落ちてくる水飴を待つ我々
感動はお手軽なものになった。
家にいても美しい景色は画面越しに見える。
いやいや、景色は五感で感じるものだ。
家で美しい景色の風は感じられるかい?匂いは?無理だろう。
家にいても美しい物語は見られる。
これは素晴らしいことだ。
感動や美しさはお手軽なのだ。
鼻紙のように使い切ったら捨てていこう。
いやいや、自らの体験ではないそれは擬似的な感動だ。
登場人物は実際にいるのかい?そんなに美しい人間が?魅力あふれる神秘や法則は物語の中だけものさ。
感動はお手軽なものではないのだ。
しかし感動とは人の心だ。
人によっては容易く得られるし、人によっては得るのは難しい。
どちらが人生を楽しく生きているかは論ずるまでもないことだが、小賢しい我々は慣れていき、感動は鼻紙の如く消費される。
そして、感動は気軽に量産されていくのだ。
いい時代に生まれたものだ。
やな時代に生まれたものだ。
矛盾を孕む事は決して悪くはない。
潔癖な貴方は耐えられないかもしれないが、言うまでもなく、矛盾とは目立つ汚れなんだぜ?
君は、これまでの人生で美しいものに出会えたかい?
私はたくさん出会えたよ。
感動は、お手軽だ。
では、君を変える美しいものには出会えたかい?
私はまだ出会えていない。
宝物は増えていくごとにこの輝きを失う。
伝えつくされた美しさ、感動は色あせて見えて。
貴方の感動は地に落ちていくのだ。
感動は虚像によりお手軽。
実像もいずれは追い越す日が来るのだろうか?
ああ、けれど心が揺さぶられる美しさは、私にとって虚像でしかありえなかった。
現実のソレを見つけるより、想像する方が容易いのだ。
ああ、なんて美しい物語、登場人物、世界なのだろう。
実像のほうが衝撃は大きく、感動的かもしれないが。
我々の重い身体には虚像の美こそが良く見える。
実像よ、悔しければ私の前に来るがいい。
ソレが出来ないから現実は我々にとって価値が薄いのだ。