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杜の都  作者: 武田道子
7/18

マスターの祖母と桜の木

    7 

 世の中って広いようで、案外狭いと言うことは、事実のようだと私は思った。

 二十五年ぶり、この大都会で偶然に、昔のふられた恋人に再会、そして彼の息子が春香の友達。まるでテレビドラマかなにかのようだ。


 杜の都のマスターの離れに入って、五日たっていた。

 春香にもあの夜以来会う機会がなかったので、何も話してない。洵も勇君には何も言ってないと思う。もし何か話したなら、春香に言うだろうし、そうしたら、春香が私に黙っているはずはないから。

 洵にはあの夜以来あっていない。心なしに、私は洵からの電話を待っていた。もちろん何の下心があったわけではない。ただ昔の友人として、お茶を飲むぐらいのことをしたかっただけだ。

 今思えば、彼と話すことは本当に楽しかった。大学時代の洵は話題が豊富で人を退屈させない技を心得ていた。どんなつまらないように見える話でさえ、彼が話せば光を放った。

 

 桜の淡い香りが裏庭にあふれ、私は狭いが心地よい縁側で原稿の検討をしていた。

 「お母さん! 入るわよ」

 春香の声が玄関口から聞こえた。

 「お母さん、鍵もかけないで、物騒よ。私だから良かったけど、強盗とかサイコが入ってきたらどうするの」

 「ご心配ありがとう。でもここはアメリカとは違うわ。それにしてもお母さんも娘に心配される年になったんだ。嬉しいような淋しいような」

 真剣な顔をして言う春香につい笑ってしまった。

 「私まじめよ。仙台とはいえ、お母さんが住んでいた頃とは全然違うんだから。新聞にだって、そういう記事が多いのよ」

 「そうなの。じゃあ、これからは気をつけます」

 私はちょっと見ない間に、成長した娘を見上げて言った。

 「ここすっごくいい匂い。おかあさんラッキーだったね。こんなに素敵なとこなんて見つからないわ。お母さんが帰ったら、ここ借りたいな。ねぇ、その杜の都のマスターに頼めないかしら」

 「ここからじゃ、学校も遠いし、春香のような寝坊には向かないと思うけど。それでバイトのほうはどう? 楽しい?」

 「大体はね。でも中には変なおじさんがいて、じろじろ見たり、君、ラブホテって知ってるなんて訊いてくるの。そして、知らないなんていうと、僕が連れて行ってあげるよ。君の社会勉強になると思うよなんて。冗談で言ってるんじゃないのよ。ぞっとしちゃう。まったくのセクハラよ。日本の国は、まだそんなことを女の人に言っても平気で通じる国なのよ。前の英語教室に面接に行ったときも、僕とつきあうなら雇ってやっても言いなんて言われた。日本の女の子も最近早いけど、アメリカ人なんてそっちのほうずっと早いんだろうなんて、変質者もいいとこ。本当にくだらない中年が多いのよ。日本人の非文化面というか社会的、倫理的無知というかこの文明国二十一世紀に生きている大人とは信じられない。

 セクハラやいじめがいろいろなところで起こっているらしいことも聞くわ。どこの国も同じね。私は日本は違うと思ってたからがっかりした。日本という国は島国で、昔からのどろどろとした陰鬱な集団いじめが今でもいろいろな場所で日常平気で行われいるって勇が言ってた。昔は村八分とか言ったらしい。私にはぜんぜんわかんない。何が楽しくて、そんなことやるんだか」

 まだ若く正義感だけが強い娘には、自分で経験したことがなければ、理不尽とだけしか受け取れないのだろう。

 「勇も中学のときしばらくいじめにあったことがあったんだって。お母さんが誤って俊君の使っている、ライフサポートの電源を切ったことをどっかで聞き出したクラスメートが、お母さんを人殺しだって、みんなの携帯にメールで送って、彼に嫌がらせをしたり、そのころサッカーしてたのに、仲間に入れてくれなかったり,いろいろあったみたい。

 詳しいことは訊いてないの。訊いていいのか悪いのかわかんなくて。それに、きっとあまり思い出したくないことだと思うし」

 「勇君そんな辛いことがあったの」

 私の胸はひどく痛んだ。若くまだ少年の面影さえある輝いた顔には、そんな辛いことを経験したなんて、微塵も伺われなかった。

 勇君はそれだからこそ輝いていたのかもしれない。人の痛みの分かる温かな青年に成長している息子のことを、洵はさぞ自慢に思っていることだろう。

 「勇君、お父さんにはそのこと話していたの?」

 「話してないって。私も訊いたの。それでなくても苦労が絶えないお父さんには、話せなかったらしい」

 「お父さんとは仲良いの?」

 「仲良いって?」

 「つまり、何でも話したり、一緒に何かしたり」

 「多分。でもお父さんいつも忙しそうだから・・・ あまり話したり、何か一緒にする時間ってないんじゃないかな。

 勇君、お母さんがいなくなってから、自分で何でもしてきたみたい。家事もお見舞いも。その割には頭がいいから、大学なんかもちゃんと行ってるし、結構きちんとした生活もしているみたい。それに日本の親子はアメリカみたいに、大学生になった子供と一緒に行動することってないんじゃないかしら。まして息子とお父さんが、一緒に魚釣りに行ったり、ゴルフをしたりって、まれだと思う」

 「そうだったわね。それで勇君今は大丈夫なのね」

 「うん。今は全然。そしてそのころ病院で知り合った研修医と親しくなって、いろいろ助けてもらったって話してた。私にも今度その人とあわせてくれるって。最近日本でもいじめのことが、昔に比べてもっともっと、ニュースで報道されたり、社会問題として取り扱われるようになってきたし、テレビドラマにもいじめを取り扱ったもの結構あるのよ。人々はセクハラやいじめが、クリミナルだということを知ってはいるけど、問題を解決するのは難しいらしい」

 私の暖かな縁側から、春色が消えていくような気がした。私の故郷や友人への甘い思い出は、今は大人の不合理な現実社会へと色褪せていった。

 

 「お母さんは神様が本当にいると思う?」

 「なに唐突に」

 「俊君のお見舞いに行くと、神様なんて本当はいないんじゃないかって思うようになった。本当にひどいのよ。もうすっごく痩せていて、これ以上は痩せられないほどに。ただ骨が薄い皮膚で覆われているだけ。それでも一年ぐらい前かららしいけど、目をほんのたまに開けるようになったの。お医者様は良いサインだって言ってるらしい。

私も一度だけ目を開いたときお兄さんを見たことがるの。目はとっても澄んでいてきれいだけど、そこに光るものは何もなくて、よけいに悲しい気持ちにさせられた。

勇君は俊君の好きなホルンコンチェルトいつもかけてあげて、そばのいすに座って、本を読んであげるの。でも見ていると私のほうが辛くなってくる。生きるって、生きているって何なんだろうって」春香の声がかすれた。

 「難しい質問ね。お母さんも今でもよく分からない。もしかして、命がある間ずっとその疑問を背負っていかなくちゃいけないのかもしれないわね。神様がいたら、何も悪いことは起こらないと思う?」

 「分からない。でも俊君のような人を、こんなに長く、ほっておかないんじゃないかと思う」

 「そうね。神様がいるかいないかということも、人がなぜこの小さな地球に存在するかということもいまだに誰にも分かっていないわ。でも一つ、お母さんはこの宇宙に、小さな点ほどの大きさもない地球に、人が存在しているということは、単なる偶然あるいは、何億年もの間に起こった、リヴォルーションだけの結果だけではないと思ってる。

 人ってどんな形や環境で生きていても、私たちには分からない、何らかの理由があるんじゃないかなって。でも悪夢や地獄にいるような毎日を送っている人には、私の理論は当てはまらないわね。でもそう考えないと、苦労して生きている人は救われないんじゃないかと思って。ごめんなさい。お母さんも分からない」


 暖かな平和な庭を見ている春香の横顔は、陰り曇っている。 

 「でもね、あなたたちを産もうと思ったとき、考えたわ」私は春香の横顔から、庭の明るさに目を移して言った。

 「私たちは大切な子供たちを、こんな複雑な、醜い、恐ろしいことがたくさんある世の中に、送り出してもいいものかって。でもお父さんと話し合った結果、家族を作ることにした。私たちは幸運にも、人間として生まれてきて、良かったと言えたから。醜いことも、美しいことも全部いっしょに混ぜあった人の世界を、私たちは受け入れることにしたの。

 勇君のお兄さんことは、お母さん、本当になんて言っていいか分からない。けれども本人にとっては価値のない人生に見えても、周りの人には、その人がいるだけで喜びになっていることだってあるし・・」

 私は洵のことを思った。彼がどんな気持ちでこの数年を過ごしてきたか。励みと苦痛と後悔と、私には計り知れない、彼の暗い心の淀み。

「人の心をトランスレーションすることは、どんなに難しく書かれた本を訳すより大変なことだわ」

 私は言った。それは春香にというより、自分に向けて言った言葉だった。


 「お母さん、勇は俊君がいつかきっと眼が覚めると思っているの。寝ている俊君を見ていると、そんなこと決してありえないように私には思える。もちろん勇にはそんなこと言えないけど・・・でもそんな勇を見ていると、とっても悲しくなってしまうの。お母さんは奇跡を信じる?」

 「今日は難しい質問ばかりね・・・死んだ人を生き返らせるような奇跡はないかもしれないけど、生きている人に奇跡が起こらないとは言えないわ」

 いつもの春香とは思えないようなは暗い顔を見ながら、私もまた暗い気持ちになった。。

 「近くのお餅やさんで、桜餅買ったの。お茶入れるから、一緒にお花見しよう」と私は気分を変えようと思い、立ち上がった。

 「うん」

 「元気出しなさい。信じるっておまじないより利くことがあるのよ」

 春の豊かな暖かな光が庭いっぱいにあふれているのを見ると、本当に奇跡が起こりそうにさえ思えた。


 それから二日たった昼下がり、どんよりと重たい灰色の空から、雨が音もなく規則正しく降っていた。鳥のさえずりも、車道の音もぱくりとそのぶあつい雲に飲み込まれたように。

 私はこんな静けさが好きだ。音のない音もやはり音の一つだと私は思う。透明という色があり、数字にはゼロがあるのなら、音のない音があっても何の不思議もない。

 この二日、春香が言ったことを私は考えていた。神様が本当にいるのか。奇跡は起こることがあるのか。どちらも本当であればいいと思う。

 洵と勇君、そして病気になってしまった藤子さんのためにも。命って本当に分からない。生まれたからには、生きているのは当たり前のことなのに、ああして五年以上も寝たきりの俊君のことはいったいどう考えたらいいのだろう。生きていることと、生きることの違いを目の前にして、私はいまさらながら戸惑っている。俊君はどんな形にせよ、生命を保っている。


携帯が鳴った。洵だった。

 「はい、もしもし」

 「もしもし、橘洵です」

 「お久しぶり」

 「どう、そこの住み心地は」

 「最高よ。西公園まで行かなくても、素晴らしくきれいなお花見ができるわ。二三日前に娘がきたとき、桜餅をたべながら、二人でお花見をしたの」

 「それは良かった。いや、今夜もしあいてたら、この前飲んだところで晩御飯でも一緒に食べないかと思って、雪乃、気に入っていたようだったし。だから電話したんだ」

 「喜んで。引っ越して以来ずっと家で缶詰だったの。息抜きができて嬉しいわ」

 「場所覚えてる? もし覚えてなかったら、杜の都で会おう」

 「じゃあ、そうしてもらえるかな。ちょっと自信がないし、おいしいコーヒーも飲みたいわ」

 「分かった。じゃあ七時でいいかな」

 「ええ」

 洵にまた会えると思うと心が弾んだ。旧友っていいものだ。特にそれが自分の青春を飾ってくれた人の一人ならなおさらのこと。そういっても私の洵との思いでは、いいことと、悪いことが同じぐらいな比重で存在していたわけだが。悪い思い出は自分でも気がつかないうちにご破算になったようだ。

 

 マスターの裏庭に家を借りていても、引越し以来全然合う機会がなくて、ご無沙汰していた。杜の都の近くまで行くと香ばしいコーヒーの香りがあたりを満たしていた。私は深く息を吸って、その香りを満喫し、杜の都のドアを開けた。

 「おお、雪乃さんお久しぶり」

 「マスター、すみません。私のほうこそ、お部屋をお借りしているのにご無沙汰していて。お店から帰ってこられて、くつろいでいられるのに、のこのこお邪魔するのもと思って、失礼していました。コーヒーの香りっていいですね。心が癒されます」

 「僕もですよ。硬い挨拶なんかは抜きにしましょう。僕もあの離れに誰かに住んでもらえて嬉しいんです。昔を思い出してね。どうですか、住み心地。何か不自由していませんか」

 「いいえ、何もかも最高です。キッチンも使えるし、お風呂もあるし、そして何よりも、あの見事な桜の木。これ以上望むものなんてありません。娘がこんな何もかも条件のそろった素晴らしい家はまたとない。特にお母さんの好きな桜の木が庭にある家なんて、めったにないし、お母さんはラッキーだと言われました。私も本当にそう思います」

 「いや、あの木は僕の自慢でね。僕の大好きだった祖母の恋人が植えたそうなんです」

 「おばあ様の恋人?」

 「そうなんです。母は小学校の教師で、祖母がいつも僕と妹の面倒を見てくれていました。それで、病気のときはいつも祖母がお粥を作ってくれたり、もっと僕らが小さいときは本を読んでくれたり、歌を歌ってくれたりしました。本当に優しい祖母だった。ある日ね、僕、高校のときひどい風邪を引いて寝込んだことがありました。それはちょうど新学期が始まってまもなくのことでした。桜がちょうど満開のころで、僕はあの離れで寝ていました。そのとき祖母が話してくれたんです。あの桜の木の話をね。祖母の恋人は戦争に招集されました。祖母に結婚を申し込みたかった。けれどそれはあえてしなかった。なぜなら祖母を未亡人にしたくないから。でも自分のことをすっかり忘れられてしまうのはやっぱり悲しいので、この桜を残していくって言うような内容の手紙といっしょに祖母に桜の木を贈ったそうです。祖母は枯らしてしまったら、本当に彼が帰ってこなくなると思い、必死で手入れをしたそうです。そんな祖母の祈りの甲斐もなく、彼は誰のところにも帰ってきませんでした。けれども桜の木は年々大きくなり、毎年素晴らしい花を咲かせてくれています」

 「そうだったんですか。あの桜の木にふさわしい美しいメルヘンのような話ですね。そんな思い出深い家を貸してくださり。本当に感激です」

 私は本当に感激した。恥ずかしいことになんだかとても泣けてきた。

 「あれっ、泣かしちゃったかな。雪乃さんは優しいんですね」

 「いえ、そうじゃないんです。年のわりに、センチメンタルなところがあって。家では鬼なんていわれているんですよ。でも日本に帰ってきて、安心したというか、自分の巣に戻ったというか。私、やっぱり日本人でよかったなんて、こっちに久しぶりに帰ってきて思っているんです」

 「そうですか。僕は外国で暮らしたことがないから、分からないですけど。幼少年、思春期に経験したり、感じたりしたことって忘れないんじゃないかな。祖母がこの桜の木の話をしてくれたとき、とても幸せそうで、でも哀しそうだったのを今でもはっきり覚えています。きっとその人をすっごく愛していて、決して忘れてはいなかったんだなと思い僕も感激しました。でも祖父とも、とても仲が良くて、けっこう二人でよく旅行したり、一緒に料理したり、祖母が琴を弾くと、祖父が尺八を吹いたりして、いつも和やかでした」

 「おばあ様って、すっごくクールな方だったんですね。それじゃ誰からでも好かれたでしょうね」

 「はっきりきいたわけではありませんけど、かなりもてたようですよ、当時にしてはね。でも桜をもらった初恋の人と祖父だけが一番好きだった見たいです。一生に一人だけでも本当に心から愛せる人に出合うのは難しいのに、二人に出会えた祖母は幸せな人だったと思います」

 「そうですね」

 私は洵のことを考えていた。愛した人に愛されずに、日本を逃げるように出てしまった自分。引き下がることがあの時は美徳だと思っていた。けれども結局は洵への思いはその程度のものだったのだろう。でもいまだに私は彼からもらった手紙を捨てきれずに持っている。夫と結婚したときに捨てようと思った。けれども捨ててしまうと自分の愛しんできた青春が私の心から永遠に消え逝ってしまうのではと淋しかった。ほんの七ヶ月の恋だった。その七ヶ月が大人に向かって脱皮しようとしていた私にとって、どれだけ重要な時間であったか。今の私があるのも、あの時洵からあらゆる面で深い影響を受けたからだ。

 「はいどうぞ。ブルーマウンテン」

 「わぁー、ありがとうございます」

 「珍しいですね。夜に来るなんて」

 「洵さんと晩御飯を一緒に食べようと誘われて。ずっと缶詰だったので、息抜きに」

 「それはいい。ちょっとうらやましいな。僕なんて、昔の友達に会うことなんてぜんぜんありませんからね。前にあなたでしたっけ、それとも洵さんだったかに言ったと思うんですけど、僕、なんか避けられているのかもしれないな」

 マスターは笑った。

 「よかったら、一緒にいらっしゃいませんか。洵さんも喜ぶと思います」

 「お心使いには感謝します。でも遠慮しておきます。旧友が何十年ぶりで会ったんですから、積もる話もたくさんあるでしょう」

 ドアが開いて洵が入ってきた。

 「おお、洵さん」

 「こんばんは。久しぶり。いつものコーヒーお願いします」

 「雪乃さんには、ブルーマウンテンを上げたんだけど、洵さんもどう?」

 「それじゃ僕もそれでお願いします」

 洵は始めてこの店で見たときのように、するっと回転椅子を回して雪乃の隣に座った。

 「待った?」

 「ううん。あなたこそ忙しかったんじゃない?」

 「新聞屋はいつも忙しいさ。でも友達と会ってご飯を食べる時間ぐらいはあるよ」

 「いいなあ、友達って。今も雪乃さんと話してたところですよ。僕は友達に避けられているってね」

 「そうだ、マスターも一緒に晩飯いかがですか。もちろんまだ食べていないんでしょ」

 「お二人とも、優しいんですね。今も雪乃さんにご一緒にと誘われたところです。でもお二人はまだ再会したばっかりだし、積もる話もあるでしょう。この次に一緒させてください」

 「そうですか。私たちはぜんぜんかまわないんですよ。ねぇ」

 私は洵の同意を求めた。

 「彼女の言う通りです」

 「ありがとうございます」

 「優しく声をかけてくださった御礼に、僕からのおごり」

 マスターは二つのコーヒーカップを私と洵の前に置いた。

 「ああ、すみません。かえって気を使わせてしまいましたね」

 「僕にも友達ができたようで嬉しいんです。といっても、洵さんとは結構長いお付き合いですけどね」

 「本当だ。僕はここに来て、おいしいコーヒーを飲んで、マスターと話をしてずいぶんと元気づけられました」

 「そういわれると光栄だな。でも僕もね、なんだか洵さんと話すのが好きでね。いつも洵さんが来る日に来ないと、その日に何か穴が開いたようで淋しい気がするんですよ。それに洵さんは僕の入れるコーヒーの味を良く知ってくれてますからね。僕これで結構うるさいんです。コーヒーならなんでも良いなんていうお客さんにはなんだか入れたくなくなりますからね」

 「洵さんは昔インスタントコーヒーを入れるのにも、すごくこだわっていたんですよ」

 「あはは。確かに」

 「私は特訓を受けたんだけど、なかなか美味く入れられなくて。だめ女だったでしょ。覚えてるかしら。それから僕はコーヒーを上手に入れてくれる女性としか結婚しないって言ったこと」

 「そんなこと僕ぜんぜん覚えてないけど」

 「洵さんらしいね。だから僕も洵さんには誰よりもおいしいコーヒーを飲んでもらいたいと思ったのかもしれないな」

 

 洵は本当にインスタントのコーヒーを上手に入れてくれた。彼が狭いアパートで最初に入れてくれたコーヒーはインスタントだった。「豆を切らしているからこれで。でも僕インスタントでも、誰よりも美味いコーヒーを入れることができるんだ」とあのときの彼は言った。高校を出たばかりの大学一年の私には、インスタントも豆を丁寧に手でグラインドしたコーヒーも両方苦くて、本当はぜんぜんおいしいとは思わなかった。それでミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んだ。洵は驚いたような顔をして、「君それじゃコーヒーの味も何もないよ」とがっかりとした顔を覚えている。あれから私もすっかりコーヒー通になってしまった。最初はただ洵をがっかりさせたくなく、そして彼にもっと好かれたく、彼のところまでレベルアップしたくて・・・。結局は洵に私が入れるおいしいコーヒーをいれてあげることはなかった。

 晩ごはんはおいしかった。デパチカで買ったお惣菜も結構おいしいと思ったけれど、このようなホームクッキングにはかなわない。 

 「君ってよく食べるね。飲めない分食べちゃうのかな」

 「良かったわね、私が春香ぐらいの年でなくて。そんなこと言ったら、一回でふられちゃうよ」

 私は最後に一匹残った子持ちシシャモをつま見上げて口の中に入れた。

 「僕も誘いがいがあるというものだ。君のように豪快に食べる人がいればね」

 洵は楽しそうに笑いながら言った。笑うと目じりや口の周りにしわができる。ずいぶんと苦労や心配の多い人生だったにもかかわらず、青年期に持っていた爽やかさをいまだに失くすことなく持っている。

 「本当によく食べたわ。やっぱり日本の食べ物はおいしいわ。ついつい食べ過ぎてしまう」

 「君のようにそんなに喜んで、味わって食べてくれるお客さんなら、作る側も作りがいいがあるというものだ」

 「いやぁ、本当によく食べていだだいて、私も嬉しいですよ」

 「ほらね、ご主人もそういってるよ」

 「お客さんが、誰かを連れできたのは、この方だけですよね。いづもお一人で来なさるから。でも食べんのも、飲むのも誰か相手がいると、ぐっと味がよぐなるって言うの、本当ですよ。お客さんもいづもと違って楽しそうだし」

すらすらと仙台弁で主人が言った。

 「そうですか。ここに来るのは仕事の後で、一人になりたいときだけだからな」

 「一人になりたいときってよくあるの」

 「そうだな・・どうだろう。結構あるかもしれないな」

 「そう。私も自分の時間を大切にするほうだから、洵の気持ち分かるような気がする」

 「雪乃はそういう時どうするの」

 「わたし? 熱い濃いコーヒーを魔法瓶に入れて、図書館に行く」

 「で?」

 「図書館では飲食禁止だから、ずっと後ろの隅の机を探して座って、ノートパソコンを開いて、その後ろに隠れてコーヒーを飲みながら、図書館に来る人を観察する」

 「ぷっ」

 洵は吹き出した。

 「まじで?」

 「そう、まじで」

 「私の住んでる所は日本のようなしゃれた飲み屋や喫茶店なんてないし、せいぜいスターバックスのようなとこでしょ。私ああいったトレンディなところって好きじゃないの。それに図書館にはいろんな人が来るでしょ。ホームレスの人々から、官僚、学生、子供、家族連れ、デート、いろんな人種。コーヒー飲みながら、ボーっとしてそういった人々を見ていると、なんだか人間らしくなって、癒されるって言うか、私の悩みや問題なんて、なんでもない当たり前のことなんだって思えてくるの」

 「へぇ、そういう時間のつぶし方もあるんだ」

 洵はいかにも感心したように言った。

 「そうよ。お金もかからないしね」

 「一石二鳥だね」

 また洵は笑った。

 「雪乃って結構面白い人なんだ。学生時代はめっきりまじめだけの人だと思ってた」

 「私を買いかぶっていたんだ」

 「そうじゃないよ。ただ君は自分というものを持っていて、人の意見やなんかには流されない人だと思っていた」

 「やっぱり買いかぶっていたわ。私はあなたの前では、利口な大人の女として認められたかった。だからすっごく無理していたの。本当の私は、抜けていて、バカらしくて、少年期から抜けきれない女の子だった。あなたのレベルに達しようとがんばったのよ。あなたに『君は子供だね』と言われたくなくて」

 「そんなこと言ったんだ。僕はかなり偉そうぶっていたんだね」

 「そんなことはないわ。事実そうだったんだから。あなたに出会うことによって、私の狭かった世界が広がったし、大人への一歩を踏み出すのを手伝ってもらったし、あなたは最高の友だったわ」

 「そういってもらうと少しは気が休まるよ。いくら二十五年以上前のことでもね。君と今度であって、自分がかなり鼻持ちならないやつだったってことに気づかされたよ。ちょっと遅かったけどね。僕にもっと人の心を感じる繊細さがあったら、いろいろな過ちを避けることができただろうな」

 「そう思うのはあなただけじゃないわ。誰にも完璧な人生なんてありえないから、人はいつも、もし云々だったら?と言う疑問を持っては、後ろを振り返るんだと思う」

 「確かに君の言うとおりだ。完璧な人生なんてありえない」

 洵は杯を取って残った酒をぐいっと飲み干した。

 「お酒冷たくなったんじゃない。お燗暖めてもらおうか」

 「いや、もういいよ。もうずいぶん飲んだし、そろそろ行こうか。送っていくよ」

 今までのうちとけた雰囲気が、かき消され、洵から、すっと光が消えていった。完璧じゃない人生、洵にとってそれはきっと私の想像以上に辛いことなのだろう。私はご馳走様、本当にみんなとてもおいしかったですと主人に礼を言って、洵の後について外に出た。外は意外に暖かく、私をほっとさせた。

 「今日は車できたんだ。白石まで行かなくちゃならなかったから。車があると便利なときもあるよ。行きたい時に、ふっとどこでも行けるからね」

 「そうね。アメリカでは、私のように街の中に住んでなければ、車なしでは何も用が足せないし、どこにも行けないでしょ。車イコール自由って感じ」

 「そうか。自由か」

 洵は行きかう車の群れをぼんやりと眺めながら言った。どこへとも知れず走り去っていく車は何からも束縛されずに行きたいところへ向かっているようだった。が、それは単に錯覚かもしれない。それらの車は行きたくないところへ無理やりに見えない綱で、手繰り寄せられている可能性だってある。

 

 


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