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運命の恋人と恋に落ちないための俺と彼女の実証実験。  作者: 古矢永 塔子
警報です。依然として強い勢力を保つ『運命の恋』の影響で、ところにより激しい涙雨が予想されます。傘の用意をお忘れなく。
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「じゃあ、どうして今日、あの裏庭にいたの? 宝生さんなら、俺が来ることは予測できたはずだよね」


「誤解しているみたいだけど、私には未来を見通す力なんてないの。

断片的に《声》が聞こえるだけ」


――《声》?


その《声》が、コーヒーの飛沫しぶきを防ぐタイミングや、トイレが清掃中で使えないこと、教授のぎっくり腰による講義の休講なんかを教えてくれた、ということなのだろうか。


「《声》は万能じゃないわ。それに運命は、とても繊細なの。

ほんの少しバランスを崩しただけで、まるっきり変わってしまうことだってある。

ただ、あなたに関しては、あらゆる意味で例外だけど」


「どういうこと?」


「どんなに私が《声》に逆らって、未来を変えようとしても、あなたと私が結ばれる結末だけは変わらないの」


冷静な顔で、破壊力のある言葉を繰り出してくる彼女に、やっと落ち着きかけた気持ちがまたしても揺さぶられる。


コーヒーを口に運ぼうとして、すぐに思い直した。

五十センチ向こうにある、木苺みたいに赤い唇。次にどんな突拍子もない台詞が飛び出すのか、俺には予測不能だ。

これ以上、シャツの黒い染みを広げたくない。


「あなただけは予測不能なの。どんなにあなたを振り切ろうとしても、いつも突然私の前にあらわれるの。

教育学部棟の教室にいるはずのあなたが、なぜか人文学部棟の廊下で立ち往生をしていたり、とっくに学校を出て家に帰っているはずなたが、なぜか校門の前でしゃがみ込んでいたり――

初めてあなたを見つけた日から今日まで、私がどれだけ苦労したか、きっとわからないでしょうね。

植え込みに隠れてやり過ごしたときは、新しいセーターが枝に引っ掛かって穴が空いたし、

二階の窓から飛び降りたときは、お気に入りのパンプスのヒールが折れたわ」


……そこまでして、俺に会いたくなかったのか?


彼女は生真面目な顔で、「大丈夫よ。私、運動神経には自信があるの」なんて言っているけど……。

どうやら俺は、自覚がないままに彼女と追いかけっこを繰り広げていたらしい。


予知能力を持つ彼女との戦いは、明らかに俺が不利だ。

でも有難いことに、気まぐれでいたずらっ子の運命は、どうやら俺の味方らしい。


接着剤の件も、落としたコンタクト・レンズの件もしかり。

冗談なような不運で俺をその場に足止めさせ、彼女が予知した未来からわずかにタイミングをずらすことで、俺達を引き会わそうとしてくれたのか。


おかげで俺は今日、ようやく彼女をつかまえた。


「俺は……ずっと会いたかった。君に」


ありのままの言葉がこぼれた。

テーブルの向こうの彼女が、警戒するように顎を引いて俺を睨む。


「宝生さんにだから言うけど……宝生さんにしか、言えないけど。

俺はずっと君を待ってた。

小さい頃から知ってたんだ。この世界のどこかに俺のための女の子がいて、俺もその子のために生まれて来たんだってことを。

『運命の恋』とか『ソウル・メイト』とか、そんなお伽噺を信じる奴の方が少数派だってわかってる。自分でもどうかしてると思ってる。

でも、今こんなに……君のそばにいると、心臓が壊れそうなくらい苦しいのに、運命のいたずらとか、錯覚だとか言われても、そっちの方が俺には信じられない」


はたから聞いていられないほど恥ずかしい台詞を言っている自覚はある。

でもそれが事実だった。


騒がしい胸の鼓動を宥めながら、彼女のアーモンド型の目を真っ直ぐに見つめる。


先に目を逸らしたのは、彼女だった。

伏せた瞼がかすかに震えていて、動揺を隠そうとしているように見えた。


「残念だけど、私はもう違うわ。あなたに対して、特別な感情は持っていないわ」


「……もう?《もう》って、どういうこと?」


彼女の言葉に隠されたかすかな隙を、俺は聞き逃さなかった。

彼女は俺から顔を背けて、悔しそうに唇を噛んだ。その首筋が赤く染まっていくのを見て、胸が甘噛みされたように疼く。


「《もう》違うって言うなら──初めて会ったときはどうだった?

俺は気が付かなかったけど、君が入学式で初めて俺を見つけてくれたとき、どう思った?

宝生さんも、今の俺が感じているのと同じように──」


「やめてって言ってるでしょ! 私は、あなたと恋なんかしない。そんなことにうつつをぬかしてる暇なんかないの!」


たまりかねたように彼女が怒鳴った。ただでさえよく通る凛とした声が、昼下がりの学食に響き渡る。

ざわめきが静まり、雑談を楽しんでいた学生達の目が、俺と彼女に集中する。

彼女は勢いよく立ち上がると、トートバッグを肩にかけた。


「話は終わりよ。今後もきっと、うんざりするほど顔を合わせることになるでしょうけど、無視してやり過ごしてくれると助かるわ。」


無理だ、そんなこと。

俺だって十九年間待ち続けていた。簡単には引き下がれない。

つられて立ち上がる俺を牽制するように、彼女はビスク・ドールのような冷たい表情で呟いた。


「……小石川 純子さん。紺野 萌乃さん。森本 早苗さん」


覚えがあり過ぎる名前の羅列に、よろけてテーブルに手をついた。


俺がこの大学に入ってから付き合ってきた女の子たちの名前。何故彼女がそれを?


「言ったでしょう。『ずっと見てた』って」


ぐうの音も出ないとは、まさにこのことだ。

青ざめる俺に追い打ちをかけるように、彼女は言葉を重ねる。


「そんないい加減な人に、『ずっと待ってた』とか『やっと会えた』とか、言われて、信用できると思う?」


おっしゃる通り、反論の余地もない。

彼女は椅子の位置を整えると、俺に背中を向けた。

肩越しに振り返る横顔には、憐みの色すらにじんでいる。


「あなたは、私じゃなくても、きっと平気よ。今までも、ほかの女の子でよかったんだから。

今のあなたの気持ちは、一時の気の迷いよ。これからは注意して私に近づかないようにすれば、すぐに忘れるわ」


ブーツのヒールの音と共に、少しずつ小さくなっていくラズベリー色の背中。

追いかける資格なんてない。自業自得だ。


俺のいい加減な恋愛の一部始終を、彼女に観察されていたなんて。もう巻き返しは無理だ。


純子、萌乃、早苗。高校時代に初めて付き合った先輩。俺の記憶のデスクトップにある失恋フォルダ。

そうだ。その中に、いつものように新しいフォルダを作ればいい。

いつものように、惨めになり過ぎない程度にほほえんで、「元気で」って呟けばいい。

そして次にすれ違った時は、当たり障りのない笑顔で気まずさを隠して、昔の同級生に会った時のように挨拶すればいい。


そもそも彼女なんて、見た目も中身も、全然好きなタイプじゃない。忘れるなんて簡単だ。

そう自分に言い聞かせながら、彼女の名前のフォルダを新規に作成しようとする。


――駄目だ。俺の低スペックのPCは、彼女に散々翻弄されたおかげでオーバーヒートしてしまったらしい。

画面いっぱいに彼女の顔が貼りついてフリーズして、消えない。


「宝生さん!」


今まで、去って行く女の子を引きとめたことなんて一度もない。それでも、俺のスニーカーの爪先は、真っ直ぐに彼女を追いかけていた。


学食のガラスのドアを押す。

秋晴れの空の下、彼女は立ち止まって、バッグから赤い折りたたみ傘を出していた。


振り向いた彼女の険しい目が、これ以上近付くなと言っていた。

三メートル程の距離を保ったまま、俺と彼女は見つめ合った。


サバンナで遭遇した肉食獣と草食獣のように、距離を詰めたい俺と逃げたい彼女。通りすがりの学生達がさり気なく注目しているのがわかる。

それでも、言うなら今しかないと思った。雨が降る気配もないのに傘をかまえる彼女に向かって、俺は声を張り上げた。


「忘れられるわけない。初めて君を見たとき、世界が変わったんだ。

知らなかった頃には、もう戻れない」


長い沈黙が、永遠に続くような気がした。


彼女は何も言わない代わりに、手にした傘を広げた。ぱん、と小気味の良い音がした。

赤い傘が、彼女の白い顔の上半分にだけ、薄桃色の影を落とした。

衣擦れのような音が聞こえたのは、その直後だった。


突然降り出した雨に、何人もの学生や職員が、慌てて学食に駆け込んで行く。

そんな中で、俺は立ち尽くしたまま、ただ彼女を見つめていた。

雨のベールの向こう側で、彼女の唇がゆっくりと動く。


「もし――もし私が、誰かと恋に落ちることがあっても、その相手はあなたじゃないわ。

私は絶対に、あなただけは好きにならない」


「……どうして」


「あなたが私の、運命の人だから」


雨音に紛れて、さよなら、と呟く声が、かすかに聞こえた。君の口からその言葉を聞くのは、二回目だ。


遠ざかっていく赤い傘を追いかける気力は、もう残っていなかった。


今日俺は、二か月付き合っていた女の子に振られて、その直後に運命の相手と恋に落ちて、そして、その彼女に二回も振られた。


最低だ。でも自業自得だ。

最低なことばかりしてきたから、ばちが当たったんだ。


強くなる雨足がパーカーとジーンズをずぶ濡れにしても、長い間その場所から動けなかった。





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