契約内容
何が起こったかまるで理解できない。
目の前の気配が様変わりして広大な草原や荒野でも広がれば、きっとこれから冒険が始まるのだろう。しかし、幻惑から解放されて目に入った景色は特に変わり映えはない。机のないだだっ広い部屋。薄く埃の積もった板張りの床。窓の外から差す西陽の傾き具合。どれも魔法陣を踏んで、光に包まれたところから変わり映えがない。
代わりに変わったところと言えば、そのチョークで描かれた魔法陣がきれいさっぱりなくなっていること。一緒に来たはずの富田とメガネがいないこと。目の前にいる背の高い少女の姿。
こいつはトンチンカンなことを言った。
高校生を始めて百年になると。うちの高校に留年生はいるが、最終年度は六年だ。つまり百年もいることはできないし、年齢も百十六歳だとかとんでもないことになる。
「どうしたのっ、ちょっとぐらいは感慨に浸りなさいよ。あたしに選ばれるってとっても幸運なことなのよっ」
「こう……うん……?」
「あたしみたいな可愛いコと付き合えるってことっ」
同意見だ。線の整った顔立ちにスレンダーな体型。身長差の関係上少し見下ろされているのは癪だが、彼女は申し分のない美少女だった。――少々胸元が寂しいが。
「今、どこ見てたの?」
うわさに聞いていた、“つつましやか”とは、“ひかえめ”のことを指すのか。少しだけ落胆すると、それに彼女が落胆のため息を重ねてきた。
「もうっ、男の子ってほーんとスケベで風情がないんだから」
「あのっ……」
「なあに?」
彼女はどこか苛立っているようで、刺々しい返事をする。
少し怖い。腕力とかそういうことではなく、精神的な気迫を感じる。女子が怒ったときに漂わせるあの独特の気迫だ。
「いや、あの。一緒にいたふたりを知りませんか?」
「ああ。この世界のふたりは帰っちゃってるよ」
あっけらかんと答える彼女。
返答内容に唖然とする俺。“この世界の”――まるで、自分が異世界の住人であると自覚しているような口ぶりだ。
「この世界――?」
「ああ。そうそう、君は異世界に召喚されたの」
それはライトノベルの冒頭での決まり文句のような台詞だった。
異世界。そこにはドラゴンや魔法使い、エルフに獣人が住む自然が豊かで中世風の建物が並ぶ風景が広がっているというのがテンプレだ。
ただ、今自分がいる世界には、そういったものがまるでない。まったくもってさっきまでの現実と変わらない。
「まあ、異世界というよりはパラレルワールドのようなものね。君が人生をやり直すきっかけになることもなければ、元の世界に戻ることを懇願することにもならないわ」
パラレルワールド。SF作品でよく耳にする言葉を口ずさみながら、彼女は部屋の隅に置かれた植木鉢に植えられた小さな樹木の枝を撫でる。見た目からは和の雰囲気はないが、盆栽に似ている。その小さな木は幼木ではない。数え切れないほどの無数の枝を生やした異様な姿。そして、その無数の枝の中の一本に、一輪の花を咲かせているのだ。鮮やかな紅い色をしている小さな花。それを彼女は柔らかな指先で指す。
「こいつは、あたしたちがいる世界の地図みたいなものよ。世界はひとつだけじゃなくって、いくつもの可能性でできているの。それがこの枝の一本一本。花が咲いているところが、あたしたちのいる世界。
君はこのすべての枝に共通している存在だけど、それぞれの意識を共有していない。その中のひとりの君を、あたしはここに招き入れた。
ここはね、有象無象の世界の中で唯一、あたしが存在する世界なの」
つらつらと語る彼女。
確かに百歳を超える女子高生なんていうとんでもない存在も、有象無象の世界の中のひとつにすぎないとすれば、納得できるのか。いや、やっぱり、わからん。
「あ、あの……でも、具体的に何が違うのかよく分からないというか」
「あたしがいる世界はこのひとつだけ。そしてこの世界の時空間は歪んでいるの。ちょうどメビウスの帯みたいにね。
――この世界では、一年しか時が流れない。一年経った先はちょうど一年前とつながっているの。だから、私は歳をとらない」
一年しか経たない世界。
一年経った後は、時は止まるわけでなく、そのそっくり一年前に繋がって循環するという。
歳を取らない。ずっと高校生のまま。そう考えると、羨ましいような、でもどこか悲しいような、不思議な気分になった。
「じゃ、じゃあ俺はここでずっと高校生活を――」
「一年が経てば、君の意識は元の世界に帰るわ。そういう契約なの」
「それで、あ、あのえっと、――常夜さんは?」
名前を呼ぶと、彼女はあからさまに機嫌を悪くして、腕を組んで目を反らす。
「えっ、えっ、な。なんか悪いこと言った?」
「この世界では、あたしと君は恋人同士よ。恋人なら、名前で呼びなさいっ」
「え、えー」
よくよく考えれば、女子を下の名前で呼ぶことなんて初めてじゃないだろうか。休み時間はエロいことか、バカなことしか話していない。女っ気などあったものではないのだ。
そんなことを考えると、余計にこっ恥ずかしくなってきた。
「み、美鈴さ……ん……?」
「どもった、やり直し。あと、“さん”をつけると他人行儀みたい」
「美鈴――」
「声が小さい。なんで尻すぼみの発音なのよ」
「美鈴」
「感情がこもってない。やり直し」
「美鈴っ!」
意味の分からない発声練習が続いた。
恥ずかしさなのか、何回も声を出したことで高揚したのか、真っ赤になった顔を彼女は笑っていた。
「いや、じゃなくて。美鈴はどうするの?」
「あたしは、この世界に残る。そうしてまた誰かをこんな風に自分の人生に巻き込むの。それであたしは、永劫の時間を浪費する。――でも、おばあちゃんになって死んじゃうよりはずっとマシだわ」
そう呟く彼女は、どこか寂し気な表情をしていた。