①
小手鞠商店街の片隅にある『フラワーショップたちばな』。
軒先に張り巡らせた緑色の店舗テントといい、経年劣化で色あせたクリーム色の壁といい、小洒落感とは程遠い、俺の実家。
雨を吸って重たくなったジーンズとスニーカー。コーヒーをこぼしたシャツ。
身も心も最低のコンディションでドアを押すと、入り口に取り付けた銀のベルが、空々しく明るい音を出す。
色とりどりの花達のフレッシュな生命力が、今の俺には眩しすぎる。
「いらっしゃい! ……なんだお前か」
デニム地のエプロンを着けた母が、満面の笑顔を一瞬で引込める。
今日も客足は悪いらしく、不機嫌そうにパイプ椅子に座る。ふんぞり返ってスポーツ新聞を広げる様子は、毎年
『女の子のなりたい職業』の上位にランクインする《お花屋さん》のイメージとはかけ離れている。
「生乾きの野良犬みたいな臭いだな。さっさと着替えてこい!」
尻を蹴られた。
かつては商店街の皆様から『こでまり小町』と呼ばれていたらしい母は、顔の造作こそは整っているが、態度も言葉遣いも荒っぽい。
「姉貴は?」
「披露宴の席札の準備だよ。式まで三カ月だからな」
重たい体を引きずり、店の奥にある階段を登る。
スチール製の白いドアを押すと、タイル張りの我が家の玄関。父の革靴と姉のロングブーツの横に、踵が潰れた黒いスニーカーが並んでいる。そのくたびれ具合には見覚えがある。
どうやら、結婚式目前の花嫁をたぶらかす間男が来ているようだ。
バスタオルを取るために洗面所のドアを開けると、案の定、風呂場の曇りガラスの向こうからシャワーの音が聞こえてくる。
ドアを開けると、最近付け替えたばかりの風呂場のLEDライトよりも眩しい男前。
学校中――いや、この地域一帯に住む女性を造作もなく恋に落とす、無差別人間兵器・サブローが、シャワーホースを片手に立っている。
「何やってんだよ」
「見りゃわかるだろ」
ジーンズとTシャツをまくり上げ、ピンク色のゴム手袋を装着し、片手にスポンジ。そういえば、今週の風呂掃除当番は姉だった。
「そのためだけに呼び出されたのか? 下僕かよ」
「颯太、四限目の教室にテキストを置いたままだっただろ」
それはわざわざどうも。という用事にかこつけて姉に会いに来たんだろうけどな。
「それで、ついでに風呂掃除?」
「結婚式の準備を手伝わされるよりマシだからな」
掃除を終えたサブローとリビングに向かうと、スウェット姿の姉が、ソファにあぐらをかいて作業をしていた。
シルバーのカラースプレーで色付けした松ぼっくりに、無器用な手つきでパールを接着している。招待客のネームカードを挟む土台を手作りしているのだ。
「颯太、しっかりしなさいよ! サブローに忘れ物とどけさせるとか……小学生じゃないんだから!」
「風呂掃除を押し付けている姉ちゃんには言われたくないな」
この、すっぴんちょんまげダサ眼鏡のガサツな女こそが、サブローの十年来の片思いの相手だ。
保育園から腐れ縁のサブローは、七つ年上の俺の姉にぞっこんだ。
幼馴染の邪魔をしないよう、なるべく気配を消して夕飯の支度に取り掛かる。
例え彼女に振られようと、運命の恋人に全力で拒絶されようと、感傷に浸っている暇はない。親が共働きで自営業の息子の日常は慌ただしい。
二日分のカレーのために大量の玉葱を刻んでいると、サブローがキッチンに入って来た。
「手伝うよ」
いや、邪魔だ。うちの狭いキッチンに男二人はかさばるし、動線が悪くなる。
カウンター越しにリビングの様子をうかがうと、姉はピンク色のスマホを耳に当て、いつもとは別人のように甘えた声を出していた。
「……え? うん、いいよ。仁君が好きな方で。えー、どっちも見たいの?
やだぁ、流石にネイルのお色直しはできないよぉ」
スマホを支える左手の薬指には、ダイヤモンドがきらめくエンゲージリング。
俺にとってもサブローにとっても、すでに見慣れた光景だ。
完全に恋患いの様子で溜め息をつくサブローを椅子に座らせ、二人分のインスタントコーヒーを淹れる。
報われない不毛な恋。十九年間、サブローの片思いを間近で見ていて、こんなふうになるのはごめんだと思っていたはずなのに、今日はこいつの気持ちが痛いほどわかる。
保育園のすみれ組で、姉貴が俺のお迎えに来たあの日から、サブローは恋の虜。いや、奴隷だ。
くしくも、俺が初めて《彼女》を意識したのと同じ時期である。
姉貴はサブローの恋心に気付くこともなく、高校時代からの恋人だった仁さんと順調に交際を続け、一流商社に就職した仁さんの後を追い、同じ会社の受付嬢になった。そののち、ロンドン支社に転勤が決まった仁さんに空港の出発ロビーでプロポーズされ、一年後の帰国に合わせて式を挙げることが決まった。
テンプレ過ぎて低視聴率の月九ドラマのあらすじみたいだが、現実に起こった出来事である。
いくらサブローとはいえど、最早付け入る隙などない。
最終回はとっくに終わっている。
「スペシャルドラマで、第三の男がヒロインを略奪って展開もテンプレだろ?」
「散々二人の関係を掻きまわしたあと都合よく引き下がって、『俺が好きになったのは、あいつに恋をしてる君なんだ』みたいな謎の台詞を吐いて高級車でヒロインを式場まで送り届けるところまでがテンプレだよ」
男二人で、熱くて苦いだけのコーヒーをすする。
さして美味くはない。
でも豆を曳いたりフィルターを用意したりという手間もなく、カフェで高い金を払うこともなく、ポットからお湯を注ぐだけで、そこそこの味を楽しめる。今までの俺の恋愛と同じだ。
気楽に楽しめて、深く傷つくことも、胸が締め付けられることもない。
『今までも他の女の子達でよかったんだから、これからもきっと平気よ』
そんな俺を責める彼女の声が、耳に残って、消えない。
《俺が運命の人だから》駄目だと言った彼女。謎だらけだし、納得がいかない。タイプじゃないとか、いい加減な男が嫌いだとかいう理由の方が、まだ諦めがつく。
こんなに俺を混乱させる彼女に、腹立ちすら感じる。
なのに同時に、あの雨の中の『さよなら』を思い出すたびに、胸が張り裂けそうになる。