④
全員の出欠確認が終わると、次回提出用の課題プリントが配られる。
教室が落胆の溜息に包まれた。
さすが岩下教授。急病で倒れようとも学生を甘やかさない。
一番前の席の彼女は、事務の女性からプリントの束を受け取ると、一枚取って残りを後ろに回した。
そのまま素早く立ち上がると、グレーの革のバッグを肩にかけ、逃げるように教室のドアに向かう。
俺も自分のリュックサックを引っ掴んだ。
後ろから五列目の俺の手にプリントが渡るまで、呑気に待っている時間はない。
「住谷さんごめん、俺のぶん、もらっといて!」
勢いにまかせて教室を出る。
すでに彼女の姿はなく、階段を駆け下りるブーツの音だけが聞こえる。
足音を頼りに廊下を走り、四階の階段の手すりから身を乗り出して下を覗く。
三階の階段の中ほどを駆け下りる、彼女の姿が見えた。
「宝生さん!」
思い切って呼びかけると、彼女は顔を真上に向けて、一瞬だけ俺を見た。
……見た、というよりは、睨んだ、という言葉の方が正解かもしれない。
彼女はすぐに下を向くと、俺から逃れようとするように、さらに足を速めた。
「待って、話がしたいんだ!」
人並みの運動神経しか持ち合わせていない俺でも、本気を出せば女の子に追いつけないわけがない。
全速力で階段を降り、最後の四段くらいはジャンプして三階の踊り場に着地した。それでも彼女との距離は、まだ建物一階分。
彼女は肩越しに俺を見て、階段での追いかけっこは不利だと気付いたのか、二階の廊下に走り出た。
まだ他の教室では三時限目の講義中。廊下には誰もいない。
どこかの教室から聞こえる英文の朗読の声に、彼女のブーツの足音が重なる。
「待って宝生さん! 逃げないでよ!」
「ついて来ないで!!」
ときどき後ろを振り返って俺との距離を確認する彼女の顔は、桃色に上気していた。
小柄で、意外に足が速い彼女は、威嚇するように俺を睨む。
一匹狼というよりは、野生の山猫のようだった。
手を伸ばすと、指先が彼女のバッグにかすかに触れた。
あと数センチで追いつく、というところで、彼女は廊下の突き当たりを右に曲がり、すぐそばにあったドアを開けて逃げ込もうとする。
咄嗟に腕を伸ばし、小柄な体に覆いかぶさるようにしてドアを閉めた。
「逃げないで、宝生さん」
俺の荒い息が、俯いて震える彼女のうなじにかかる。
かすかに汗ばんだ肌からは、人工的な香水とは違う、瑞々しい生花のような香りがした。
「……ドアを開けて」
「いやだ。君と話がしたいんだ」
意固地に取っ手を引っ張り続ける彼女の頭上で、ドアを肘から下で押さえつけて体重をかけた。
俺とドアに挟まれた彼女が、狭いスペースで体をねじって振り向いた。
初めて会ったときは一直線だった前髪が乱れて、白い額がのぞいていた。
形の良い眉をきつく寄せて、彼女は強気に俺を睨む。
「開けてって言ってるでしょ! ここがどこだかわからないの!?」
「場所なんて関係ない!」
彼女の勢いにつられて叫びながら、それでもふと、嫌な予感がした。
やけに明るいピンク色のドアには、シンプルな女性の人型のパネルが貼られている。
俺の人生初のドアドンは――女子トイレ。
「もしかして……俺から逃げたんじゃなくて、トイレに行きたかったの?」
彼女の顔が真っ赤になった。
「何で四階のトイレに行かなかったの」
「四階のトイレは清掃中で、三階にはトイレがないの!」
「清掃中って……行ってもないのに、どうして、」
どうしてわかるの、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。住谷さんの言葉を思い出す。
『宝生さんには超能力があって、予言ができる』
――そうだ、あのときも。
図書館の裏庭で、彼女の手のひらに吸い寄せられるように銀杏が落ちたときも。
遅刻厳禁の講義で、出欠確認の最中に教室にあらわれたときも。
何かおかしいと感じていた。
狙い澄ましたように、《あらかじめ何もかもを知っていたかのように》、タイミングが良すぎると。
もしかしたら、本当に彼女には――
ドアを押さえたまま固まる俺に、彼女はついに、痺れを切らしたように悲鳴をあげた。
「もういいでしょ! さっさと開けて!!」
「……ごめん。大変失礼しました」
速やかに手を離して引き下がる俺を、彼女は涙目で睨みつける。
……おかしい。女の子に怒られて喜ぶような性癖はないはずなのに、胸の真ん中がぎゅっと縮む。
この身悶えしそうな気持の正体は、俺にもよくわからない。
でもとりあえずひとつだけ言えることは――ロマンスが発生する舞台として、この場所は最悪だ、ということだ。




