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杜の都  作者: 武田道子
9/18

春香


     9

 毎朝目を覚まし、コーヒーを入れ、縁側に座って、桜の木を鑑賞するのが私のここでの生活の日課となった。思えばずいぶんと優雅な贅沢なことだ。人生の半分以上をアメリカで暮らしたにもかかわらず、このように仮の家に暮らしていても、身も心も休まるのは、やはり日本が私の血であり、肉であるからかもしれない。アメリカの暮らしは、何事にも束縛されず自分らしく生きていける。近所付き合いも、町内会もなく、何をしても、何を食べても、どんな格好をしていても、たいていの場合は気を使う必要はない。特に西海岸に住んでいる人々は、考えも進歩的なので、自由奔放に思うままに生きられる。けれどもどんなに生活に慣れ、アメリカで生活を営んでいても、自分の家を持ち、仕事を持ち、この土地で最期を遂げるとしても、私の魂はアメリカと平行線で進んでも、溶け合うことはないだろう。幼少から育った国、その国で言語を学ぶことによって、その土地の、その国の人間と呼ばれ、その国の人間だということができる。ちなみに外国人が言葉を学んだだけでは、その国の血を引くことはできないのだ。

 翻訳と言う仕事をしていると、しみじみと言葉では表現のできない壁にぶつかってしまう。翻訳をすることと、人の心を理解することの難しさはどこか似ているように思う。 

 洵が昨夜自分の気持ちをいろいろ話してくれたことを思う。私はかれの言葉のうちに秘められた深く底知れない彼の心の中を思う。彼が私の心に聞いてほしかったことを感じる。彼が命が重荷でしかなくなったと言ったことが、心に引っかかっている。この朝の爽やかな光の中に洵の暗い影の部分が共存している。眩しすぎて目をつぶると、そこには闇の世界がある。

 人は己の力ではどうにもできないことの前ではひれ伏すしかなく、洵の心は癒されることはないのかもしれない。親としてこんなに辛く切ないことはない。藤子さんはこのやるせない切なさに耐えることができなかった。生きるということは、自分だけのことではなく誰かと関わって生きているからこそ、その意味もまた深く、だから悲しみもいっそう深い。ましてや時分の愛する人ならば・・どうやって耐えていけばいいのだろう。まさしく悪夢に違いない。いや拷問だと思う。悪夢なら覚めることもあるだろうから・・・ 

 俊君がああして生きていることが、どういう意味があるのか、私にも分からない。私も洵と同じだ。自分が、人が何のために生きているのかいまだに分からない。そのようなことをまるで考えずに生きている日のほうがずっと多い。


 「おかあさーん」

 裏木戸をたたきながら、春香の呼ぶ声に私は我に返った。

 「どうぞ、開いてるわよ」

 「おはよう、お母さん」 

 「おはよう。久しぶりね。それに春香にしては朝早いこと」

 「うん。お母さんと朝ごはん食べようと思って、パン買って来た。それからチューリップ」

 「パンだけじゃなく、お花ももらえるの。カンゲキ!」

 「バス停の前の花屋さんのチューリップがあんまりきれいだったから。そしてその隣のパン屋さんからのパン」

 「ありがとう。春香もよく気がつくようになったのね。いつの間にか成長して」

 「いやだ、お母さん。このぐらいのことで、喜んでもらえるんだったら、いつでもするわ」

 「たまにこうして、思ってくれるから嬉しいのよ。春香はコーヒー飲む?」

 「うん。飲む。これでも結構通なんだ。勇君に特訓受けているからね」

 「勇君に・・勇君の淹れたコーヒーおいしい?」

 「とってもおいしいよ。喫茶店のコーヒーと同じぐらい。インスタントコーヒーだって、すごくおいしく淹れるのよ。料理も上手だし、できないのは英語ぐらいかなぁ、と言ってもかなりできるけどね」

 「春香は勇君の家に行ったことあるの?」

 「うん。時々行くよ。英語を手伝ってあげると、晩御飯ご馳走してくれるの」

 「勇君のお父さんには会ったことがある」

 「まだ一度も」

 「そうか」

 「お母さん、朝ごはん食べよう。今日は私が作ってあげるから、仕事してていいよ」

 「本当。じゃ、おことばに甘えて」

 春香はチューリップとパンを持って台所にたった。しばらくするとコーヒーのいい香りがしてきた。自分で毎朝入れるコーヒーも悪くはないが、人にいれてもらって飲むコーヒーは一味違う。さて春香が勇君から手ほどきを受けたコーヒーが、香りと同じぐらい味もいいかどうか楽しみだ。特に洵の血を受け継いで、勇君もコーヒーや料理には学生時代の洵ぐらい凝っているようだから。勇君は洵のことどう思っているのだろうか。あまり時を一緒に過ごしていないようだが。お互いに顔を合わせて、俊君のことが話題になるのを避けているのだろう。勇君に責任を押し付けていると知っていることが、洵をもっと苦しめていることは夕べの話から察しられる。俊君に奇跡が起こらない限り、洵の家族は大きくひびが入ったままで終わりを遂げるというのだろうか。

 「お母さん、どうしたの。暗い顔して。大丈夫?」

 春香が淹れたてのコーヒーをお盆に載せて持ってきてくれた。

 「ううん。なんでもないの。ちょっと考え事してただけ。どれどれ、初めて飲む春香のコーヒー、どんな味でしょう」

 私はいつものように、コーヒーカップを鼻先まで近づけた。純粋なコーヒーのいい香りがした。一口すすった。ちょっと酸味のある滑らかなグァテマラだった。

 「どう」

 春香のちょっと心配そうな目が私の答えを待っている。

 「及第よ。香りも味も大変よく出ています」

 「きゅうだいって?」

 「試験に合格、パス」

 「本当! お母さんに飲んでもらうまでは心配だったんだ。だってお母さんはコーヒーに関してはかなりうるさいほうだもの」

 「春香が、こんなにおいしいコーヒーが淹れられるようになるなんて、本当に以外よ。勇君は良い先生のようね」

 「うん。今パンをトーストしてるから、ちょっと待ってね。日本のパンっておいしいね。お母さん目玉でいい?」 

 「ええ、いいわよ」

 春香の朝食はとても簡単な、目玉焼き、トースト、コーヒーといったメニューだった。若草色のスプレーでもかけたように、庭の桜の木は衣替えを始めていた。

 「もう桜も終わりね」

 春香がトーストをかじりながら言った。

 「そうね。お母さんが来たときはやっと二分咲きぐらいだったのに。あっという間に咲いて散ってしまう。でもこの家に住まわしてもらったおかげで、毎日十分に味わわせてもらったわ」

 「私も日本に来てよかった」

 「そう。お母さんも春香がそう思ってくれて嬉しい。私は日本が好き、桜がすき。春香と若菜が、日本語を話せてよかった。言語を知ることは、その言語では現せない大切な部分を分かるのに欠かせないことなの。お母さんの言ってること分かる?」

 「うん。多分」

 「人の心、気持ちはどの国の人も変わりないかもしれない。でもそれぞれの文化や環境で、感じ方が微妙に違っていることもあるの。そういうことは学校や教科書では学ぶことはできないから、こうして春香のように、その国に住み、体や心で感じて学んでいくことが最適だと思う」

 「私日本に来て、自分が日本人だと思った」

 「それじゃ、その前はなに人だと思ってたの?」

 私は笑って春香のまじめな顔を見た。

 「お母さんと同じ。宇宙人。エリアン」

 「宇宙人? どうして」

 「学校の個人調査の欄に、白人、アフリカンアメリカン、アジア、太平洋諸島、ヒスパニックとかあるでしょう。私に当てはまるところがないの。私のようなハーフの子は、その他の欄があれば、そこに丸を付ける。もしなければ、白人かアジア人か、そのときしだいで換えちゃう。要するに国籍不明」

 「私も気がついていたわ。嫌な思いした?」

 「ううん。考えさせられた。私はお父さんに似てるから、アジア人と書くとなんだか変だし、白人と書くのもなんだか違和感があった。でも日本に来て思ったのは、普通の白人の子とは違って、私には、ここに住んでる日本人が感じることを、同じように感じられているっていうことなの。それに気がついたとき嬉しかった。外から見た私はもちろん普通の日本人には見えないけど、私には本当に日本人の血が入っているんだななんて思ってね。そしてなんだか得した気持ち。だって私はアメリカ人と日本人の持つ感性両方を持ってるから。そういうことって人として生まれて、とても素敵なことだなって思う」

 「お母さんもそう思う。私がどんなに長くアメリカに住んでいても、春香が持ってるような感性は身につかないわ。その代わり日本人の持っている感性をどんなに日本から離れていても決して失うことはないけど」

 「お母さん、私日本にずっと住もうかな」

 「あなたがそうしたいなら。自分で自立できるのなら、反対する理由はないわ」

 「ありがとう。きっとそう言ってくれると思ってたけど・・・」 

 「思ってたけど・・なーに」

 「お母さん一人だから」

 「心配してくれてるの。嬉しいな。でもちょっと悲しいな」

 「えっ、どうして?」

 「うそよ。悲しいって言うんじゃなくて、私が、春香にそんなことを言ってもらえる年になったんだなって思って。違うのよ。自分のこと言ってるんじゃないの。春香が一人前に成長してくれた喜び。でもその喜びはちょっと複雑な気持ち」

 「お母さんが、おセンチになるなんてことないと思ったけど、やっぱりお母さんも普通の人なんだ」

 春香はちょっと湿った空気を変えようとでもするかのように、笑いながらちゃちゃをいれた。

 「そういうことになるかな」

 「悲しいって言うより、淋しい?」

 「うーん、どっちも少しずつ」

 「やっぱりお父さんがいなくなったから、独りは淋しいよね」

 「それはそうね。でも春香や若菜がいるから、いつも励まされた。私とお父さんの自慢の娘たちだからね」

 「再婚なんて考えないの?」

 「お母さん、再婚してもいいの?」

 「いいよ。もちろん。お母さんまだ若いし、結構きれいだし。そういう出会いがあれば最高じゃない」

 「ありがとう。でも一人も悪くはないのよ。友達もいるし、仕事もあるし。今は自分のことをもっとしっかり見つめて生きたいなあなんて思ってる」

 私は洵と自分のことを春香にいつ言おうかと迷っていた。別に隠しているのではないが、ただ躊躇していた。私は二十五年も前の昔の恋、しかも失恋した恋を、なぜかいまだに心の奥に大切にしまっていた。それは本当の初恋だったからだろう。青春のセンチメンタルな思い出。人にはそういった誰とも分かち合いたくなく、自分一人の心の中にいつまでもいつまでも留めておきたい思い出があってもいいのではないか・・・なんて。

 「春香、お母さんね、ちょっとお話があるの。別にたいしたことではないんだけどね。お母さん勇君のお父さんを知っているの」

 「勇君に聞いた」

 「えっ、いつ?」

 予期しない答えに私は驚いた。

 「お母さん、勇君のお父さんと俊君のお見舞いに行ったでしょ。そのとき勇君のお父さんとお母さんが話をしているところを見たんだって。それで、その後お父さんに聞いて、二人が学生のころ、友達だったって」

 「そうなの。もう知ってたんだったら、わざわざ話すこともないわね・・・」

 「勇君のお父さんとお母さんはつきあっていたの?」

 「ええ。私は振られたほうだけどね」

 私は洵が勇君に話したことに半ば驚いたが、それこそ何も隠すようなことがあったわけでもないのに、自分が春香にすぐに言わなかったことが誤解の種にならねばいいと思った。

 「お母さんなぜ私に話してくれなかったの」

 「どうしてかな。二十五年も前の振られた彼に、偶然に会うなんてちょっとありえないじゃない。ずーっと昔に眠ってしまっていた私の青春の思い出を、不意に目覚めさせられたから、驚いたのかな。そして驚いた自分にもっと驚いたからかもしれない。それに春香の友達のお父さんだと分かったら、ちょっと調子悪くなったせいかな」

 「それでどう思ったの? また逢えて嬉しかった?」

 「そりゃ嬉しかったわ。なんていっても二十五年ぶりだもの」

 「今でも好き?」

 「好きよ。でも春香がもしかしてなんて思ってるようなことはないわ。ただ昔の友達として懐かしいと思って、嬉しかっただけ」

 「そう。がっかり」

 「がっかり?」

 「私にすぐに言ってくれなかったから、お母さんがもしかして、また好きになっちゃったかななんて思ってたの。せっかく昔の彼に会えたんだから、何かあるのかなって」

 「また恋をするってこと?」

 「うん」

 「それは無理ね」

 「えっ、どうして」

 「どうしてって・・恋とかって、春香も知ってるでしょうけど、しようと思ってするわけじゃないでしょ。自然にそうなるっていうか、気がついたときそうなっていた。それが恋でしょ。もうそういう風に自然にも故意にも恋はできないと思うわ。大切な人を二人もなくしたの。私の人生において最高の二人だったから、もうそういった出会いってありえないの」

 「二人って、お父さんと勇君のお父さんってこと?」

 「そう。人生には本当の恋って、一つだけでも素晴らしいと思う。でも私は二度も素晴らしい人にめぐり合えることができたわ。勇君のお父さんのおかげで、私はあなたのお父さんと出会えることができた。振られたことに感謝ね」

 「でも、勇君のお父さんは・・・」

 「洵さんは、家庭があり、私も家庭があり、今はそれぞれの道を歩いている。二十五年も前のことは思い出として残っているけどそれ以上でもそれ以下でもないの。もちろん勇君のお父さん、私の学生時代の友達としてならこれからもお付き合いしていくつもりよ。勇君のお父さんだって私と同じ気持ちだと思うわ」

 私の言ったことは本当だった。洵を今でも大切な人だと思っている。ほんの少しの時間だったが、同じ時間と時限に生き、同じ音楽を聴き、同じ映画を見、同じ食べ物を食べ、同じ空気を吸い、同じ空を仰いだ。そんな普通なことでも、意識して同じ時を分かち合うことのできる人は、長い人生そんなにいるものではない。


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