかの手のひら返し。
俺の『運命の恋人』は、なかなか一筋縄ではいかない。
スマホをスクロールし、今までのまゆらとのLINEのやりとりを見返していると、勢いよくドアが開いた。
いつものように眼鏡姿の姉が入って来て、問答無用でコンポの電源を切る。
「ノックくらいしろよ」
「こんなに音量を上げてたら、どうせ聞こえないでしょ」
姉はわがもの顔でベッドにあぐらをかくと、A4サイズのスケッチブックを突き出した。
「式で被る花冠のデザイン、まだ決まってないのよね。手伝ってよ」
「俺、センスないよ」
「あたしより、花のことはよく知ってるでしょ。あんたの方が器用だもんね」
確かに、子供の頃から姉が店の手伝いをするときは、主に接客担当だった。器量と愛想だけは人一倍良い姉だが、こと花の世話となると致命的に不器用なのだ。
仕方なく起き上がり、姉が持って来た色鉛筆でデザイン画を描いてみる。
「あんた、壊滅的に絵心ないね」
「お互い様。姉ちゃんが描いてるこれ、何? 手袋?」
「アマリリスよ。目が腐ってるんじゃないの?」
いつものように憎まれ口を叩き合いながら、姉のスマホの衣装合わせのときの写真を頼りに、デザインを練って行く。
シンプルでタイトなマーメイドラインのドレスは、細身で長身の姉によく似合っていた。
花の種類は、エレガントな印象の胡蝶蘭やカサブランカ、時節柄白いポインセチアなんかもいいだろう。
「でも姉ちゃん、顔が派手だからな。花冠より、シンプルなティアラとかのほうがいいんじゃない?」
「花屋の娘が花冠を被らなくてどうするのよっ。小金持ちの商社マン達に、うちの店の魅力をアピールする絶好のチャンスでしょ?」
商魂 逞しいな。しかし目鼻立ちのはっきりした姉の顔まわりを、豪華な花で飾るのは賑やか過ぎる。
「輪っかにするのはやめて、ヘッドドレスにしたら? こうやって髪を横に流して、後ろだけゴージャスに生花で飾る感じで」
ウエディング用のヘアカタログをめくりながら、スケッチブックに色鉛筆を滑らせる。俺の手許を覗き込みながら、姉がぽつりと呟く。
「颯太、何かあった?」
「なんで?」
「別に。最近、いつもに増して顔がしょぼくれてるから」
うちの家族は見てないようで結構見ている。
昨日も母に、「客商売なのに辛気臭い顔してんじゃねーよ」と尻を蹴られた。しかしその後、部屋でレポートをしているときにコーヒーを持ってきてくれたので、一応気に掛けてはくれているようだ。
確かに落ち込んでいる。いや、腹が立っている。
俺を避け続けるまゆらにではなく、不甲斐ない自分に。
あの満月の夜、俺達は一線を越えた。勿論、指一本触れ合ってはいない。それでも今は、それ以上にふさわしい表現が思いつかない。
俺達が始めた『運命の恋人と恋に落ちないための実証実験』。
とっくに恋に落ちている俺と、絶対に恋に落ちたくないまゆらが『親友』を目指す、という冗談のような試みは、細い赤い糸の上を命綱無しに渡るように、危なっかしく、アンバランスで、常に危険と隣り合わせだった。
それでも何とか少しずつ、かろうじて進んでいた俺達は、あの夜、一緒に足を踏み外した。