⑤
∞ ∞ ∞ ∞
「橘君。それは錯覚よ」
「錯覚……」
学食の窓際のテーブルに向かい合って座りながら、宝生さんはやけにきっぱりと言う。
俺の前には売店で買ったばかりの缶コーヒー。彼女の前にはペットボトルのミルクティー。
奢るつもりだった俺を押しのけるようにして、彼女はきっちり百四十円を店員に渡していた。
あのあと、トイレから彼女が出てくるのを廊下で待った。
ドアを開けた途端、露骨に迷惑そうな顔をする彼女に、『とにかく一度、落ち着いて話がしたい』と拝み倒し、なんとか三十分間だけ時間をもらった。
彼女が俺に課したルールは、時間制限の他にあと二つ。
図書館の裏庭のように、二人っきりになる場所はNG。
半径五十センチ以内の接近禁止。
どれだけ警戒されているのか、と悲しくなる。でも逃げられるよりはましだ。
そんなわけで、ロマンチックとは程遠い、いつもの学食にやって来たわけだ。
「橘君は、私を《運命の相手》だって思い込まされてるのよ。私のことが特別に思えるのは、橘君自身の心が動いたからじゃない。
外からの力によって無理矢理思い込まされているだけなの」
「外からの力って?」
おうむ返しに尋ねる俺に、彼女は重大な秘密を打ち明けるかのように、声をひそめて囁いた。
「決まってるでしょ? 《運命》よ」
上目遣いになると、瞳の黒さと周辺の白さのコントラストが一層際立つ。
最近は、黒目が大きく見えるようにカラーコンタクトを入れている女子が多いから、彼女の鋭いまなざしが逆に新鮮だった。
冷静になるために、缶コーヒーを一口飲んだ。予想の遥か斜め上を行く回答だった。
「じゃあ、《運命》が俺の心を操っていると仮定して――、一体なんのためにそんなことを?」
「わからないわ。運命はね、気まぐれで、いたずらっ子なの」
まるで、《運命》自体が意志を持っているような口ぶりだ。
……薄々思っていたことだが、俺の『運命の恋人』は、もしかしたら深刻な病に侵されているのかもしれない。
そう、いわゆる中二病、というやつである。
でも俺も人のことは言えない。
子どもの頃から運命の出会いを信じ続けたシンデレラ・コンプレックスこじらせ男と、中二病女子。
なかなかお似合いだ。
俺が他人なら、ベスト・カップル賞をプレゼントして、その後はなるべく関わらないようにそっとしておく。
――運命は、いたずらっ子。
偶然踏みつけた接着剤、くしゃみで外れたコンタクトレンズ、反応しなかった図書館のカード、岩下教授のぎっくり腰。
ここ最近の不幸な偶然の連続には、確かに見えざるものの力が働いているような気がする。
かといって、素直に納得することはできない。運命とか、予知能力とか、にわかには信じ難い。
でも常識に凝り固まった理性を置き去りにして、心が勝手に走り出している。
初対面の女の子と向かい合って座っているだけなのに、こんなにたまらない気持ちになるなんて
――もう俺は、認めないわけにはいかない。
俺は目の前の彼女に――ペットボトルの蓋が開けられなくて、それを俺に気付かれたくなくて必死に平静を装いつつ、渾身の力を込めてひねっている強がりな彼女に、救いようがないくらい夢中なんだ。
「開けるよ。貸して」
「いいの。まだ喉が渇いてないから」
強引に取り上げて蓋を開けると、彼女はものすごく不本意そうな顔で、ありがとう、と呟いた。
「でも半径五十センチのルールは破らないで!」
「どうして?」
「……そんな目で見るのもやめて」
分刻みで禁止事項が増えていく。
でもそれと比例するように、だんだん余裕を失っていく彼女が可愛くてたまらない。
彼女は俺から目を逸らすと、頬を赤く染めながら忌々しげに呟いた。
「……もう。橘君、無防備過ぎる。私まであなたを好きになったらどうするの?」
油断していたところに、内臓を抉るような強烈なボディーブロー。
口にふくんだコーヒーを盛大に噴いた。
彼女の二つ後ろのテーブルに座っていた留学生の男子が、何語かよくわからない言葉を叫んで俺を睨んだ。
申し訳ない。
まさかそこまで飛ぶとは思わなかった。
彼女はというと、バッグから素早く取り出したクリアピンクの下敷きでガードしていたため、無事だった。
テーブルに散った黒い染みを見ながら「だからミネラルウォーターにしたら? って言ったのに……」などと呟いている。
確かに。
売店で缶コーヒーを手に取った時、彼女は『こっちにしたら?』と水入りのボトルを指さした。
不思議に思ったものの、頭を覚醒させて話し合いに臨みたかった俺は、アドバイスには従わずそのままコーヒーを買った。
もしあの水を買っていたら、ここまで大惨事にはならなかっただろう。
白いシャツの胸元に黒い染みが広がってしまった。
やはり彼女に未来が視えるというのは、本当なのかもしれない
「好きになったらどうするの、って……正直に言えば、願ったり叶ったりだけど」
机に飛び散ったコーヒーをティッシュペーパーで拭きながら、つい本音がこぼれた。
彼女は椅子の背もたれにへばりつくようにして、俺から距離を取る。
「いい加減なことばかり言わないで! 私は、今は恋愛なんていう浮ついたものに気を取られている時間はないの。
私達には、もっとするべきことがあるでしょう」
運命の恋人とやっと巡り会えたのに、恋に落ちる以上に重要なことなんてあるのだろうか。
戸惑う俺を見て、彼女は深々と溜息をついた。
「『勉強』よ。あなた、何をしに学校に来てるの? そもそも、どうしてこの大学を志望したの?」
面接官のように厳しい口調。
何かがおかしい。こんな色気のない会話ではなく、もっとこう……愛を語り合ったり、手を取り合って出会えた奇跡を喜び合う、ような展開にならないものだろうか。
彼女の厳しい態度に困惑しつつも、思わず姿勢を正し、ありのままに志望動機を語った。
全国的に言えば中の下レベルのうちの大学を志望したことに、深い理由はない。
実家から通える距離にあって、学費が私立に比べるとリーズナブルで、高二のときの模擬試験がB判定だったから。それだけだ。
「そんなことだろうと思ったわ」
彼女の目つきがますます鋭くなる。
「私は、あなたとは違うの。高校三年生の夏から急遽受験勉強を始めることになって、一年間必死だったわ。
直前の模擬試験の判定はCよ。それでもあきらめなかった。入学できたことは奇跡だって思ってる。だから、ここで学べることは全部吸収して、将来の糧にしようと思ってるの。
つまり私には、恋愛にうつつをぬかしている暇なんてないの。特に、あなたみたいな人とは」
「あなたみたいな人、って……」
「あなたの生活態度を見ていると、明確な目的意識を持って学んでいるとは思えないの。
講義の時も、教授の話に上の空で眠っていることもあるし、友達に代返を頼まれて不正に加担していることもあるでしょう。レポートや課題は真面目に提出しているみたいだけど、真面目に学業に打ち込んでいるとは、到底言い難いわ」
最近の大学生なんて、みんなそんなものじゃないだろうか。
講義にしたって、興味がないもの以外は面倒くさいだけだ。でもその中でも俺は、そこそこ真面目な部類に入ると思う。
……なんだろう。いわゆる、意識高い系、というやつだろうか。
高いのは勝手だが、それを人に押し付けるのも見下すのも勘弁してほしい。
初めて言葉を交わす相手にここまでこき下ろされるのは不愉快だ。
いくら『扱いやすいお人好し』の俺でも、相手が《彼女》じゃなかったら、適当な愛想笑いでこの場を後にし、以後なるべく関わらないようにする。
逆に、ここまで言われても嫌いになれない自分が腹立たしい。
「……随分詳しいみたいだね、『俺みたいな奴』に関して」
「見てたから。入学式で見かけた日から、ずっとあなたのことを見てたから」
皮肉まじりの俺の言葉は、彼女の真っ直ぐすぎる言葉で跳ね返された。
今から一年以上も前の、入学式の日から?
記憶をさかのぼろうとしても、隣に立つスーツ姿のサブローに会場中の女学生の目が集中していたことくらいしか思い出せない。
そんなに前からずっと、彼女は俺のことを――?
入学式の講堂で、学食で、教室で。人ごみに紛れて俺を見つめる健気な彼女を想像して、胸が熱くなった。
「どうして声をかけてくれなかったの?」
俺はずっと、君のことを待ち続けていたのに。
彼女はテーブルの上のミルクティーを一口飲むと、さきほどよりも冷ややかな声で言った。
「誤解しないで。見てたって言っても、そういう意味じゃないわ。正確には、うっかりあなたに遭遇してしまわないように、注意深く観察していただけ」
舞い上がった俺が馬鹿だった。浮ついた気持ちを容赦なく叩き潰され、喉の奥で呻く。
飴と鞭の切り替えが高速過ぎて付いていけない。
「じゃあこの一年半、ずっと俺を避け続けてたの!?」
「そうよ。あなたが立ち寄りそうな場所には近寄らないようにしたし、できるだけ同じ講義を取らないようにもしたわ。さっきのスペイン語が、唯一あなたと一緒の講義ね。本当はフランス語を履修するはずだったのに、教務課の手違いでスペイン語に変更されてしまったの。
《運命》は、どうしても私とあなたを出会わせたいみたいね」
それでもどうにかして顔を合わせないように、スペイン語の授業が始まる一分前に入室し、一番後ろの席に座っていた、と彼女は言う。終わった後は真っ先に教室を出ていたらしい。
わけのわからない彼女の行動に頭を抱える。
俺が待ち焦がれていた《運命の彼女》は、俺が彼女を知るずっと前から俺の存在を認識していて、必死に俺を避け続けていたなんて。