②
「ありがとう。……もう行かなきゃ」
素っ気ない口調で目を逸らすのは、照れているときの癖。
花束とクラッチバッグを抱えるまゆらのために、手を伸ばしてドアを押す。
「お母さんは?」
「もうそろそろ、来る頃だと思うわ。いつも支度が遅いの。今日は私、ブーケのために先に家を出たから……」
まゆらの言葉に被さるようにして、ハイヒールの靴音が急ピッチで近付いて来る。
商店街の大通りを、栗色の髪の女性が走って来るのが見えた。
「ごめんね、スーツとどっちにしようか迷っちゃって」
かなりのスピードで駆けて来たのにも関わらず、息ひとつ乱れていない。
体のラインに沿った黒いワンピースは、胸と袖の部分がレースになっていて、シックなデザインなのに人目を惹く。通りすがりのサラリーマンがすれ違いざまに二度見していた。
「やだ、こうして並ぶと、なんだかまゆらとペアルックみたいね。娘と張り合ってるみたいで痛々しいかしら……。やっぱりママ、スーツに着替えて来る!」
「電車に遅れるわよ」
今にも回れ右をして引き返そうとするその人を、まゆらが冷静に制止する。
さびれた商店街には似つかわしくない、美しい母娘だった。切れ長で吊り上った大きな目も、真っ直ぐに筋が通った完璧な鼻も、まゆらにそっくりだ。
「ねぇ、この服、どう思う?」
気さくに話しかけられて、思わず「すっ素敵です」とどもってしまった。目が潰れそうに眩しい笑顔で「ありがとう」と返され、さらにうろたえる。
俺の隣でまゆらが溜息をつく。
「ごめんね、いつもこうなの」
同じ顔なのにキャラクターが違い過ぎて戸惑いしかない。
まゆらが荒野に咲く薔薇の花だとしたら、お母さんのすみれさんは、ゼラニウムやダリア、その他のいろいろな花を依り集めた、賑やかで可愛らしいブーケのような人だった。
「あら、素敵なブーケじゃない。オーロラ姫が森で摘んできたみたい。シンプルで、ロマンティックね」
すみれさんはブーケに目を輝かせてから、俺と店の看板を交互に見た。
「フラワーショップ、たちばな。……たちばな? やだ、もしかしてあなた、《たちばなそうた》君?」
「そうですけど……すみません、以前にお会いしましたっけ?」
こんなに圧倒的なオーラを放つ美人を、一度でも見かけたら忘れるはずがない。頭の中の顧客リストを必死にめくる俺に、すみれさんは頬を紅潮させながら、首を横に振った。
「ううん、今日が初対面よ。でも、ずっとあなたに会いたかったの。なかなか現れないから、もう会えないかと思ったわ」
やけに聞き覚えがある台詞だ。
これと似たようなセリフを初対面の女の子に口にして、『いい加減にして!』と一刀両断に切り捨てられた憐れな男の話を聞いたことがある。
横目でまゆらを見ると、きまりが悪そうに視線を逸らされた。
できれば今の言葉は、初対面の時に君の口から聞きたかった。
すみれさんは、取り立てて特徴もない俺の顔を、瞳を輝かせて覗き込む。
「うんうん、素敵じゃない。優しそうだし、浮気の心配もなさそうね」
それは褒め言葉じゃないな。
複雑な気分の俺の横で、まゆらが冷たい声で「そうでもないわよ」と呟く。聞き捨てならない。
「颯太君、随分背が高いけど、スポーツでもしてたのかしら?」
「家の手伝いがあるので、部活はやってませんでした」
「あら、意外ね。細いように見えて、肩にも腕にもしっかり筋肉がついてるのに」
「花屋も結構力仕事なんで……、すみません、ちょっと距離感が」
無邪気にシャツの上から体を撫でまわしてくるすみれさんに、緊張を通り越して思わず後ずさってしまう。
「やだわ、そんな他人行儀なこと言って。お義母さん、て呼んでくれていいのよ?」
「お、お義母さん……?」
「ママ、いい加減にして! 颯太も素直に呼ばなくていいから!」
まゆらは険しい顔で怒鳴ると、すみれさんを俺から引き剥がした。
駅に向かう道を、まゆらに背中を押されて歩きながらすみれさんは肩越しに俺を振り向く。
「颯太君、今度ゆっくりお話しましょうね」
本当に、花のように笑う人だ。身長はまゆらより少し高いだけなのに、圧倒的な存在感のせいか実際よりも大きく見える。あれが『スターの輝き』というものなのだろうか。
小さくなっていくふたりの姿を見送る。親子そろって、歩く姿までもが完璧に美しい。寂れた商店街がパリコレのランウェイのようだ。
「まゆら!」
思いきって名前を呼ぶと、まゆらとすみれさんが同時に振り返る。子供の頃から馴れ親しんでいる、小手鞠商店街の皆様方まで。
でも今は、野次馬の視線に怯んでいる場合じゃない。
「舞台が終わって駅に着いたら連絡して。電話でもLINEでも、何でもいい。──待ってるから」
眼鏡をかけていないので、まゆらの表情までは見えなかった。それでも、きっといつものように、ぎゅっと唇を噛んで頷いてくれたような気がする。
商店街のおじさんやおばさんの生あたたかい目には気付かないふりをして、まゆらの小さな背中が完全に見えなくなるまで、店の外に立っていた。
すみれさんが明るくて頼もしそうな人で、少しだけ安心した。独りで戦場に乗り込むまゆらを想像すると、心配で店番どころじゃなくなりそうだった。
二人の背中が曲がり角に消えて数分後、同じ角から、興奮した面持ちの陽二さんが走って来る。
おそらく、宝膳寺町にある行きつけのスナックからの朝帰りだろう。まだ酒が抜けていないのか、やけに足取りが軽かった。
「おい颯太! さっきそこの角で、坂の上に越してきた美人親子に会ったぞ! 噂通りの別嬪だったなぁ。ありゃあ、母と娘のどっちかを選べって言われても、俺には無理だな」
どこから目線の発言なのかは謎だが、選ぶ機会が来るとは思えないし、選ばせるつもりはない。
「無駄口を叩いてないで、早く帰って店を開けなよ。また静さんにアンクル・ホールド決められるよ」
ここの酒屋は夫婦喧嘩にとどまらず、親子喧嘩も凄惨なのだ。
「少しくらい余韻に浸らせろよ。高値の花、ってやつだな。いやぁ、眼福、眼福」
上機嫌に呟く陽二さんを無視して、店番に戻る。
高嶺の花。そうかもしれない。
でも、世界最高峰のエベレストだろうがマッキンリーだろうが、頂上にあの笑顔が咲いているなら、俺は怯まずに前に進めそうな気がする。
そんなことを思う自分に驚きながら、スマホの着信音の音量を最大まで上げ、エプロンに戻した。