②
ドアが閉まる直前のサブローの横顔。切ない恋に身を焦がす男の顔だった。
式まで、あと二か月。こんな状況になってもまだ姉をあきらめないサブローの男気を目の当たりにして、怖気づいて踏みとどまっている自分が情けなくなる。
俺はこのままでいいのだろうか。
まゆらとの実験を始めてから、一カ月が過ぎた。
俺達の関係は、表面上は親友。
初めのころに比べて俺は、涼しい顔で本心を隠すのが上手くなった。そんな俺の横で、まゆらは少しずつ警戒心をほどいている。
まゆらの無防備な表情を見るたびに、人畜無害な羊の仮面の下で、思いが募る一方だ。
でも、好きになればなるほど慎重になる。
絶対に失敗するわけにはいかない。今はかろうじてまゆらの隣りにある俺の居場所を、絶対に失いたくないから。
何の障害もない運命の恋人同士が、あえて設けたおかしなルール。『恋に落ちたら絶交』。
でもそろそろ俺も覚悟を決めて、まゆらに真相を尋ねるべきなのかもしれない。
まゆらだけしか知らない真実。
俺達が恋に落ちたら、未来にどんなに不都合が待ち受けているのか──
悶々としていると、店の奥の冷蔵庫にいた母が出て来る。
「今日あたしと謙ちゃん、『誠』で同窓会だからな」
父は残業で、あとから合流するらしい。
同窓会とはいっても、父も母も昔の仲間たちも、ほぼこの商店街の周辺に住んでいて、毎日のように顔を合わせている。
今でいう、地元愛に溢れた元マイルドヤンキーというやつで、月に二回は陽二さんの店で飲んだくれている。
母が出かけたあと、二階に上がってキッチンの戸棚を漁った。
カップラーメンのストックは切れていた。自分のためだけに料理を作る気にはなれず、仕方なく外に出る。
裏口から正面にまわり、表通りに出ると、シャッターの前に小さな人影が見える。
俺の気配に気づいた途端、悪戯が見つかった猫のような素早さで電信柱の影に逃げる。
「なんで隠れるの」
近付いて覗き込むと、まゆらは気恥ずかしそうに目を逸らした。
「宏美ちゃんと、宝善寺町に映画を観に行って……その帰りなの」
何の映画? と尋ねると、ゾンビがたくさん登場するシリーズ物のパニック・ムービーだった。意外だ。
「夕飯は食べた? まだなら一緒にどう?」
今ならまだ間に合うと思う、と言うと、まゆらは黙って頷いた。
商店街の中ほどにある、精肉店『つかもと』。
まゆらと到着したときには、タイムセールを目当てにした客で五人ほどの列ができていた。
俺達が最後の二人。そして偶然にも、一番人気の特製メンチカツがラスト二個。
厚切りパン、ウスターソースとマスタード有り有り。子供の頃から繰り返し口にしたオーダー。
塚本の奥さんは慣れた手つきで食パンにマスタードを塗り、メンチカツと大量のキャベツを乗せ、豪快にウスターソースをまわしかけた。
ふたつ折りにしたパンを紙でくるみ、同じものをもうひとつ作る。
つかもと名物特製メンチカツサンドを俺とまゆらに差し出しながら、奥さんは大きな口をにっと上向きにして「彼女?」と尋ねる。
言葉を濁して曖昧に笑う俺に対し、まゆらは無言だった。きっぱりと否定しそうなものなのに、意外だった。
商店街を歩きながら、途中何度も「おっ颯太、綺麗な姉ちゃん連れてるなぁ」とか「あら颯ちゃん、また背が伸びたんじゃない?」等々、店じまいに忙しい商店街の皆様に話しかけられた。
「颯太って有名人だったのね」
「この商店街限定でね。みんな親戚みたいなものだから」
そんなことを話しながら、外灯に照らされた坂道を登る。
坂の途中にあるのは、子供の頃から何度も通った公園。古びたブランコとシーソー、三角屋根の滑り台。
中央にあるジャングルジムによじ登ると、まゆらはスカートの裾を気にしながら、軽やかな身のこなしで付いて来た。
てっぺんに並んで座る頃には、すっかり日が落ちていた。
ソースが染みたメンチカツサンドに齧りつく。
まゆらが目を見開いて、「美味しい……」と呟いた。
「商店街の裏グルメなんだよね。昔は『つかもと』の隣に惣菜屋があって、そこのポテサラも一緒に挟んで食べるのが好きだったんだけど」
五年ほど前に店を閉めた柴田のおばあちゃんは、今は東京にいる息子さん夫婦のところに引っ越してしまった。
このジャングルジムから、坂の下の小さな商店街が一望できる。
数年前に比べると、随分明かりが減った。
客足が悪く店を閉めたり、都会に引っ越したり。
子供の頃は賑やかだったのに、三分の一はシャッターを閉め切ったままで、慣れ親しんだ笑顔も消えた。
きっと十年後には、今の灯りの数は半分になる。
日本中に数多くある、古き良き商店街。
俺が生まれた町。
「颯太は将来、ご両親のお店を継ぐつもりはないの? 継いで欲しいって、言われたりしないの?」
「それはないかな。ばあちゃんの店を母さんが受け継いで、今まで何とかやって来たけど……そろそろ潮時なんだ。父さんの不動産屋の給料を合わせて、なんとか暮らしていけるって感じ。だから俺は、土日祝日が休みで残業少なめのところに就職して、空いた時間で店の手伝いができればいいかなって思ってる」
まゆらは、静かに俺の話に耳を傾けていた。
志が低いとか、やる気がないとか、もっと高みを目指すべきだとか怒られると思ったのに、意外だった。
まゆらは長い睫毛を下に向けて、スカートから伸びるブーツの爪先を見つめていた。
「今日、宏美ちゃんとも話してたんだけど……颯太って、いろいろなことに関して、すごくフラットよね。自然体って言うのかしら」
けなされているわけではなさそうだが、褒められているかは微妙だ。
サンドイッチを食べた後の口許をハンカチで拭うまゆらは、萎れたパンジーみたいだった。いつもより格段に元気がない。
「颯太は、劣等感とか嫉妬とか、周りに流されて自分が変わってしまう恐怖とか、両親の期待に応えられない焦りとか……そういうものに縛られてない気がする」
「買い被りだよ。何も考えずに、なんとなく生きてるだけだよ」
そんなことない、と呟いて、まゆらは俺にハンカチを渡す。
反射的に受け取ったはいいものの、可愛らしい黒猫柄を汚すのはしのびなくて、こっそり自分のエプロンで手を拭いてから返した。そういえば店のエプロンを付けたままだった。
「私ね、昔の宏美ちゃんのこと、知ってたの。六年間違うクラスだったから、話したこともなかったけど。小さくて、おとなしくて、私と同じでいつも独りで──今と雰囲気が違い過ぎて、卒業アルバムを見るまで思い出せなかったけど」
意外過ぎる。そんな住谷さんは、想像できない。
「宏美ちゃんのご両親、中学校の先生なの。子供の頃からずっと、規律正しく真面目に、期待に応えられるようにって生きて来たけど……高校のときに今の彼に出会って、やっとありのままの自分になれた、って言ってた。良い子じゃなくても愛してくれる人に、やっと巡り会えたって。
本当は宏美ちゃん、彼と同じ服飾系の専門学校に行きたかったんだけど、お家の人に大反対されてうちの学校にしたみたい。両親を悲しませたくないけど、本当の自分も殺したくないって、すごく葛藤してるの。
だから、『自然体の橘君が羨ましい』って言ってたわ」
住谷さんにそんな事情が。しかし、そんな打ち明け話をするほど二人が距離を縮めているとは思わなかった。
俺の気持ちを読んだかのように、まゆらは小さな声で呟いた。
「私も同じだから、わかるの。私の場合は、宏美ちゃんとは反対なんだけど……、ずっと期待に応えたくて、でもどうしても応えられなかった。
颯太、『真愛菫』って、聞いたことない?」
ままな、すみれ。一般人の名前とは思えない煌びやかさだ。
しかし妙に聞き覚えのある名前だ。
そうだ、商店街のおばちゃん達の噂話で聞いたことがある。
大河ドラマに出たことがある女優が、この近くに引っ越して来たって。
「母なの。下の名前だけが本名で、今は宝生すみれ」
かつてまゆらが目指していた女性歌劇団の娘役トップスター。それがまゆらのお母さんなのだと言う。
「劇団を退団して、テレビドラマにいくつか出るようなった頃に、私がお腹にいることがわかって、父と結婚したの。今は芸能界を引退して、教える側にまわっているわ。
若い頃のママの舞台を、DVDで繰り返し観たわ。台詞も歌も、ダンスの振り付けも、ちょっとした仕草や癖まで全部覚えてる。
小さい頃から、いつもママの真似ばかりしてた。いつか、ママみたいなスターになりたいと思ってた。ママの娘なんだから、頑張れば絶対に叶うと思ってたわ」
そう言ってまゆらは微笑んだ。分刻みで濃くなっていく闇に、そのまま溶けて消えてしまいそうなほど、儚い微笑みだった。
「だけど私は、ママの才能を受け継がなかったのよね。四回受験したけど、四回とも不合格。
誤解しないでね、ママは指導者としても完璧だったわ。現に、一緒にレッスンを受けていた子が何人も合格して、今は舞台で活躍してる。
……どんな気持ちなのかしら。娘よりも才能がある生徒を育てるって」
まゆらは、首をねじって後ろを振り返る。
坂のてっぺんにそびえる豪邸には、いくつもの窓に、玉子色の灯りがともっていた。
「天性の才能のことを、英語では『ギフト』って言って、誰もが神様からひとつだけもらって生まれてくるって言われてるけど……サンタクロースのようには、リクエストを聞いてくれないのよね」
まゆらの才能は、自分の未来が視えること。それこそが唯一無二の、類稀なる才能だと思うけど、本人はそれを望んでいない。
「まゆら才能が予知能力なら、俺の才能は《運命の恋人》を認識する力、てところかな」
空々しいほどの明るい声で言うと、まゆらはちょっと顔を赤くして反論した。
「……そういうことになるわね。でも今は親友を目指してるわけで、」
「わかってるよ。でも俺も、まゆらと同じで他の才能の方がよかったな。なんだか損した気分」
「どうして?」
「そんな才能なんかなくても、俺はまゆらに出会いさえすれは、すぐにわかったと思う。この子は俺の特別な子だって」
思いのままに口にした台詞は、予想外にまゆらに刺さったらしく、小さな顔がますます赤くなる。
「実験、続ける気あるの? 颯太の才能は、そんなふうに不意打ちで女の子をたぶらかすことなんじゃないの?」
「それはどう考えてもサブローの才能だよ」
「そうかしら。佐々木君て、女の子に関しては、颯太よりもずっと真面目だと思うけど」
「……まゆら、いくら今世紀最大の美形が相手だからって、目が曇り過ぎてるよ」
「そうかもしれないけど、そういうことを自分で言うのは感心しないわ。自惚れ屋だと思われるわよ。颯太は、『謙遜』って言葉の意味を噛み締めた方が良いわね」
「俺のことじゃないよ!」
だめだ、会話が噛み合わない。この可哀想な女の子の目には、俺が世界一魅力的で完璧な男に見えているようだ。悪い魔女に呪いをかけられたのかもしれない。
だけど君は俺にとって、魔女よりも危険な女の子。
あまのじゃくな態度と、素直すぎる可愛い言動で、俺の心をめちゃくちゃに掻き乱す。
長い睫毛をまたたかせるだけで、大学の講義室のいつもの椅子を、公園の古びたジャングルジムを、世界最恐のジェットコースターのシートに変える。
F1マシン並みの速度で急上昇、直角落下の途中で270度ひねりのエンドレス。
はっきり言って身がもたない。心臓に悪い。でもたとえ、寿命が十年縮まったとしても
俺は君と──ずっと、一緒にいたい。