⑤
まゆらの家には、すでに灯りがついていた。
「父が帰ってるみたい」
シャッターが閉まっているガレージに目をやりながら、まゆらはいつものように門に手をかける。
まだ離れがたい気持ちはあったけど、まゆらが暗い家に独りで帰ることにならずに済んで、ほっとしていた。
「颯太のパーカー、洗って返すわ。……少し濡れちゃったし」
涙を吸って湿っているはずの袖口を隠すように引っ張りながら、まゆらは恥ずかしそうに呟く。
「無理。今、返して。寒くて凍死しそう」
「肌寒いけど、そこまでじゃないでしょう」
「風邪をひいたらまゆらのせいだよ」
「……明日、元気で講義に遅刻してくるあなたの未来が視えているから、大丈夫よ」
「未来は繊細で、ほんの少しバランスを崩しただけで変わってしまう、って、まゆらが言ったんだよね」
引き下がらない俺を、まゆらは赤い顔で睨む。渋々パーカーを脱ぐと、目を伏せながら俺に返した。
ぬくもりが残るパーカーに袖を通す。いつもとは違う、バニラの香水の香り。全身が羽根でくすぐられたように、こそばゆい。
唇を引き締めて頬の緩みを抑えた。こんなときに限って、まゆらがじっと俺を見つめていたからだ。
いつもはすぐに門を閉めるまゆらが、今日はなぜか、柵を握り締めたまま、その場にとどまっていた。
「まゆらの方こそ、風邪ひくよ」
笑いながらそう言っても、まゆらは潤んだ瞳を俺に向けたまま、動こうとしない。
長い沈黙のあと、まゆらは小さな声で呟いた。
「ずっと、言わなきゃって思ってたんだけど……
ほんとは、知ってたの。誕生日のあの時間、お店の前で待っていたら颯太に会えるって」
「そうなの?」
知らないふりをしていてごめんなさい、とまゆらは律儀に頭を下げる。
よく考えれば、当たり前のことだ。気に病む必要なんかないのに、申し訳なさそうに小さくなっているまゆらが可愛かった。
じゃあ何で隠れたの、と笑うと、「待ち伏せしてるみたいで恥ずかしかったから……」頬を染めて呟く。
「颯太がお祝いしてくれることも、あのお店でメンチカツサンドを買うことも、それがすごく美味しいことも、本当は全部知ってた。でも、実際に食べてみるまで、あんなに美味しいなんて知らなかった」
あの夜、ジャングルジムのてっぺんで、サンドイッチを一口齧ったまゆらは、本当に驚いたように目を丸くしていた。
確かに、あれが演技だなんて思えない。
「じゃあ、ブーゲンビリアのコサージュのことも、最初から知ってた?」
「それは知らなかったわ。颯太があんなことするなんて、思わなかった」
「俺も思わなかったよ。《運命》も予想外だったんじゃないかな」
今更自分の気障な行動が恥ずかしくなって、むず痒くなった顎を掻いた。
「ありがとう。大切にする。ずっと……」
大げさだよ、と笑っても、まゆらは濡れたような瞳で俺を見上げるだけだった。
さっきと同じように、まゆらの唇が小さく動いた。白い息が切れ切れに洩れて、暗闇に溶けた。
今度は、本当に聞こえなかった。
目で問いかける俺に、まゆらは「『おやすみ』、って言ったの」と笑った。白い歯が見えた。
薔薇のアーチの向こうに消えていく背中を、いつものように見送った。
何度も立ち止まって振り返るまゆらに苦笑しながら、門を乗り越えて追いかけたい衝動と戦う。
俺達の実験はもう、完全に失敗している。
それは覆しようのない事実だった。
まゆらのぬくもりと残り香に包まれながら、アップテンポの鼓動をなだめるように、ゆっくり歩いて帰った。
なんてことのない満月が、生まれて初めて目にする天体のように尊く、神秘的に見えた。
手を伸ばせば掴めそうなのに、でも絶対に届かない。それはまゆらが憧れて、本気で目指して、でもついには届かなかったステージのようで、今更のように鼻の奥が熱くなって、胸が痛かった。
この夜、俺は大事なことを見落とした。
『実験に失敗した』。その事実が、俺達の明日にどんな影響をもたらすのか。
まゆらが別れ際に囁いた四文字が、本当は『おやすみ』ではなく、他の言葉だっということにも、気が付かなかった。
まゆらの三度目の『さよなら』は、俺の耳には届かなかった。
そしてこの夜を境に、今まで俺とまゆらの恋をアシストし続けていた運命は、唐突に俺に反旗をひるがえした。