妖樹戦 その後の後
「ど、どうしよう……まさか、ここに来る前にモンスターに遅効性の毒を……解毒薬を使っても間に合うかどうか」
意識を失ったレオンを抱えながら、エルシアはとても焦っていた。
つい数時間前まで元気に沼地を探索していた冒険者が、宿に戻ってベッドに臥し、そのまま帰らぬ人となった話は有名である。
沼地を出たら、たとえ目に見えぬ外傷はなくても解毒薬を飲む……金銭的に余裕がある冒険者たちは、十分な安全を確保するためにそうしている。
エルシアの中で、まだレオンに対する憎しみは消えていない。
それでも、たとえ憎い相手だとしても、両腕を力なく垂らして昏睡している者を放っておけるほど、彼女は冷たい人間でもない。
それに……助けてもらった恩もある。
「はやく、わたしの解毒薬を……」
エルシアは腰に巻いたポーチからガラス瓶に入った解毒薬を急いで取り出し、コルクの栓を取った。
意識のないレオンに解毒薬を飲ませるために、エルシアは躊躇なく泥の地面に膝をつき、レオンを抱きかかえ、左手でそっと頭を支えた。
「ん……」
「よかった、まだ間に合う」
「(ゴクゴク)……すぅすぅ」
口の中に解毒薬を流し込むと、レオンは苦しそうに表情を歪ませながら、小さく吐息を漏らしたが、解毒薬を飲み終えると安らかに寝息を立て始めた。
幸い顔色も悪くない。
これなら、命に別状はないだろう。
ほっと胸をなでおろしたエルシアは、表情のない顔つきで静かにレオンを見つめた。
つい数時間前の私だったら、こんなにも心配して介抱することはなかったはず。
あんなに憎んでいたのに……分からない。
芽生えた不思議な感情……エルシアにはそれが何なのか、まだよく分かっていなかったが、静かに見つめる彼女の瞳には、優しさと温もりがこもっていた。
「……今から町に戻るのは危険ね」
太陽が山影に姿を消し、辺りは暗くなりつつあった。
東の空は、すでに星々が煌めき始めている。
エルシア1人だったら、今からでも町に戻ることが出来る。
しかし、眠ったままのレオンを置いていくことは出来ない。
仕方がない、エルシアはここで野営することにした。
迷霧エリアや毒沼エリアに住む夜行性のモンスターたちも、樹魔たちが密集するこの場所にはやってこない。
エルシアはレオンを背負い、真っ二つに割れた妖樹の平らな幹の上に登った。
妖樹から不燃性の液体が染み出し、幹についたすでに火は消えている。
幹の中心部分からは染み出ていなかったので、そこにそっとレオンを下ろし、横にさせた。
エルシア自身も静かに腰を下ろし、体を休める。
ポーチから紙に包んだ非常食の干し肉と、パンを取り出してお腹を満たした。
通常の野営であれば枯れ木や薪を集めて、火打石と火口で火を起こすのだが、周りには樹魔しか生えていない。
樹魔は非常に燃えにくいので、今回は焚火をすることができない。
月の光しかない、暗い沼地……夜が訪れると、エルシアはいつも恐怖に駆られる。
毎晩かならず夢の中にやってくる死んだ村人たち、シェイラに怯えるのだ。
暗闇が怖い……暗闇が彼らを連れてくるから。
だからこそエルシアは、いつも寝る直前まで必ず明かりを絶やさない。
恐怖を和らげてくれる明かりが欲しい、温もりをくれる炎が欲しい。
「すぅすぅ……ぅん」
暗闇に耐えること数時間、すっかり気温が下がり肌寒くなった。
吐く息が白い霧となってたなびく。
隣で眠っていたレオンが身を縮ませ、寒さをしのぐように震え始めた。
「……温めてあげたいけど毛布もないし」
軽やかな身のこなしを武器とするエルシアの装備は、軽量な物ばかりであまり防寒対策もされていない。
エルシアは申し訳なさそうな表情でレオンを見つめながら、彼女自身も寒さに体を震わせた。
……恥ずかしいけど……しょうがないよね。
エルシアはおもむろに防具を外し始めた。
純白の毛皮と艶やかなミスリルで作られた胸当てや籠手を足元に並べる。
彼女は、灰色の質素な薄い上着だけを着た姿になった。
華奢な肩幅、膨らみのあまりない胸元、透き通るような白い肌……大人の色気といったものとは無縁な容姿をしているが、高潔で、それでいて可愛らしい一面もあるエルシアらしい少女的な出で立ち。
エルシアは、寒そうに震えているレオンの背中を見つめるように横たわる。
一瞬、躊躇するような表情をしたが、それを振り払ってゆっくりと手を伸ばし、レオンの背中に抱きついた。
「……私が妖樹を倒すはずだったのに……しかも、いきなり倒れて私に気を使わせて……そのうえ、こんなことまでさせるなんて」
頬を赤く染めながら、エルシアは静かに愚痴をこぼす。
けれど、彼女はそこまで悪い気分ではなかった。
こんな恥ずかしい事、普段のエルシアなら絶対にしないし、今まで一度もしたことがなかった。
彼女自身、自分の行動に驚いていたが……たぶん、安心が欲しかったのだろう。
言葉では表せない不思議な温もり、男らしい広くて逞しい背中。
エルシアの中の孤独や不安、恐怖が解けて消えていった。
こんなものを知ってしまったら……私はきっと、もう元の私には戻れない。
頭の中では分かっていても、どうしても離れることが出来ない。
甘く心地よい安心感に包まれたエルシア。
今までため込んでいた疲労がまるで奔流のように、どっと彼女に押し寄せる。
彼女はゆっくりと目を閉じ、深い眠りについた。
月の光が優しく2人を照らす。
この日、エルシアは久しぶりに悪夢を見なかった。




