②
「噂をすれば」
住谷さんの視線の先には、教室の前のドアから入ってくる彼女がいた。
白いブラウスに、ハイウエストの紺色のスカート。ローマの町をさまようモノクロ映画のヒロインのようだ。
彼女はいつも、俺を見つけたからといって微笑んだりしない。一度だけまばたきをして、嬉しさを噛み殺すように唇を引き結び、伏し目がちに歩いて来る。
とってつけた無愛想さで恥じらいを隠す様子に、毎度のことながら俺は骨抜きだ。
「……何してるの?」
彼女が怪訝な表情で首を傾げる。自分でも無意識のうちに、スペイン語のテキストでサブローの顔を覆っていた。
「いや、手が勝手に……」
言い訳する俺を見て、住谷さんがにやついている。
サブローは俺の手からテキストを叩き落とすと、いつもの気だるげな表情とは別人のような爽やかさで笑った。
「初めまして、佐々木です。宝生さんだよね?」
サブローにしてみれば、俺が初めて本気になった女の子に敬意を払っているつもりなのかもしれない。でも俺にとっては迷惑極まりないキラー・スマイルだ。
彼女も、早苗や萌乃や純子のように、一瞬でサブローに心を奪われるに違いない。
恐る恐る様子を窺がうと、彼女は真顔でサブローを見つめたあと、「どうも」と素っ気なく言って俺の前の席にバッグを置いた。
「橘君、レポートやってきた? 私、ちょっとわからないところがあったんだけど……」
いつもと変わらぬ様子で話し始める彼女に、愕然とする。
サブローに対して、ここまでフラットに接する女の子を、うちの家族以外で初めて見た。
今まで付き合ってきた子達は、たとえ俺が隣にいようと、手を繋いでいようとも、いつもサブローに視線が釘付けになっていたからだ。
……改めて考えると、俺って結構哀れだな。
物心ついたときからサブローと一緒にいたから、それが当たり前だと思っていた。
「宝生さん、サブローを見てもなんともないの?」
おそるおそる問いかけると、彼女は不可解そうに眉を寄せ、再びサブローを見つめた。
驚くべきことに、机の上の消しゴムを見るのと変わらぬ目つきで眺めている。
「なんともって、どういうこと?」
「動悸とか、眩暈とか、息切れとか」
「何を言ってるのかわからないし、もともと彼のことは知ってるわ。私、いつも橘君を見てたから。橘君、私と出会うまでは、いつも彼と一緒に学食でお昼を食べていたでしょ?」
……動悸、眩暈、息切れは、俺の方だ。
赤面する俺の耳もとで、サブローが笑いながら囁く。
「すごいな。彼女にとっては、お前が主役で俺が脇役だって」
追い打ちをかけるのはやめてくれ。
動揺する俺をよそに、住谷さんは「宝生さんて、もしかして相当視力が悪いの?」などと失礼極まりないことを聞いている。彼女は生真面目な口調で、「左右とも2.5よ」と答えた。
にやにやするサブローと住谷さん、熱くなっていく顔も隠すこともできずに固まる俺を見て、彼女は不可解そうに眉間に皺を寄せている。
サブローはポケットからスマホを出すと、彼女に向かって身を乗り出した。
「宝生さん、颯太が言ってた通り、面白いね。俺とも友達になってよ。LINE教えて?」
「ともだち……」
「佐々木君、ずるい! 私もっ。宝生さん、私にも教えて!」
「女の子の、ともだち……」
彼女は、催眠術にでもかけられたようにバッグからスマホを出す。
「だめだよ宝生さん、友達は選ばなきゃ! 特にこっちの男は、本当に危険人物だから!」
「別にいいだろ、LINEくらい」
今までの俺の彼女達には、全く興味を示さなかったくせに、今回に限って何故そんなに愛想がいいのか。
彼女は俺とサブローを真面目な顔で見つめてから、いつものようにきっぱりと言い切った。
「大丈夫よ、橘君。
私にとっての危険人物は、地球上であなただけだから。あなた以外の男性にどんなことを言われても、何をされても、私の心に何の影響もおよぼさないわ。心配しないで」
サブローと住谷さんの、生暖かい目が痛い。
……誰かこの子を何とかしてくれ。危険人物は俺じゃなく、君自身だ。
「橘君。上着、脱いだら?」
「なっ、なんで?」
「さっきから顔が真っ赤だから。そのジャンバー、暑いんじゃない?」
だからそれは君のせいだ。心の中で全力で叫びながら、羽織っていたジージャンを脱いだ。
半袖Tシャツからはみ出た腕は肌寒いのに、ニット帽で半分隠した顔が異常に熱い。
そして、住谷さんとサブローのにやけ笑いが鬱陶しくてたまらない。
「宝生さん、前の席に座ろう。あっちの方が空いてるし、黒板も見えやすいから」
「俺も付いて行っていい? お前ら見てたら面白いから」
「あたしもっ」
どっか行け! 完全に面白がっている二人を睨みつけ、彼女と二人で一番前の席に座る。
同じ講義に出るのはこれが初めてだけど、絶対に集中できない自信がある。
『運命の恋人と恋に落ちないための実証実験』開始から一週間。
実験は順調とはいえない。俺はもうとっくに恋に落ちているし、実証実験というよりは、むしろ反証実験だ。




