『明生』の家
8
「宮町に来るのは何年ぶりだろう。何十年って言った方がいいかもしれないな」
「この前春香が来たとき、二人で東照宮に行って、お花見をしてきたわ。昔と全然変わってなかった」
「今夜は暖かいし、少し歩いてみないか。東照宮」
「いいわ。あんなに食べた後に、あれだけの階段が上れるかどうかちょっと心配だけど」
私は笑って言った。
「君といると今の自分の年や環境なんか全部忘れてしまうよ。二十五年前に戻ったような錯覚をしてしまう。それとも飲みすぎたせいかな」
洵も笑った。少し淋しそうな、乾いた笑いだった。
思っていたより、階段を登るのは苦ではなかった。町の明かりや灯篭の明かりで、境内はぼんやりと明るかった。桜の花びらが音もなく散っていた。私は声をなくしていた。
「あまりの美しさに、声も出ないってこんなことだね」
洵が囁くように言った。
「ええ」
私は自分の半ば催眠にでもかかったようにぼんやりとした声を聞いた。美しいと言う言葉だけでは到底この美しさを表現できなかった。言葉には限界があることをいつも私は何らかの形で知らされる。
「ここからは町が見下ろせる。ちょっと座ろうか」
洵は手に持っていたコートを石の階段の上に引いた。
「私ならいいのよ。コートが汚れるわ」
「別にかまわないよ。石段は冷たいから。ね」
「ありがとう。あなたは昔から、紳士的だったわ」
「これが初めてだ。君に会って以来ほめられたのわ」
「そうだった・・・ さっき最高の友だったとも言ってあげたと思うけど」
「そういえばそうだったね。じゃこれで二つ目か。以前ここに座って、こうして町を見下ろしたことがあったね。今思えばまるで夢のようだ。あの時僕は自分がいっぱしの大人だと思っていた。君から自分が言った事やした事をきかされて、考えさせられたよ。でも今こうして二十五年たって、昔のことを思い出すと、あのときの僕はなんにも分かっちゃいなかったんだなっていまさらながら思い知らされたよ。本当の大人になるってことがどんなことなのか、想像さえもしていなかった。僕のこの二十五年が、夢でも想像でもない実際に大人になった結果だ。悲しいことにね」
白い桜の花弁が音もなくふり続ける。何事にも、どんなに美しいものにも、終わりはある。悲しいことにも終わりはあると私は思う。
この二十五年私にもいろいろあった。私の人生だって、何一つとして想像したり、計画を立ててできたものではない。
「後悔してるの」
「・・後悔と言うのとも違う。ただ人生には己の力ではどうすることもできない何かが作用していて、それにはどうあがいてもどうにもならないと言うことさ」
「確かにそうね」
「今度僕と俊の見舞いに行ってくれないかな」
洵は突然立ち上がると言った。立ち上がろうとする私に手を差し伸べ、引き上げてくれた手は冷えていた。
「もちろん」
私は明るく答えた。私には今の洵の悲しさを癒してあげることはできない。せめて彼が、これ以上彼の抱えている悲しみの奥底まで沈みこまないように、何かできたらと思った。
もう遅いせいもあり、境内には人の気配はなかった。
「やっぱりやめておこう」洵がまた突然に言った。「バケーションに来ている君に、またいやな思いをさせてしまう」
「そんなことないわ。あなたのもうひとりの息子さんにも会ってみたい」
「聞かなかった、春香ちゃんから。俊は枯れ枝みたいなんだよ。青年としてそぐう物は何のかけらも身につけてない。それどころか、人と呼ばれる価値もない」
「洵・・」
私は言葉につまってしまった。彼の心の傷は私が思っていたよりもずっと深く、二十五年ぶりであった私などには、生半可な慰めの言葉を口にすることさせえ不謹慎に思われた。洵は泣いていた。私の心もひどく痛んだ。けれど洵の傷みは私の想像に絶するものだ。身もだえするほど、いやそれ以上もっともっと。
「すまない。とんだ恥をさらしてしまったね。君と酒を飲み、うっかり気が緩んでしまったようだ。情けない男だ」
「誰だって、気を許したくなることがあるわ」
「そうか。でも恥ずかしいよ。いい年して、何十年ぶりであった君にみっともないところを見せてしまって。それとも年のせいかな。
恥も外聞もなくしてしまって」
洵はかすかに笑った。
「うちに来てコーヒーでも飲んでから帰ったら。あなたほどおいしいコーヒーは淹れられないけど、私も二十五年前よりは腕が上がったはずだけど。ひとつあなたにテストしてもらおうかしら」
「そうか。ならご馳走になろうかな」
いつの間にか上がった月が頭上から私たちを見下ろしていた。桜の木が幽玄に浮かび上がり、自分がこの世ではないところにいるような錯覚を起こさせた。しばし私はその場を動くことができなかった。
私たちはどちらともなく歩き始め、石の階段を下りた。天から地上へと下るように。
洵はものめずらしそうに、わたしの仮の住まいを見回していた。
「素敵な家でしょ。マスターのおばあさんが住んでいたんですって。見て、ここにも見事な桜があるの。これはマスターのおばあさんの恋人が、戦争に行くときに肩身としておばあさんに贈った木なんですって。マスターが言うには、その恋人は、おばあさんと結婚をと考えていたのだけど、もしかして自分が帰ってこれないこともあるかと思い、求婚はせずに、桜を置いていったということよ。そして、おばあさんはその桜を毎日見られるところに植えて、恋人の帰りを待ったそうよ。やはり、恋人は帰っては来ず、おばあさんは別な人と結ばれたんですって。マスターが高校のころ、病気をして、この部屋に寝て、おばあさんに看病をしてもらったときに、マスターにこの木のいわれを話してくれたそうよ」
「すごいロマンチックな話だね」
「そうでしょう。なんだかうらやましい話だわ。それにそのおばあさんはすごい美人だったそうよ。私は本当に光栄だわ。こんな素敵な話のある、素敵な家を借りれたんだもの。この家に慣れればなれるほど、ここにずっと居たくなってしまう」
「君はここにいつまでいるの」
わたしが入れたてのコーヒーを彼の前に置くと、コーヒーカップを鼻の辺りまで持っていき、その香りを嗅ぎながら、洵は言った。
「一応仕事の決着がつくまで」
「というと・・」
「一ヶ月くらい。家の事もあるし、ずっと居たくても、そうもいかないの。下の娘はまだ高校生だし」
「そうか。仕事どう? 順調に行ってるの」
「ええ。やっぱり、直接人と話ができると、ずいぶんはかどるわ。メールや電話は便利だけど、思ったように、思いや考えが伝わらないと本当の翻訳って難しいこともあるから。私のこの二十五年をかけて学んだ大切なことの一つよ。人と面と向かって、話し合うと言うこと。昔は人が恐くて、いつも何とか避けてうまくいく方法ばかりを考えていた。結局は、自分の気持ちを伝えることはできずに、あやふやなままで、不快な気持ちが残っただけだった。今は嫌な人でも、ごまかしたり、逃げたりしないで、どんな状況でも、仕事でも、家庭でも、しっかりと、相手と向き合っていくよう心がけている」
「君はすごいね。昔から真っ直ぐな人だと思っていたけど」
「あなたはいつも真っ直ぐだったわ。私もそうなりたいと思った。でも私はあなたほど、自信もなく、頭も良くなかったから、なかなか勇気が出なくて」
「僕は君が思っているような男じゃないよ。現に君に言われたじゃないか、僕は心無く、君を傷つけるようなことをずいぶんと言っていた。それに・・・・」
洵は言葉を止めた。
「君がこんなに美味いコーヒーを入れるなんて、お手上げだ」
「それって、ほめてるの、皮肉?」
私は彼が本当に言おうとしたことはなんだったのかと思いながら、笑って言った。
「もちろん褒めているんだよ。惜しいことをしたよ、こんなにおいしいコーヒーが入れられる人を妻にしなかったんだからな」
洵は言った。その目が一瞬私の目を見つめたように思ったが、彼はすぐにコーヒーカップを持ち、残りのコーヒーを飲み干した。
「さあ、そろそろお暇しようか。つきあってくれた上に、僕のみっともないところまで、見せてしまった。ごめんね」
「ぜんぜん。ご馳走してくださりありがとう。・・・昔の友達にあえて嬉しいわ。俊君のお見舞い、私ならいつでも都合がつくから言って」
「ああ。ありがとう。そのうちに連絡するよ」
マスターのおばあさんの人生はどう違っていたのだろうか。もし恋人が戻っていたなら。私の人生はどう違っていたのだろうか。もし洵と結ばれていたら。起こらなかった事は誰にも分からない。洵が言っていたように、人生には己の力ではどうすることもできないことがたくさんある。半分は天命ではないか。生まれてくることも、死ぬことも、自分がどの道を行くかと言うことも。自分で選んでいく道でさえ、何かの力が働いているように思える。第一に、生まれた時点で、私の人生の長さはすでに定められている。ただ知らされていないだけだ。もし知らされているなら、誰もがもっと真剣に人生に取り組むかもしれない。しかし知らないからこそ人は、明日を楽しみに生きられるのではないか。俊君のことも、可能性があると思われるのではないか。たとえどんな形の生き方をしてるにせよ。
あの晩から三日たって、洵から電話が来た。
「俊のことなんだけど・・一緒に行ってくれるかい」
「もちろん。言ったでしょ。あなたのもう一人の息子さんにも会いたいって」
「ありがとう。今夜どうかな」
「いいわよ」
「それじゃ、五時半に杜の都で待ってるよ」
杜の都に行くと、洵はもう来ていた。
「こんにちは」
私はマスターと洵に言うと、洵の隣のスツールに座った。
「私も、コーヒーお願いします。マスターのお勧め品」
「私に任せてくださるんですか。今日はスマトラなんかどうですか」
「スマトラですか。それも私の好きなコーヒーなんです。ちょっと苦味が強いから、ミルクをたくさんいれて」
「やっぱり良く分かってらっしゃる」
マスターは顔をほころばせた。
「待たせた?」
「いや、僕も今来たばかりだ。すまないな、無理言って」
「嫌なら、お断りしてたわ」
「そうか」
「そうよ」
「いいな、友達って」
マスターは私たちの顔を見比べて言った。
「マスターはいつもそうおっしゃいますね」
「僕はこう見えても、いつもいろいろな人を見てきていますからね。どんな人が本当の友達で、どんな関係が偽りの関係かすぐ分かるんですよ。雪乃さんと洵さんは、とてもいい友達関係のようにお見受けします。長い間空間があったにもかかわらずにね」
私は今でも洵が私に人生に出会った人の一人でよかったと思っている。こうして第二の出会いがなかったとしても、彼の学生時代の影響は、本当に私にあらゆる面で目を見開かせてくれた。そして彼に恋をして、悲しかったことや辛かったことも。その痛みはもちろんすっかりと消え、今は青春の良き思い出となって、私のアルバムに残っている。
「僕も、雪乃さんが友達でよかったと思っていますよ」
「分かりますよ。洵さんの笑顔がもっと見られるようになりましたから」
マスターは洵と私の前にコーヒーカップを置きながら私たちを見てにっこりとした。
「そろそろ、行かない」
私はコーヒーカップをカウンターに戻して、洵を促した。
「ああ。マスターご馳走様」
洵はスツールを回転させた。
表に出ると、彼は車を拾った。隣に座った洵を見ると、彼は通りを流れる車に目をやっている。その横顔はひどく疲れて見えた。
車は木造二階建ての前に止まった。建物の周りには、切り込まれた椿が塀の代わりにぐるりと植えられている。私は黙って前を行く洵の後についた。入り口には『明生』と門札がかかっている。またその下に面接時間、いつでもどうぞとかかれた札がぶら下がっている。
洵は玄関の扉を開けて私を招きいれた。玄関に入ると、正面には暖炉が備えられちろちろと火が燃えている、部屋は程よく暖かく、心地よい。いくつかのいすとソファが置かれ、右側には、受付と思えるカウンター、左の壁には、書棚が備わりスタンドの明かりが、やわらかく部屋を照らしている。
「ここに俊君が住んでいるの」
「うん」
「素敵な所ね。もっと病院のようなところかと思ってた」
「藤子がいろいろ探してね。少しでも温かみのあるところって。俊が目を覚ましたとき、真っ白な病院の手術室なようなところじゃ、驚くに違いないって」
「藤子さん、本当に良いお母さんね」
「俊を特に盲愛してたから」
「だからショックも並みならぬものだったのね」
「ここだ」
クリーム色の扉には橘俊と表札がついている。洵はノックもせずに、半開きになっている扉を静かに押した。部屋の中は、一目で俊の実家の部屋を復元したものだと分かった。CDスタンド、ホルンのケース、モーツアルトの写真、アクアリアム、学生服、オーケストラのポスターなど。そして窓際のベットには俊が横になっていた。私は洵の後について俊君のベットの横に立った。
黒くウェーブのかかった髪が額を隠していたが、白く貫けるような顔はこの世の人とは思えなく、布団の上に出ている腕はパジャマで隠れているが、蜘蛛の足を思わせるような細く長い指は、当然若者のものではなかった。なんともいえない痛みが私の胸を突き抜けた。それでも、若草と水色の縞の夜具がかすかに釣りをしているときの浮きのように上下に動いているのが、俊のただ一つの生命の証に見えた。
「俊、お父さんの昔の友達を連れてきたよ」
洵は眠っている俊に向かって言った。私は洵に涙を見られないように、俊の手の上に自分の手を置いた。思っていたよりも、暖かく、私はかすかながらも、命の重みを彼の骨ばった手から感じた。
「俊君、こんにちは・・・」
私はそれ以上なにも言えなかった。泣けてしまって、自分を止めることができなかった。私は泣き声を出さないように、唇をかんだ。私は洵の手を肩に感じた。
「大丈夫? やっぱり君を誘うんじゃなかった。ごめん」
私はうつむいたまま首を横に振った。洵は私の肩を抱き、部屋から連れ出した。
「ここにちょっと座ろうか」
私を暖炉の前のいすに座らせ、「待ってて、コーヒー買ってくる」といって、今来た廊下の反対側に消えていった。
いすに座り、暖かく燃える炎を見ていると、気持ちが落ち着いてきた。そして思った、俊の手のかすかな温もりを。
「コーヒー」
洵は缶の栓を空けて私に手渡した。
「ありがとう」
私は一口飲んだ。熱いコーヒーは甘く日本の味がした。
「大丈夫?」
洵は心配そうな顔をして言った。
「ええ」
「やっぱりショックだったよね。あんな姿じゃ」
「そうじゃないの。ただ俊君を見て、何とも切なくなって・・・俊君の手を・・・手を触ったの。暖かかった。眠っているだけなのね。長い永い眠りについているだけ・・・」
「永い眠り。これがおとぎ話なら、馬に乗ったお姫様が来て、王子様に口付けすれば目を覚ましてくれるかもしれないが」
「反対じゃないその話。白い馬の王子様が眠っているお姫様を目覚めさせるのよ」
「少しもとの君に戻ったね。さあ、コーヒーを飲んだら送っていくよ」
「大丈夫よ。車拾って、一人で帰れるわ」
「送らせてくれ。僕のために来てくれて、嫌な思いをさせてしまったから」
「俊君は、洵似ね」
「そうらしいね。以前人からよく言われたよ。俊は僕に似て、勇は母親似だって」
「雪乃、僕はやっぱり君をここに連れてきたことを後悔している」
「どうして?」
「昔の僕はすごく見栄っ張りで、いつも強い、何事にも動じない人間のふりをしていた。そしてたいていの人は、僕をそんな人間だと思っていたようだ。本当の僕はそうじゃない。旬の事件があったとき、僕はがたがたになってしまった。その時僕は何年もの間、自分自身で築き上げた架空の、自分じゃない自分をずっと生きてきたことに気づいたんだ。僕はどうしようもなく弱くだらしのない情ない、男としても、父親としても、最低な人間なんだ。藤子がたくましく、母親振りを発揮している中、僕は仕事だといい、現実に向き合う勇気を持てなかった。そして何か理由をつけては、俊に合うことを拒否していた。そして自分を逃げている間に、藤子が傷つきつかれきってしまっていたことにも気づいてやれなかった。今回もまた君に再会して、君の笑顔を見、昔話をし、二十五年という長い年月が、一挙に消し去られて、君になら昔のように、今の自分の気持ちを分かってもらえるのじゃないかという甘い気持ちを持った。今までに誰にも口にしたことがなかったことを、誰かに話すことで救われたかった。案の定、君は僕の心の痛みを感じてくれた。そして泣いてくれた。でも君が泣いてくれているのを見て、僕は大切な友人まで、自分の生活のゆがみの中に陥れてしまったことに気づいた」
洵は一気にここまで離すと、ぐいっとコーヒーを飲んだ。苦い薬でも飲んだかのように、洵は顔を歪めた。
「もうここまで話した。すまないがもう少しだけ聞いてくれ。僕のわがままを許してほしい。君を巻き添えにし、傷つけてしまっていることも承知している」
「私なら、ぜんぜんかまわないのよ」
「ありがとう」と洵は言ったが、やはり少しためらうようにしばしば口を閉ざしてから再び話し始めた。「僕は時に、あんな姿で、何の価値もない人生を送っている俊を見て、早く死んでくれたらいいと思うことがある」
「そう」
私は彼がそう言うのを聞いても驚きはしなかった。むしろ洵がそういった自分の気持ちを、私に聞いてほしいのではないかと心のどこかで予想していたように思う。
「そうだ。無論あいつにも普通の人生をおくらせてやりたい。学校に行き、恋もし、いつか結婚をし。でも俊の状態を見ていると、そんなことは起こりそうもない。あんな生き方が、人として価値のある生き方だとは思えない。何も感じず、身動きすることもなく、ただ息をしているだけの行き方は、人として生まれてきて無意味だ。生かしておくことは周りの者たちのエゴじゃないのか。藤子が意識的にか、無意識的にか、俊のライフサポートの電源を切った気持ちが僕にもよーく分かる」
「ただ寝ていても、息をしている。なんでもないようなことだけれど、息をしてるってすごいことじゃない。さっき俊君の手に触れたとき思ったの。生きているんだなって。暖かな手に触れたから涙が出たの。こうやって何にもできないで、周りの人から見れば、何のために生存しているか分からない生き方だけれど、本当に小さな小さな命だけれど、俊君は現在私たちと同じ時限を生きている。親であるあなたのこと、勇君、藤子さんの辛い気持ち、何にもしてあげることのできないむなしさは、私にも十分察せられるわ。でもあなたの生かしておくのがエゴと言うのは、自分自身の都合や思いで、生きていても価値のない人間を是が非でも生かしておくってことなの?」
洵はしばし黙っていた。暖炉の燃える炎が洵の心のように揺れている。
「昔僕は君も覚えているように、小説家になりたいと思っていた。それは自分の書く小説を通して、生命という人に与えられた課題が何なのか探求したいと思っていたからだ。あのとき僕は本当に何も知らなかった。知らなかったから簡単に、人に与えられた課題だなんて言えたんだ。俊のことがあってから僕にとって命は課題ではなく重荷になった。僕には宗教もない、信じられるものは目で見、手で触れられるものだけだ。こんな僕が無意識のうちに、俊のことがあってから、見えない何かに手を併せていることがある。自分でも信じていない、神か仏か何かに。矛盾してると自分でも思いながら、気がつかないうちに、祈っているんだ。早く死んでくれればいいと思う反面。本当に変だろう。車を運転しているときとか、電車に乗っているときとか、一人でご飯を食べているときとか・・・でも・・・よくよく考えてみると、僕は俊のために祈っているのではないように思う。僕が、自分が辛いから、自分が楽になりたいから・・・ そうなんだ。自分のために」
「それがいけないことだと思ってるの」
「ああ」
「私はそうは思わないけど・・あなたは祈りの中で、自分と向き合っているんじゃない。辛いことを辛いって認めて、俊君にももっと人として価値のある人生を歩ませてやりたい。それがだめなら、一日でも早くこの不合理な生き方から、開放してやってほしい。そうじゃない」
「そんなきれいごとばかりじゃない。むしろそうじゃないことが多い。面倒になり、どうでもいいと思ってしまう。俊のことでつながれている綱から開放されたい。できることなら忘れてしまいたい。そんなことまで思う。僕は非情な人間だ。この年になっても何のために自分が生きているのか、人が生きているのか、さっぱり分からない。分からないで、こうやって生きている事は俊が、意識なくああして横になっているのとちっとも変わりがない。そうだろう。最近は俊の見舞いは勇が率先してやってくれているのをいいことに、仕事という都合のいい壁の後ろに隠れて、怠っている。ちょうど藤子にまかせっきりだったようにね」
洵は今まで胸の奥に溜まり続けていた苦いものを吐き出すように、次々と自分自身を私の前にさらけ出していった。暖炉の火が明るく洵の顔を照らし出していても、私には彼の顔が苦しみで蒼白であることが分かった。あんなに自信があり、頭が切れて、オーラさえも持っていた若き日の洵ではなかった。最初に杜の都で見かけたときの洵からも、こんな彼は想像できなかった。どんなに辛い思いを胸に秘めてきていたのかと思うと、私の胸もひどく痛んだ。
「誰もこの世に生きている理由が分かって生きている人はいないわ。もしそれが分かっているとしたら、人間は存在していないと思う」
「確かにそうだ。今日の僕はどうかしている。いや君に会って以来、長い間眠っていた火山が活動を起こし始めたかのように、心の奥で、僕が止めようと思っても止められない何か強いものが、僕の胸を突き上げ、君にこうしてぶちまけてしまうことになった。話を聞いてくれてありがとう。嫌な思いをさせてすまなかったね。そろそろ帰ろうか」
「ううん、ぜんぜん。何もして上げれないけど、話し相手にならいつでも喜んで。もう一度俊君にあってから帰りましょ」
「ああ」
私と洵は連れたって俊君の部屋に戻った。誰がかけてくれたのか、モーツアルトのホルンコンチェルトが静かに部屋に流れていた。
身動きすることなく横になっている俊君の魂は何を望んでいるのだろうと私は思った。この美しいホルンが俊君の魂そして脳まで届いてほしい。私は洵が俊君の手を握っているその悲しそうな後姿を見て、心の中で手を併せた。