③
なんとか平静を装いながら、机の上に筆記用具とテキストを出し、黒縁眼鏡を鼻に乗せる。
彼女が驚いたようにまばたきをした。
「橘君の視力が悪いなんて、知らなかった。眼鏡をかけてるところなんて見たことなかったから」
「この前、校門の前でコンタクトを落としちゃったんだよね。裸眼では0.7くらいかな。邪魔だし、似合ってないでしょ?」
ただでさえ無個性な顔が、眼鏡をかけることで余計に地味になる。あまり好きじゃないから、必要な時以外は掛けないようにしている。
彼女はしばらく俺を見つめていた。多分時計の秒針が二回転するくらい。
熱い視線で俺の心拍数を弄んだ後、急に素っ気なく顔を背ける。
「できれば外してほしいわ。私の前では」
……そこまで言われるとさすがに傷つく。
しかし気のせいだろうか、心なしか彼女の耳が赤い。
彼女はバッグから一冊のノートを出すと、黒い表紙を開いた。
いつもの几帳面な文字が、びっしりと書き込まれている。
最後の行に難しい顔で何かを書き足すと、真顔で俺に差し出した。
「次は橘君の番だから。明日までに記入して持って来て」
「え、何? まさか交換ノート?」
冗談めかして笑いながら、ノートを開く。
一行目から絶句した。
「交換ノートじゃないわ、実験ノートよ」
彼女は大真面目な口調で言う。
「私達の実験を成功させるために、今後の計画や、実験を失敗させる恐れがある危険因子についてお互いに気付いたことを記入していくの」
目から入る情報が衝撃的すぎて、彼女の声が耳に入ってこない。
「宝生さん。……ふざけてるわけじゃないんだよね?」
念のため、震え声で確認する。彼女はさも心外だというように俺を睨んだ。
だめだ。俺は遅かれ早かれ、この子に殺される。
こんなに日常的に心臓を射抜かれていたら、身が持たない。
「できる範囲でかまわないから、そこに書いてある危険因子はなるべく私の目に触れさせないようにして」
要注意、と記入された下には、箇条書きで短い文がたくさん並んでいた。
『Vネックのニット』
『笑った時の目尻の皺』
『間違って買った微糖の缶コーヒーを飲んだ時の一口目のしかめっつら』
『鼻歌が下手なところ』
『平らで短い爪』
『ガードレールを簡単にまたぐ長い脚』
『猫背』
一番下に、まだボールペンのインクが乾き切らない文字で
『眼鏡で笑った顔』と付け足されていた。
「……宝生さん、これはダメだよ。
危険因子を検証する行為事態が、この何の変哲もないノートを世界一危険なノートに変えてるんだよ」
「何を言っているの?」
納得いかなげな彼女の横で、俺は新しいページを開いた。
手の震えを抑えながら数行書いて、彼女に渡す。
怪訝そうにノートを広げた彼女の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「ふざけてるの!?」
「宝生さんと同じように真面目に書いただけだよ」
彼女は唇を噛んで、もう一度だけノートを開いて──すぐに勢いよく閉じた。
「恐ろしいわ……なんて危険なノートなの」
わかってくれてよかった。
「俺が責任を持って封印しておくよ」
「嫌。そんな邪な目で、何度も読み返されたらたまらないわ」
敵意をむき出しにした目で俺を睨む。
確かに、保存用にコピーを取ろうとは思ったけど、そこまで言うことはないと思う。
「……それに、私のほうがたくさん書いてあるし」
拗ねたように呟く表情で、必死に保っていた理性の糸が呆気なく千切れた。
「そのノートを一日貸してくれたら、徹夜で最後のページまで書いて持って来るよ!」
「そういうこと言わないで!」
お互いに叫んだところでベルが鳴り、 教授が入って来る。
彼女は悔しそうに唇を噛んで、ノートをバッグに押し込んだ。
そして、はっと気付いたように、耳元の髪を止めていたピンを外した。
ノートの二ページ目に書いた、俺の実験レポート。
『今日のブラウスとスカートは、可愛すぎて目のやり場に困るので、俺の前では(いや誰の前でも。特に他の男の前では)着てこないでください。
あと、耳を出す髪型も避けてくれると助かります』
それが誰の目にも触れないことを祈りつつ、テキストを広げた。
初めて一緒に受ける講義は、俺も、きっと彼女も、機械的に黒板を写すのが精いっぱいで、やっぱり全く集中できなかった。