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運命の恋人と恋に落ちないための俺と彼女の実証実験。  作者: 古矢永 塔子
緊急速報です。 実験の失敗により大規模な恋のハリケーンが巻き起こる恐れがあります。頬の火照りや、突発的な胸の痛みにご注意ください。
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 ∞ ∞ ∞ ∞


夕食の後片付けを終え、自分の部屋の机で、月曜日の一限目『英文学B』のテキストを広げる。

英和辞書片手に『ロミオとジュリエット』の和訳をノートに書き込みながら、何度も手が止まる。辞書の細かい字を追う目が滑る。


あきらめて、机の端に置いたスマホを引き寄せる。LINEにもメールにも、新着の通知は無し。


まゆらからの最後のメッセージは、今から三時間前の午後三時。

舞台が無事に終わったこと、花束を彼女が喜んでくれたこと、帰りは電車ではなく、タクシーに乗ること。

そんな内容が、まゆららしい簡潔な文章で綴られていた。


『もう家に着いたから。今日はありがとう』

ありがとう、のあとに、小さな星がきらめく絵文字がひとつ。

いつもは、何の飾り気もない電報みたいなメッセージを送って来るまゆらにすれば、珍しかった。


『大丈夫?』と返信すると、ウサギがウィンクをしているスタンプが送られてきた。絶対におかしい。もはや乗っ取りを疑うレベルだ。


意地っ張りなまゆらのことだ、きっと無理をしているに違いない。そう思って電話をかけても、まゆらは出なかった。一時間後にもう一度かけても繋がらず、家まで行ってみようかとも思ったが、それはさすがにやり過ぎな気がした。


壁の向こうからは、姉の怒鳴り声が聞こえる。あれからまた仁さんの帰国予定が延びたらしく、国際電話でもめているらしい。姉弟きょうだいそろって恋愛運が低迷中。


スマホを机の隅に追いやり、再びノートにシャープペンシルを走らせる。一行書いたところで、長めに伸ばしていた芯が折れた。余計な力が入っているせいか、その後も二度同じことをした。


生憎、替えの芯が一本もなかった。

舌打ち混じりに財布をつかみ、厚手のパーカーを羽織る。

玄関で靴ひもを結んでいると、目を赤くした姉が「コンビニに行くなら、のど飴買って来て」と顔を出した。

声が枯れていた。



商店街の文具店はとっくに閉まっている時間だ。駅前のコンビニに行くしかない。


外に出ると思ったよりも肌寒く、パーカーのフードを被ってうなじを覆った。

早足で歩きながら、横断歩道の信号で立ち止まるたびに、スニーカーの爪先でせわしなくアスファルトを叩く。

まゆらが俺の電話に出てくれないこと、つらいときに俺を必要としてくれないこと、特別な理由が無ければ会いに行けない《友達》という不自由な関係が、もどかしくてたまらなかった。


コンビニに入ると、レジではやる気なさげな茶髪の女の店員が、俺を見ることもなく爪をいじっていた。

シャープペンシルの芯を取り、薬用のトローチを探す。

下の段に薬のコーナーを見つけてしゃがみ込んだとき、フードごしに、自動ドアが開く音が聞こえた。もちろん、わざわざ顔を上げることなどしない。


黄色いパッケージのトローチを見つけて手を伸ばしたとき、視界の端に、しなやかな白い指が見えた。顔を上げた時にはもう、俺達の指先は触れ合っていた。

いつかの眩しい光が目の前でスパークする。無数のカラフルな映像が、ルーレットのように目まぐるしくまわり、頭がくらくらした。

きつく目を閉じて、幻を振り払う。瞼を上げる前から俺は、そこに誰がいるのかわかっていた。


『運命の恋人』とのベタ過ぎる再会。

昼間に会った時と同じ薄手のワンピースを着たまゆらが、呆然とした顔で俺を見つめていた。


「……家に帰ったんじゃなかったの?」


俺の問いかけに、まゆらはばつが悪そうに目を伏せた。その瞼が、泣き腫らしたように赤い。


「もしかして、今電車で帰って来たの?」


まゆらは何も答えない。悪戯がバレた子供のように俯いている。


「今まで、何してたの?」


「……カラオケ」


蚊が鳴くような小さな声は、別人のようにしゃがれていた。


「ひとりで?」


俺とは目を合わせずに、まゆらはかすかに頷いた。


「何時間歌ったの?」


「……質問ばっかりね」


舞台が終わった、と連絡が来たのが三時頃だったから、少なくとも五時間は独りで歌い続けたことになる。


「なんで電話に出ないの? なんで『家に帰った』なんて嘘ついたの? なんで、」


俺を頼ってくれないの?

駄目だとわかってるのに、責めるように問い詰めてしまう。

まゆらは、怒らないで、と小さな声で呟いた。


「颯太に、顔を見られたくなかったの……」


しゃがれた声に涙が混じるのがわかって、たまらない気持ちになった。


ペットボトルのアイスティーとトローチを買うまゆらに付き合ってから、コンビニを出た。


「お母さんは?」


「昔の同級生達と、ご飯を食べてから帰るって」


「なんで一緒に、」


行かなかったの、と言いかけて、言葉を呑んだ。そんなこと、少し考えればわかることだ。


「ママは行かないって言ってたけど、折角の久しぶりの再会だし、私もちょっと独りになりたい気分だったから」


いつもより無口になる俺とは反対に、今夜のまゆらは饒舌だった。

今日の舞台の演目や、ショーの構成や役者達の豪華な衣装、芝居のストーリーなんかを、弾んだ口調で話し続ける。

小手毬商店街のアーチ看板をくぐる頃には、まゆらの声は掠れていた。

一生懸命話してくれているのに申し訳ないけど、俺は他のことが気がかりで、まゆらの話がほとんど頭に入って来なかった。

シャッターが下りた薄暗い商店街に、まゆらのヒールの音が響く。それだけが、やけに耳についた。


坂を上り、あの公園の前まで通りかかったとき、それまで早口で話し続けていたまゆらが、急に口をつぐんだ。

口紅がはげた唇から、白い息が、ゆっくりと細く伸びる。


「舞台に立つ彼女、すごく眩しかったわ。綺麗だった。一緒にレッスンを受けていた頃とは別人みたいで……

――素敵だった」


遠くをみつめるまゆらの瞳は、街灯の光を受けて、プラネタリウムのように綺麗だった。


冬の始まりを感じさせるような冷たい風に、華奢な肩が震えた。

いつもは真っ直ぐに伸びている背中が、今夜は少し縮んでいる。


「大丈夫よ、寒くないから」 


パーカーのファスナーを下ろして脱ぎ始める俺を見て、まゆらが慌てたように背筋を伸ばす。 

それでも、まゆらの正面に回り込んで、厚手のスウエット地のパーカーで小さな体を包んだ。


「お願いだから、強がらないで」


どんな言葉をかけたら、まゆらが楽になるか。コンビニからここまで、ずっとそれだけを考えて歩いていたのに、結局そんなことしか言えなかった。


長い睫毛で縁取られたまゆらの瞳は、透明な膜で覆われていた。限界まで水を満たしたグラスのように、かすかな振動だけで雫がこぼれ落ちそうだった。

まゆらは唇を薄く開いたまま、身じろぎもせずに俺を見つめていた。


パーカーのファスナーを持ち、ドレスの生地を巻き込まないように気を付けながら、慎重に上げていく。胸元のブーゲンビリアのコサージュは、瑞々しさを失くして萎れていた。


一番上までファスナーを上げたときだった。

手の甲に熱い雫が落下して、弾けた。


声をもらすまいとして、唇を噛んで震えるまゆらを見て、パーカーに触れている手を、衝動的に自分の方に引き寄せたくなる。


「……平気だって、思ったの。ちゃんと、祝福できると思ってた。

舞台の上の彼女は――歌もダンスも、演技も、何もかもが、昔とはまるで違ってて。きっとすごく、ものすごく努力したんだなって、思って……。だけど私には、もう、努力することすら許されなくて」


音楽学校の試験を受けることができるのは、中学三年生から高校三年生の女の子。

最大でも、チャンスは四回だけ。


「私には 絶対に手が届かない世界の中で、輝いてる彼女を見ていたら、どんどん心が真っ黒になって、苦しくて……羨ましくて、妬ましくて、たまらなくて。

でもそんなこと、ママにも、誰にも、絶対に気付かれたくなくて――」


まゆらの声は、掠れて、囁くように弱々しいはずなのに、俺にはそれが、悲鳴のように聞こえた。


長い睫毛も、赤く腫れた瞼も、これ以上は決して涙をこぼすまいとするように、震えていた。


ファスナーの小さな金具から手を離して、まゆらのうなじの方にまわした。

怯えたように、まゆらが体を強張らせる。今夜も俺は、五十センチのルールを破る。

パーカーのフードを掴んで、小さな頭にかぶせる。形の良い鼻先と、小ぶりな唇以外がすっぽりと隠れた。


「我慢しないで。これでもう、誰にも見えない。……俺にも」


まゆらのは一度だけ、小さくしゃくり上げた。それを合図にしたかのように、静かに、声を殺して泣き始めた。

パーカーの長すぎる袖で、口を押さえながら嗚咽する姿を、ただ見つめることしかできなかった。


本当は抱き締めたくてたまらなかった。

今ならきっと、まゆらは抵抗しない。

それでも、萎れそうになりながらも必死に地面に足を下ろしているまゆらに、そんなことをするのは間違っている気がした。


動きそうになる手を、いつものようにジーンズのポケットに押し込む。多分今夜の俺は、一生分の我慢を使い果たしたと思う。






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