②
「誰か教えてくれねーかな」
コーヒーを飲み終えたサブローが、掠れた声で呟く。
何を? と目で問うと「死ぬほど好きな女のあきらめ方」という答え。そんな方法があるなら、俺にも教えて欲しい。
「今日も夕飯食っていくんだろ。十五分たったら、鍋にルー入れといて」
カレーの仕上げをサブローに頼んで店に降りる。
サブローの姉への恋心は、一種の『擦り込み』のような気がする。
母の容姿と性格を色濃く受け継いだ姉は、昔から、女ながらに近所のガキ大将として一目置かれていた。
無個性な地味キャラの俺と、大人すら惑わす美少年で隙あらば攫われそうになっていたサブローは、いつも姉に守られていた。
今では俺達のほうが力も強くなり、中学に入る頃には二人とも姉の身長を追い越した。それでもサブローは、あの頃のまま、姉の背中だけを追い掛けている。
エプロンを締めながら店に出ると、母が豪快な手つきでブーケを束ねていた。
俺は配達用のブーケを店のワゴンに積む。隣町の米屋の吉田さん。そうだ、今日は奥さんの誕生日だ。
そのことに気付き、切ない気持ちでエンジンをかける。
吉田さんの旦那さんは、三年前に癌で亡くなっている。
一時退院のときに閉店間際にうちの店に現れて、妻が死ぬまで毎年誕生日にブーケを届けて欲しい、と言って預金通帳と印鑑を渡して来たときは流石にたまげた。
勿論、通帳は息子さんにお返しして、今はその都度代金をいただいている。
店の裏手にある道を北向きに走り、焼鳥屋の角を曲がってワゴンを停める。
小手鞠町商店街のアーチ看板のすぐ下にある、吉田 米穀店。ブーケを抱えた俺を見た瞬間、いつもは底抜けに明るい奥さんの顔が、くしゃくしゃに潰れる。
薄紫のシオンのブーケ。花言葉は『遠くにいる君を思う』。
奥さんの涙にもらい泣きしそうになりながら、秋田産の米二十キロ入りを二袋買って車に積んだ。
我が家の分と、もうひとつは、うちの三軒隣の骨董屋の川久保さんの分。
腰を痛めていると言う親父さんに変わって、二階の自宅まで米袋を運び、奥さんの世間話――県外の野球の名門校に通っている孫息子がレギュラーになったとか、商店街を抜けた坂の上の一等地に新築の豪邸ができたとか、そこに元女優の一家が引っ越して来たとか、裏の梅沢さんちのヨークシャーテリアのキムが今朝から行方不明だとか……を聞いたのち、店に置いてもらっている大鉢のオーガスタとエバーフレッシュに栄養剤を挿して、ワゴンに戻った。
高校卒業と同時に免許を取って一年半。運転にも慣れてきた。
信号待ちをしていると、ワゴンの左側に原付が停まる。うちの親父の同級生の、酒屋の陽二さんだった。
「颯太、女子大生との合コンはまだかよ。いつまで待たせる気だよ」
「勘弁してよ。出会いが欲しいなら見合いでもしなよ。静さん、心配してるよ」
俺は運命的な恋愛結婚がしたいんだよ、と吠える陽二さんは、四十六歳、バツイチ。母親の静江さんと二人暮らしだ。
「静さんの目の調子はどう?」
「世界が明るくなって、眼鏡 要らずだって、はしゃいでるよ」
最近白内障の手術をした静さんには、子供の頃よく遊んでもらった。俺が生まれ育った小手鞠町商店街は、住民全員が親戚同然だ。
先に左折していく陽二さんの背中を見送って、運転席から空を見上げる。うろこ雲が、淡い桃色と紫色に染まっていた。
五限目の民族学に出席すると言っていた彼女。もう講義は終わっただろうか。
生真面目な表情で黒板を見つめる姿を想像するだけで、胸が苦しかった。
閉店時間五分を過ぎて店に戻ると、シャッターがすでに閉まっていた。
ワゴンから降りた瞬間、視界の端を、小さな黒い生き物が横切った。
夕暮れの商店街を、首から赤いリードを垂らして無邪気に走る後姿。
ピンと立った三角の耳と、可愛らしいくせに髭もじゃの若年寄なルックスには見覚えがあった。
梅沢さんちのキム。脱走の常習犯である。
「キム、ステイ!」
それらしく叫んだところで、飼い主でもない俺の命令に従うはずがない。
追いかける俺を見て、キムは目を輝かせながら無邪気に逃げる。
鬼ごっこと勘違いしているらしい。
商店街の裏通りを走り抜け、古い団地が立ち並ぶ辺りで、キムの短い尻尾を見失う。
困り果てて辺りを見回したとき、小さな悲鳴が聞こえた。次いで、甲高いキムの吠え声。
声を頼りに路地に入ると、雑草が伸びた小さな空地で、キムは何かにリードを取られ、もがきながら助けを求めていた。
ほっとして駆け寄ろうとした瞬間――足が固まる。
枯草にうつ伏せに横たわるラズベリー色のモヘアのニット。
めくれ上がったロングスカートから覗く、引き締まった白い脹脛。そこにからみつく赤いリード。
立ちすくむ俺の足許で、《彼女》は上半身をねじって俺を睨んだ。
「またあなたなの」
運命、キム、グッジョブ。
恋の神様は、どうしても俺と彼女を結び付けたいらしい。
でもどうせなら、俺も一緒に巻いて欲しかった。