表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命の恋人と恋に落ちないための俺と彼女の実証実験。  作者: 古矢永 塔子
警報です。依然として強い勢力を保つ『運命の恋』の影響で、ところにより激しい涙雨が予想されます。傘の用意をお忘れなく。
10/58

全員の出欠確認が終わると、次回提出用の課題プリントが配られる。

教室が落胆の溜息に包まれた。


さすが岩下教授。急病で倒れようとも学生を甘やかさない。


一番前の席の彼女は、事務の女性からプリントの束を受け取ると、一枚取って残りを後ろに回した。

そのまま素早く立ち上がると、グレーの革のバッグを肩にかけ、逃げるように教室のドアに向かう。


俺も自分のリュックサックを引っ掴んだ。

後ろから五列目の俺の手にプリントが渡るまで、呑気に待っている時間はない。


「住谷さんごめん、俺のぶん、もらっといて!」


勢いにまかせて教室を出る。

すでに彼女の姿はなく、階段を駆け下りるブーツの音だけが聞こえる。


足音を頼りに廊下を走り、四階の階段の手すりから身を乗り出して下を覗く。

三階の階段の中ほどを駆け下りる、彼女の姿が見えた。


「宝生さん!」


思い切って呼びかけると、彼女は顔を真上に向けて、一瞬だけ俺を見た。


……見た、というよりは、睨んだ、という言葉の方が正解かもしれない。


彼女はすぐに下を向くと、俺から逃れようとするように、さらに足を速めた。


「待って、話がしたいんだ!」


人並みの運動神経しか持ち合わせていない俺でも、本気を出せば女の子に追いつけないわけがない。


全速力で階段を降り、最後の四段くらいはジャンプして三階の踊り場に着地した。それでも彼女との距離は、まだ建物一階分。


彼女は肩越しに俺を見て、階段での追いかけっこは不利だと気付いたのか、二階の廊下に走り出た。


まだ他の教室では三時限目の講義中。廊下には誰もいない。


どこかの教室から聞こえる英文の朗読の声に、彼女のブーツの足音が重なる。


「待って宝生さん! 逃げないでよ!」


「ついて来ないで!!」


ときどき後ろを振り返って俺との距離を確認する彼女の顔は、桃色に上気していた。


小柄で、意外に足が速い彼女は、威嚇するように俺を睨む。

一匹狼というよりは、野生の山猫のようだった。

手を伸ばすと、指先が彼女のバッグにかすかに触れた。


あと数センチで追いつく、というところで、彼女は廊下の突き当たりを右に曲がり、すぐそばにあったドアを開けて逃げ込もうとする。

咄嗟に腕を伸ばし、小柄な体に覆いかぶさるようにしてドアを閉めた。


「逃げないで、宝生さん」


俺の荒い息が、俯いて震える彼女のうなじにかかる。

かすかに汗ばんだ肌からは、人工的な香水とは違う、瑞々しい生花のような香りがした。


「……ドアを開けて」


「いやだ。君と話がしたいんだ」


意固地に取っ手を引っ張り続ける彼女の頭上で、ドアを肘から下で押さえつけて体重をかけた。


俺とドアに挟まれた彼女が、狭いスペースで体をねじって振り向いた。

初めて会ったときは一直線だった前髪が乱れて、白い額がのぞいていた。

形の良い眉をきつく寄せて、彼女は強気に俺を睨む。


「開けてって言ってるでしょ! ここがどこだかわからないの!?」


「場所なんて関係ない!」


彼女の勢いにつられて叫びながら、それでもふと、嫌な予感がした。


やけに明るいピンク色のドアには、シンプルな女性の人型のパネルが貼られている。

俺の人生初のドアドンは――女子トイレ。


「もしかして……俺から逃げたんじゃなくて、トイレに行きたかったの?」


彼女の顔が真っ赤になった。


「何で四階のトイレに行かなかったの」


「四階のトイレは清掃中で、三階にはトイレがないの!」


「清掃中って……行ってもないのに、どうして、」


どうしてわかるの、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。住谷さんの言葉を思い出す。


『宝生さんには超能力があって、予言ができる』


――そうだ、あのときも。

図書館の裏庭で、彼女の手のひらに吸い寄せられるように銀杏いちょうが落ちたときも。

遅刻厳禁の講義で、出欠確認の最中に教室にあらわれたときも。

何かおかしいと感じていた。


狙い澄ましたように、《あらかじめ何もかもを知っていたかのように》、タイミングが良すぎると。



もしかしたら、本当に彼女には――


ドアを押さえたまま固まる俺に、彼女はついに、痺れを切らしたように悲鳴をあげた。


「もういいでしょ! さっさと開けて!!」


「……ごめん。大変失礼しました」


速やかに手を離して引き下がる俺を、彼女は涙目で睨みつける。


……おかしい。女の子に怒られて喜ぶような性癖はないはずなのに、胸の真ん中がぎゅっと縮む。

この身悶えしそうな気持の正体は、俺にもよくわからない。



でもとりあえずひとつだけ言えることは――ロマンスが発生する舞台として、この場所は最悪だ、ということだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ