令和が始まった後に
時に、初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。
―――万葉集巻五より
予備校の授業が終わった昼下がり、雨の中俺はルーズリーフを買いに本屋へ向かっていた。駅の南口へ向かうため飲食店の立ち並ぶ路地を通って傘をさしながら歩いていた。
駅前はスーツ姿のサラリーマン、お洒落な服を着た緑色の髪の人、制服姿で右手にスマホを持った女子高生たちなど1人として同じ人はいなかった。
ポツポツと降り始めた中、本屋へ行くことも本に触ることすら久しくなってしまっていたなあとアスファルトが湿った匂いを感じながらそう思っていた。それはやつが原因なのは分かっていた。
俺は『小説家になろう』で自身の作成した物語を投稿していた。自己満で投稿していた故にPVもブックマークも少ない方だった。それでも人生の最終目的は小説家として食べていくことだ。その1歩を踏み出せず、中途半端な気持ちで書いていた。それ故に物語を書く手が止まってしまい、時雨のように降っていたアイディアも1週間降ってこなかった。砂漠の真ん中でどこにもない水を求める枯れかけた植物のように、寝ても覚めても頭の中には物語のことばかりで予備校の勉強などに見も入らなかった。
南口の大きなビルの1階と地下1階に店を構えていた本屋の自動ドアを開けて俺は本を避けるかのように文房具が並んである場所へと向かった。整然と商品が置いてある店内で俺は100枚入りのルーズリーフを見つけ、文房具屋のカウンターへと向かった。
「こちらでは会計をしておりません」
特に何もしてないがそれでカウンターの店員に話しかけようとした俺は一蹴された。
仕方なく本屋のカウンターへ向かった。が、自然と脚はレジを通り過ぎて文庫本の置いてある棚へと進んでいた。「これだから本屋へ行きたくなかったんだ」そう心の中で叫んだ頃には遅かった。俺は目に入った本を手に取っては冒頭を読み、手に取っては冒頭を読んでいた。作家独特の言い回しや表現が冒頭の一点に集中しているのを肌で感じた。自分も物語を書いていて全ての思いを冒頭に込めていることを思い出した。
そういえば、冒頭が書けないままスランプに入って手付かずだったシナリオがふと頭の中に過ぎった。それは春休みに友人と遊んだあの思い出を自分なりに物語にしたシナリオだ。とても楽しくて今でも夢の中で同じ日が繰り返されるほど大切な思い出の1つ。だからなかなか冒頭が思いつかなかったんだ。冒頭に対して何か重いものを背負っていたことに俺は気が付いた。
また何冊か本の冒頭を貪っていたらある作品に出会った。どんな冒頭かは忘れてしまったが普通の言葉で書かれた何の変哲もない表現もあまり施されていない冒頭だった。それなのに上下巻に分かれていたその本の最初の1文はとてつもなく大きな気持ちが込められていた。
それを見て俺は泣きそうになった。何故かは分からない。後にどの感情が1番大きいのか整理がつかないだけだった。とにかく沢山の感情が、俺を飛びついて抱きしめるかのようにどっと押し寄せてきた。
「書いてみよう。また書き始めよう」
俺はそう呟いてその本を置き、ルーズリーフを持ちながらレジへと向かった。
「やっぱり本から離れることはできないんだ」
大袈裟かもしれないがこれが俺の運命なのだろう。
相変わらず外はジメッとした空気を帯びながらシトシトと申し訳なさそうに雨が降っていた。駅の中へ入るといろんな感情を帯びながらペチャクチャと遠慮も知らず歩いている人が沢山いた。もちろんカップルもその中にいた。俺はバレない程度にそのカップルの仕草や表情を見てこれから書こうとしている短編小説の男女2人の描写を考えていた。それは物語の中ではたった数行にしかならない描写だったがそれを考えられる時点で俺の砂漠のようにカラカラとした頭の中に雨が降り始めていたことを意味していた。
物語はまだまだ続く。生命がある限り。そして今日は俺にとっての令月だろう。
時に、皐月の令月にして、気淑く雨滴り、若葉は再び太陽を待ち望み、夏に花開かせようと歩み始める。