①
「不思議……。本当にチョコレートの香りがする」
まゆらが顔を寄せているのは、昨日仕入れたばかりのチョコレート・コスモス。
「その赤い方がストロベリー・ショコラで、オレンジっぽいのがキャラメル・ショコラ。最近人気で、よく出てるね」
「なんだか、フローリストじゃなくてショコラティエみたいね」
そう言ってまゆらは笑う。
土曜の朝、開店直後ということもあり、店には俺達しかいない。
不動産会社に勤める父は仕事、母と姉は結婚式の衣装合わせに行っている。
自分が日常を過ごす場所に、今日はまゆらがいる。それだけで、まるで自分の部屋に招き入れたかのように緊張する。
まゆらが店のあちこちに視線をやるたびに、照れくささで背中のあたりがむず痒くなる。
昨日学校で会ったばかりでも、休日の土曜にこんなふうに顔が見られるのは、やっぱり特別に嬉しい。
それに今日のまゆらは、いつもに増して綺麗だった。
薄く化粧をして、木苺みたいな赤い唇は、地の色よりもくすんだローズ色に塗られている。
膝小僧が見える丈の、Aラインの紺色のワンピース。胸元と袖がシースルーの素材になっていて、そこから透ける白い肌に視線が吸い寄せられそうになる。
「結婚式にでも行くの?」
まゆらは首を横に振ると、隣の県にある大きなコンサートホールの名前を口にした。
「昔一緒に受験した子の舞台に、招待されてるの」
その浮かない顔つきで、例の歌劇団の公演なのだということがわかった。そういえば『チケット絶賛発売中』のCMを観た気がする。
「行くの?」
「子供の頃から、ずっと一緒に母のレッスンを受けてきた子なの。だから今までも何度か、母と私の分のチケットを送ってきてくれていたんだけど……なかなか、行く気になれなくて」
当たり前だ。彼女は試験に合格し、まゆらは落ちた。
見ず知らずの彼女の真意など知る由もないが、恩師であるまゆらのお母さんを招待するのはいいとしても、まゆらまで誘うのは無神経だと思う。
「行くのやめたら?」
考えるよりも早く口が動いていた。
「予定変更して、映画にでも行かない? それか、天気がいいから公園でバドミントンとか」
「でも、颯太がいなくなったらお店が困るでしょう」
まゆらは、悪戯をする生徒をたしなめるような顔をする。でも、瞳の奥が少しだけ笑っていた。
「行くわ。行って、ちゃんと打ちのめされて来る。そうしないと、前に進めないから」
くすんだ色の秋の花の中に、一輪だけ咲いた真っ赤な薔薇みたいに、まゆらは凛とした表情で俺を見上げる。
「子供の頃からの夢には手が届かないことを思い知って、新しい他の夢を探さなきゃって思ってた。だから必死に受験勉強に打ち込んで、うちの学校に合格したときは嬉しかったけど……でも、それでもまだ、あきらめきれなかった。
自分には届かない世界を見上げ続けてた。
ちゃんと地面に踵をつけて、今自分がいる場所を確かめないと。そう思えたのは、颯太のおかげ」
「俺はそんなに……」
そんなに凄い奴じゃない。
まゆらは俺を買い被り過ぎている。あの誕生日の夜の俺の言葉が、どんなふうにまゆらの背中を押したのかわからないけど、俺はまゆらに、わざわざ傷つくような場所に足を踏み入れて欲しくない。
「颯太にブーケを作って欲しいの。とびきり綺麗なピンクのグラジオラスで」
南アフリカ原産の秋咲きグラジオラス。ピンクの花言葉は、『たゆまぬ努力』。
かつてのライバルの努力を讃える気高さに、それ以上引き留めることはできなかった。
ずっと見られていると緊張する、と俺が言うと、まゆらは拗ねたような顔をして、店の中を歩き回った。
俺が作業をしているあいだ、振り向いて花の名前を尋ねたり、顔を寄せて香りを楽しんだりしている。
色とりどりのグラジオラスの中から、フラミンゴの羽根のように鮮やかなローズ・チャームという品種を選ぶ。
花の手入れや仕入れ、接客に関しては、子供の頃から母に仕込まれている。でもブーケ作りで最も大切なのは、経験よりもセンスだ。そこに関しては、あまり自信がない。
でも今回ばかりは絶対に失敗したくない。
グラジオラスを引き立てるように、いくつか他の花を合わせてみた。どうもしっくりこない。
しばらく迷って、結局全部やめた。
まゆらのストレートなメッセージが伝わるように、使うのはグラジオラスの花とつぼみだけ。
つぼみの茎を長めに、花の茎を短めにカットして、真っ直ぐに空に向かって伸びる様子をイメージした、縦長のブーケにした。
根元の部分を専用のペーパーで包んで保水処理をし、その部分を隠すように、幅の広い白いリボンでぐるぐる巻きにする。茎の半分の高さまで巻き上げて、最後は大きな蝶々結びにした。
いつのまにかまゆらがすぐそばで、俺の手許を覗き込んでいた。
「すごく素敵……」
「ほんとは根元が切りっぱなしのクラッチブーケにしたかったんだけど、保ちがいまいちだから」
「ありがとう。颯太に頼んでよかった」
背の高いグラジオラスを抱いて微笑むまゆらは、まるで小さな女の子のようだった。
正規の料金を支払いたいからビタ一文まけないで欲しい、と意固地なことを言うまゆらから、仕方なくお札を受け取ってレジを開ける。
お釣りを数える間にも、『ちゃんと打ちのめされて来る』という言葉を思い出して、不安で胸がざわついた。
「まゆらがうちの店番をして、俺が花束だけを配達してくるっていうのはどうかな?」
「無茶言わないで」
「バイト代なら出すよ。高くはないけど」
「そんなに心配しないで。このブーケに十分勇気をもらってるから、大丈夫」
頑固で律儀で、意地っ張りで勇敢な俺の運命の恋人――もとい親友は、俺の言うことなんかちっとも聞いてくれない。
「まゆら、まだ時間ある?」
「あと少しなら大丈夫」
電気ポットのお湯とティーバッグで紅茶を淹れ、店の奥から折り畳み式の椅子を出す。
まゆらが紅茶を飲んでいる隙に、バッグヤードに目的の花を持ち込んで、急いで作業を開始した。
「颯太、私、そろそろ行かなきゃ……」
紅茶を飲み終えたまゆらが、遠慮がちに顔をのぞかせる。その視線が俺の手許で固まった。
「そのワンピース、ピンとかつけても平気?」
「それは、かまわないけど……」
赤いブーゲンビリアの小さなコサージュ。ワイヤーとテープを巻いてピンを付けただけの簡単なものだ。
「ちゃんと水揚げしてないから、萎れたらごめん」
まゆらはぎゅっと唇を噛んで、険しい顔でコサージュを見つめている。
これは……外したのか? 確かに、リボンやビーズの飾りもなく、ドレスアップしたまゆらの胸許を飾るのには貧相かもしれない。
「ごめん、迷惑だった?」
「そんなわけない。嬉しいけど、困るの。颯太のそういうところ……すごく困る」
目を伏せて早口で言う彼女の顔が、いつものように赤く色づいていくのを見て、すごくほっとした。
小柄なまゆらに合わせて体をかがめる。特別な気持ちを込めて作ったコサージュを、できれば自分の手で付けたかった。
一歩間違えればドン引きされてしまいそうなほど、気障なことをしている自覚はあった。
普段は慎重派の俺にしては珍しい。
今まで恋愛に関しては、いつも傷つかない方ばかり選んでいた。
不意に声が聞きたくなって、電話をしようか迷ったら、しない方を選ぶ。デートの誘いにしても同じだ。
彼女に疑わしい行動があっても、見て見ぬふりで追及しない。別れ話をされたら素直に受け入れる。
草食系といえば聞こえがいいが、単に消極的で待ちの姿勢だっただけだ。
でもまゆらに関しては、頭で考えるよりも先に行動に移していることの方が多い。
あまのじゃくで意地っ張りな運命の恋人に、俺は少しずつ、今まで知らなかった自分を引き出されている。
「まゆら、ここでいい?」
コサージュを胸元に寄せ、すぐ近くにある小さな耳にたずねる。
くすぐったかったのか、華奢な肩が大きく跳ねた。真っ直ぐな髪が揺れて、いつもとは違う、甘いバニラの香りがした。
「耳元で囁かないで!」
「ごめん」
毛を逆立てた猫のように鼻の頭に皺を寄せる顔を、久しぶりに見た。謝りながらも噴き出してしまう俺を、まゆらは真っ赤な顔で睨む。
まゆらは緊張したように体を強張らせたけど、恥ずかしそうに顔を横に向けて、じっとしていた。
手がまゆらの体に触れないように、針がまゆらの肌に触れないように気を付けながら、ピンを留めた。
「颯太、ブーゲンビリアの花言葉、知ってるの?」
「いや? 花屋の息子だけど、そういうのに疎いんだよね」
素知らぬ顔で嘘をつきながら、まゆらの左胸の花びらを整えた。
まゆらは、探るような上目遣いでしばらく俺を見ていたけど、やがてあきらめたように、グラジオラスの花束を抱え直した。