③
「見てないで早く外して!」
助けを求める彼女に、慌てて駆け寄る。キムがもがくほど、赤いリードは彼女の白い肌に食い込む。
その魅惑の光景に、思わず喉が鳴る。ためらいながら手を伸ばしかけた瞬間、
「リードじゃなくて、その子の首輪を外して!」
耳まで赤くなった彼女の、悲鳴のような声が響いた。
まったくその通りだ。うっかり魔が差した。
首輪を外し、暴れるキムを抱き上げる。
彼女は体を起こすと、両方の脹脛を縛り付けていたリードをほどいた。
「ごめんね、怪我しなかった?」
「平気よ。驚いただけ」
彼女は服についた土を払うと、リードと首輪を俺に差し出す。
「本当に、あなたの家の子?」
俺の腕の中で暴れるキムを見て、彼女は不審そうに眉を寄せる。
「知り合いの家の犬」
「貸して」
キムは彼女の胸に抱かれて、心地よさ気に目を細めた。ちなみに雄だ。
彼女は片手でキムを抱えたまま、地面に落ちている荷物を拾おうとしている。
筆記用具やテキスト、可愛らしいポーチ。
しゃがみ込んで手伝いながら、彼女の強張った横顔に尋ねる。
「こんな路地裏で、何をしてたの?」
彼女は目を逸らしたまま、唇を噛んだ。答えてくれるつもりはなさそうだ。
「家まで送るよ。暗くなって来たから」
「平気よ、すぐ近くだから」
「宝生さんち、どこなの?」
「……小手鞠町」
嘘だろ? 絶句する俺をよそに、彼女は不機嫌そうに呟いた。
「先週、引っ越してきたの。パ……父が、私と母に何の相談もなく、勝手に家を建てたから」
「もしかして、坂のてっぺんの?」
うちから歩いて二十分足らずの場所にある、三階建の豪邸。
庭にはバラのアーチと白いブランコがあり、お伽噺に出て来そうな可愛らしい外観は、建設中から近隣住民の注目を集めていた。
ついさっき、骨董屋の川久保さんからも噂話を聞いたばかりだ。
「俺の家、駄菓子屋の隣の花屋なんだけど、」
「知ってるわ。『フラワーショップたちばな』」
とっくに調べはついていたようだ。
彼女が学食で言っていた言葉を思い出す。
『うっかりあなたに遭遇しないように、注意深く観察していた』と。
まさか学校内での俺の様子だけではなく、実家の場所まで知られていたとは。
彼女はキムを抱きしめると、短い巻き毛の背中に顔をうずめるようにして俯いた。
「もう、うんざり……。どれだけ苦労すればあなたから離れられるの? もともと父は勝手な人だけど、まさかあなたの町に家を建てるなんて……」
華奢な肩が震えていた。本気で困り果てているらしい彼女に、どんな言葉をかけるべきかわからなかった。
重たい空気を変えるために、努めて明るい声を出してみる。
「これも、《運命》のいたずらかな?」
「ふざけないで!」
勢いよく顔を上げた彼女の目は、きつく吊り上って、涙すら滲んでいた。
「あなたに遭遇しないようにするために、私がどれだけあなたのことを調べ尽くしたと思ってるの?
授業やよく行くお店だけじゃないわ! 好きな場所も、好きな食べ物も全部知ってるんだから!」
「なんで、そこまで……」
「会いたくなかったから! あなたに、絶対に会いたくなかったから!」
そこまで言いきられると、流石に傷つく。立ち尽くす俺達の間で、キムが不思議そうに首をかしげている。
泣き出しそうな顔で俺を見つめる彼女の背後には、黒い町並みのシルエットと、淡い夕闇が広がっていた。
「全部知ってるの。
雨の日は髪の毛が少し跳ねることも、欠伸のときに鼻の頭に皺ができることも、笑ったときの眉毛が八の字になることも、リュックに付けてる青リンゴの缶バッチが好きなバンドのアルバムの初回限定特典だっていうことも。
甘いコーヒーが苦手なことも、意外にスペイン語の発音が綺麗なことも。
――全部知ってる。
あなたが付き合ってきた女の子達よりも、ずっと」
桃色と群青色のグラデーションを背景に佇む彼女も、彼女の口から零れる言葉も、目尻に留まる涙も。
どうしようもなく綺麗で、ただ胸を苦しくさせる。
「あなたのことを全部調べて、完璧に避けようと思ったの。
だけど調べれば調べるほど、私の中のあなたがどんどん大きくなっていって……
こんなに、あなたのこと好きにならないように頑張ってるのに……もう、どうしたらいいかわからない」
彼女は悔しそうに唇を噛むと、乱暴に涙を拭った。
……完全に努力の方向性を間違えている。この子は馬鹿だ。こんなに馬鹿で、こんなにも可愛い子に、俺は今まで出会ったことが無い。
強気な表情と、あまのじゃくな態度とは裏腹に、彼女の言葉はいつも剥きだして、俺の心まで丸裸にする。
今まで感じたことが無い愛おしさに、溜息がこぼれた。
一歩前に踏み出すと、彼女は警戒するように体をすくませた。
彼女が俺に課した、五十センチのルール。今から俺はそれを破る。