⑤
駅から銀杏並木を抜けて、鹿爪町、宝膳寺町を歩いて、小手鞠町に入る。俺が生まれた育った小さな町は、茜色に染まっていた。
「ここが、俺の小学校」
何気なく指さすと、彼女は足を止めた。わざわざ身を乗り出し、興味深そうに見つめている。
子供の数が減ったこともあり、三年後には隣の学区の小学校に統合されることが決まっている。
老朽化が進んだ校舎は、使い込んだ消しゴムのように、ところどころ汚れが染みついている。
グラウンドでは、野球のユニフォームを着た子供達が、土埃をたてながらノックの練習をしている。
校門のところにいる集団は、居残り組か、学童から帰る子供達だろうか。
あの道を、サブローと一緒に、開けっぱなしのランドセルの蓋を翻しながら、数えきれないほど走った。その頃から、俺の心の中にはいつも《彼女》がいた。
白い横顔が夕陽に染まる様子を見つめながら、今隣にいられる奇跡に、胸が締め付けられる。
そんな俺を、彼女は不思議そうな顔で見上げる。
感傷的になった自分が恥ずかしくて、慌てて笑ってごまかした。
「宝生さんは、小学校の頃はどんな子だった?」
「別に、今とそれほど変わらないわ。勉強よりも、音楽と体育が好きだった」
「住谷さんは?」
「あまり覚えてないの。同じクラスになったことがないせいかしら……」
「小学校のときの君の話、少しだけ聞いたんだ。いつも独りで行動してた、って」
彼女の顔が少し曇る。
住谷さんから彼女の話を聞いたときは、人と慣れ合うのが嫌いな女の子なんだと思っていた。
でもそんなイメージは、彼女を知れば知るほど覆っていく。
俺が知る彼女は、馬鹿みたいに真面目で、意地っ張りで、不器用で──そしてきっと、寂しがり屋。
学校で俺を見つけたとき、一瞬だけ瞳に踊る嬉しそうな色も、俺の隣に座った瞬間、強張っていた肩から安心したように力が抜けるところも。彼女の家の前で「また明日」と言うときの表情も。
そんな彼女が、自から好んで人を避けていたとは思えない。
しばらく彼女は黙って俺を見つめていた。
ブーツの踵が一度だけ鳴る。一直線の彼女の前髪が、二十センチの距離まで近づく。
『半径五十センチ以内には近づかない』。
そのルールを、彼女が自分から破ったのは、初めてだった。
「橘君、ちょっと片手を挙げてみて。そう、……もうちょっと高く。少し指を曲げて?」
素直に言うとおりにする俺の右手に、彼女の冷たい指が一瞬だけ触れる。
心臓が大きく跳ねた。同時に、鋭い光に目がくらんだ。
白い光の向こうに、スナップ写真を無数に散りばめたような残像が見える。
瞳を突き刺すような眩しさに、絞るように瞼を閉じてから、再び目を開ける。光も残像も幻のように消えていた。
「どうかした?」
真っ直ぐなボブヘアを揺らして、彼女が俺を見上げる。どうやら、光が見えたのは俺だけらしい。
でもさらに不思議なことが起こったのは、その数秒後だった。
透き通った秋の空を突き抜けるような、爽快な音が響く。ほぼ同時に、凄まじいスピードの何かが、俺と彼女に向かって一直線に飛んでくる。
咄嗟に庇おうとする俺に、彼女は鋭い声で「動かないで!」と叫んだ。
彼女の指示通り固まった俺の右手に、吸い込まれるように飛び込んできた硬球。
かろうじてキャッチしたものの、手のひらがジンジンと熱い。
丸坊主の少年が、バッドを片手に慌てて駆けて来る。すみません、と頭を下げる礼儀正しい少年に、引きつった笑顔でボールを返した。
恨めしい気持ちで彼女を見た。ボールの縫い目が付いた手のひらは痛いし、もし少しでも軌道がずれていたら、彼女に当たるところだった。
未来が予知できていたのなら、俺にキャッチさせるよりも、二人でこの場を離れたほうが安全だったんじゃないだろうか。
そんな俺の心を読んだかのように、彼女は静かに言う。
「もし橘君がキャッチしなかったら、ボールは彼女達に当たっていたわ」
彼女の視線をたどって振り返ると、ベビーカーを押す若い母親と、うさぎの着ぐるみのような可愛らしい服を着た二歳くらいの女の子が歩いていた。
「ちなみに、彼女達を避難させていたら、ボールは地面に当たってバウンドして、あの赤い屋根の家の一階の窓ガラスを破っていたと思うわ。もしそうなっていたら、日本が世界に誇る才能が摘み取られるところだったわ」
……何を言っているのかわからない。混乱する俺に、彼女は事も無げに言う。
「さっきの男の子、十年後のメジャーリーガーよ」
「嘘だろ!?」
立ち上がって辺りを見回したけど、未来のスター選手の姿はどこにもなかった。すでに同じように汚れたユニフォームの少年に紛れて判別不能だ。
茫然とする俺を、彼女は猫のような目でじっと見つめる。
「こういうことよ。私と一緒にいると、こういうことになるの」
──いや、全然わからない。
彼女が言うには、未来を教えてくれる《声》は、精度の高い『今日の星占い』のようなものなのだという。
「じゃあ、朝の情報番組の占いコーナーみたいな声が、四六時中聞こえてるってこと?」
『今日のあなたの運勢は星三つ! 小学校の前を歩くときは、未来のメジャーリーガーからの流れ球に注意』のような? それは、なかなか厄介だ。
「説明するのは難しいけど、大体当たってるわ。あなたが言うように、わかりやすく言語化されたものじゃないけど……直接意識に接触してくる感じ、って言えばいいのかしら。でも予知できる範囲は、私の半径数メートル以内。もしくは、私と関わりが深い極少数の人物の未来に限られているの。
そして聞こえてくるのは、無数に散らばる未来の断片。この手のひらですくい上げられる量には限りがあるわ。
だからね、落とした財布はどこにあるのかとか、告白した彼にOKをもらえるのかとか、地球はいつ滅亡するのかとか。
そういうことについては、全くお手上げなの」
役に立たない能力でしょう? そう言って彼女は、途方に暮れたように空を見上げた。
「子どもの頃はね、何の考えも無しに、《声》が教えてくれるままを口に出してたわ。ちょっと得意になってたの。私はみんなとは違うんだ、特別な女の子なんだ、って。
でもね、大抵の場合は、誰も私の言うことなんか信じない。それで私の予知通りのことが起きたら、気味悪がって離れて行くの。子どもよりも大人の方が露骨だったわ」
夕暮れの風が、彼女の真っ直ぐな前髪を乱した。
足許の落ち葉がいくつか舞い上がり、乾いた音をたてる。
周囲から『マヤ子』や『魔女』と呼ばれ、恐れられていた彼女。
だが、それよりも厄介だったのは、彼女の力を利用しようとして近付いてくる連中がいたことだ。
そういう人物に限って、どんなに彼女が説明しても、彼女の力を万能だと信じ込み、多くのことを要求する。
彼女に初めて『親友』ができたのは、小学二年生のときだった。
その女の子──真菜ちゃんは、無邪気に、臆することなく彼女に近付いてきた。
真菜ちゃんは、彼女の予言を全て信じてくれた。
抜き打ちテストの日や、先生に急用ができて自習になる日を教えたりといった他愛ないものばかりでも、真菜ちゃんは喜んでくれた。
真菜ちゃんと仲良くなったことで、彼女は、クラスの中心的な女子のグループの一員になり、独りぼっちではなくなった。だがそれも、ほんのひとときのことだった。
半年ほど経った頃、小さな事件が起きた。
真菜ちゃんが家で飼っていた文鳥が、野良猫に襲われて死んだのだ。
真菜ちゃんは彼女を責めた。『どうして教えてくれなかったの?』と泣き叫びながら、何度も。
彼女は、真菜ちゃんが小鳥を飼ってることなど知らなかった。
親友とは名ばかりで、交換日記のメンバーにも入れられていなかったし、誕生日会にも招待してもらえなかったから。
「私はその子に利用されていただけで、親友なんかじゃなかった。私は未来を全部見通すことなんかできないんだから、仕方ないの。何度も自分に言い聞かせたわ。
でもね、どうしてもそのときの泣き顔が……私を睨みつけたその子の目が、忘れられないの。
それ以来、人前で予言めいたことを言うのはやめたわ。《声》が聞こえても、心の中にとどめて、普通に生活するようにした。人と関わることが怖くなったの」
過去を見つめるように遠い目をする彼女に、たまらない気持ちになった。
未来のメジャーリーガーの打球を受け止めた手のひらよりもずっと、胸の奥が熱く疼いた。
「じゃあ、どうして俺は……どうして俺とは、親友になろうと思ったの?」
答え合わせのように尋ねた声が、掠れた。
彼女は、しばらく考えるように目を伏せてから、かすかな声で囁いた。
「あなたなら、怖くないと思ったから。
私のことを、非難したり、傷つけたり、誤解したり……そういうことは、絶対にしない人だって、思ったから。
世界中の人が私の敵になっても、あなただけは、私の味方でいてくれるような気がしたから」
「──それは、《声》が教えてくれたの?」
「《声》よりも先に、あなたを初めて見た瞬間、もう知ってた。あなたが私の特別な人だって、私の心が知ってたの」
何も言えなかった。
まばたきをすることすら怖かった。
少しでも動いたら、あとで後悔するようなことをしでかしそうだった。
ジーンズが破れそうなくらい、両手をポケットの奥に押し込んだ。
彼女が俺に求めている役割は『特別な親友』。
もし俺が彼女を抱き締めて、この実験が失敗したら──
頑なな彼女はきっと、二度と俺に心を許してくれない。
校門から、色とりどりのランドセルを背負った子供達が駆けて来る。
仲良くじゃれ合う女の子達の後ろに、俯きがちに歩く小さな女の子の姿が見えたのは、俺の幻。
過去には戻れない。巻き戻せない。
小学生の俺は、あの頃独りぼっちだった彼女を見つけることはできなかった。
でも今は……今の俺なら、彼女の傍にいられる。
「まゆら」
彼女が、弾かれたように顔を上げた。
「名前で呼んでいいよね。親友だから」
まゆらは目をみひらいて、いつものように、ぎゅっと唇を結んだ。
「まゆら、一緒に帰ろう」
初めて唇にのせた『運命の恋人』の名前。
その甘さを噛み締めながら、まゆらの家まで一緒に歩いた。
「また明日」を口にするのが、いつもに増して名残惜しかった。
数歩進んで振り返ると、まゆらが門に手をかけたまま俺を見送っていた。
目が合うと、怒ったように眉間に皺を寄せる。
「そうやって振り返らないで」
「じゃあ、同時に背中を向けて帰ろうか」
二メートル程歩いて振り返ると、門の向こうで、同じように肩越しに俺を見ているまゆらと目が合った。
「お互い様だね」
「私は、あなたがちゃんと約束を守ったか確認しているだけよ」
「じゃあ、俺も確認しないと」
「もう、埒が明かないからさっさと行って! 家まで送ってもらった方が、最後までお見送りするのが礼儀でしょ。私には、あなたが無事に帰れるように見届ける義務があるの」
「でも俺は、俺を見送るまゆらの顔が見たい」
暗闇にもわかるほど、まゆらの顔が真っ赤になる。
「……実験、続ける気はあるの?」
「あります、ごめんなさい。もう帰ります」
低く唸るような声に、慌てて背中を向ける。
一歩足を踏み出した瞬間、まゆらの良く通る声が聞こえた。
「──颯太の馬鹿!」
振り返りたくてたまらなかった。それでも、数秒立ち止まるだけで我慢した。
実験を続ける気があるかって? 勿論あるよ。
ただし俺の場合は、『運命の恋人と恋に落ちないための反証実験』。だけど、それは君には秘密。
いつか君に、『やっぱり無理みたい』て泣きそうな顔で言わせる。絶対。
ただ目下の心配は、それまで俺の心臓が持つかということなので、今後はお手柔らかにお願いします。