洵の話
6
私は二人と別れるとすぐにホテルに戻る気がしなくて、ぶらっと街に足を向けた。いつの間にか私の足は、昨日洵と歩いた西公園へと向かっていた。
昨日は退社時で、ごった返していた公園も、今夜は夜半に入ったせいか、犬を連れて歩く人や、寄り添って歩く恋人たちだけでひっそりとしている。
お花見にはまだ少し早いこともあって、私にとっては好都合だった。清潔なほんのりと甘い桜の香りが、夜の大気を優しくしていた。
こんなにも美しい夜桜を独り占めできるなんて、私はまた胸がいっぱいになった。私はひっそりとあいている大きな桜の下のベンチに腰を下ろした。
昨日の洵は幸せそうに見えた。ほんの一瞬だけ、彼は幸せなのだろうかという疑問が心をよぎったけれど、それは彼が君は幸せそうだね。私は幸せですって顔に描いてある。昔の友達が悲しそうにしていたら心配になるだろう。なんて私に言ったからだ。
洵はこの二十五年間どんな苦労をしてきたのだろうか。相思相愛だったはずの田村藤子との間に何があったのだろう。
この美しい桜のせいか、そして洵の家庭の事情を少し知ったせいか、むしょうに胸が痛くなった。私は目をつぶり深く桜の香りを胸いっぱい吸った。
「そこで眠ってしまわないほうがいいよ」
私はベンチから飛び上がった。
「ごめん、ごめん、驚かすつもりはなかったんだ」
洵は私の肩に手を置いて言った。私が何も応えられないでいる様子に、「本当にごめん。大丈夫かい」と今度は心配そうに私を見下ろした。
「ああ、本当に驚いた!」
私はまだ高鳴る胸を押さえた。
「本当にごめん。でも君、まさか本当に寝てたんじゃないよね。昔君は、いつどこでも寝れる天才だったからね」
「寝てるわけないでしょう。つまらないことどうして憶えてるの。夕べの桜があんまりきれいだったから、また見たくなって。洵こそどうしてここへ?」
「いや、僕も桜がまた見たくなって・・」
「ここに住んでいるあなたでも? そうよね。こんなにきれいなんですもの。何度見てもやっぱりいいわね」
昨日はぜんぜん知らなかったけれど、こうして一人で公園に来るのも、悲しさや、辛さを紛らわせるためなのだろうか。私は昨日とは違った思いで洵を見上げた。
「いやあ、偶然が続くね。また君に会えるなんてついてるよ。二十五年間も会わなかった人に、二日続けて会うんだからね」
「本当に。良かったらどうぞ」
私は隣を指差し、洵に席を作ってやった。それじゃと、洵は言って隣に座った。
「きれいだな」
洵がしみじみと、けれど独り言のように言った。
「日本に住んでいても、春が来ても、こうやってゆっくり桜を見ることがなかった。夕べ君に会って、桜を見て、僕の涸れた心が潤った気がしたよ」
「私、今娘と一緒に夕食食べてきたの。娘に男の子の友達を紹介されたわ。とっても爽やかな素敵な青年だったわ。娘とは違って料理が好きで、都合があってお父さんだけと一緒に暮らしているんですって。病気のお兄さんがいて、二人でお見舞いに行くって言って分かれたばかり。お父さんは仕事が忙しくて行けないことがあるから、自分はなるべく毎日行くようにしているって言ってたわ」
洵はぎょっとした顔をして私を見た。
「勇君というの」
洵は無言で私から視線を頭の上の桜に移した。
「私、一ヶ月ほど住める借家を探していて、今朝駅に行ったついでに、杜の都に寄ったの。
あそこのマスター、私が昨日店に来たことを憶えていて、ブルーマウンテンをご馳走してくれたわ。そしていろいろ話ているうちに、私が偶然一番丁で昔の友達に会ったと話したら、昔の恋人ですかって聞かれたので、そうですって応えてしまったの。振られたこともね。けれどその人はマスターの知り合いだって言ったら、あなたが私と結婚していたら違う人生があったんじゃないかって・・・
私は住所も電話番号も交換してないし、お互いに私的なことは話さなかったし、この再開は一回だけのものだったからと言ったら、余計なことを言ってすまなかったって。でもマスターの語調が気になって、あなたが幸せなのかって訊いたら、洵さんが話さなかったことを話すのは気が引けるっておっしゃったの。でもあなたのことが気になって、もう会うこともないと思いますから、聞かせてくださいってお願いしたの。そうしたら息子さんが病気になったいきさつを話してくださったの。
ごめんなさい。本当に。あなたの個人的なことに、鼻を突っ込むつもりはなかったの。ただ・・ただ・・あなたが昨日、私が幸せかどうか気遣ってくれたように、私も心配になって・・訊いたからって私が何をどうできるわけでもないんだけど、陰ながらあなたの幸せを祈りたかったから」
行き詰った空気が流れていた。洵は頭上の桜を眺めたまま黙っている。
私はとんでもない間違いを起こしたことを感じた。二十五年の年月は、あまりにも深く、たった数時間の出会いで引っ掻き回すものではなかったのだ。
私は深い後悔の念にとらわれた。何でそっとしておかなかったのだろう。春香と勇君のことだって、洵には私の娘だなんてことは分からなかったはずだ。
「雪乃、僕が家庭のことを話さなかったのは、君が幸せそうだったからだ。二十五年ぶりに始めて再会した君に僕のつまらない家庭のトラブルを話しても仕方がないし、僕の心のどこかで、君には良いとこを見せたかったこともある。・・・昔のこともあるしね・・いい年して、くだらない男さ」
「そんな・・」
「いや、聞いてくれ。見栄を張るのはもうほどほどにしたらいい年かもしれないな。それに勇が君のお嬢さんとおつきあいしているようだし。僕はまだ紹介されてないんだが、もしかしたら、君にももっと会う機会が出てくるかもしれない。
勇が言ったように、今僕は勇と一緒に暮らしている。藤子は実家に帰っている。俊が倒れて五年になる。一番先にショックから立ち直ったのは藤子だった。毎日、一日も欠かすことなく藤子は病院を訪れた。何の反応も見せないで昏々と眠り続ける俊に、本を読んで聞かせたり、CDプレーヤーを持って行っては、俊の好きな曲をかけてやり、体を拭いてやり、マッサージをしてやり、至れり尽くせりだった。母親ってこんなに強いんだと僕は思ったものさ。
ちょっと冷えるね。少し歩こうか」
洵は立ち上がった。私たちは町並みに向かってゆっくりと歩き始めた。
「そんなある日、僕は数日俊にあってなかったので、午後の授業が終わるとその足で病院へ向かった。
患者さんたちの昼寝の時間か、廊下はしーんと静まり、わずかにどこからか、誰かの見ているテレビの音が聞こえていた。
俊の部屋の扉がしまっていた。藤子はCDをかけるときは他の患者さんの邪魔にならないようにとドアを閉めることがあった。僕はなるべく音を立てないように、静かにドアを開けて中に入った。案の定モーツアルトか誰かのホルンコンチェルトが流れていた。
藤子は向こうを向いていて、僕の入ってきた事に気づいていない様子だった。突然、藤子の頭の向こうの心電図の隆起した線が一直線に変わった。
『藤子!』僕は叫んだ。けれども彼女は振り向かない。僕は両手で藤子の肩をゆすぶった。見ると真っ白な顔をした藤子の手には、太いケーブルが握られていた」
私は息を飲んだ。そしてたんたんと話す洵の横顔を見た。時々車のヘッドライトで浮き上がるその横顔はたんたんとしている言葉に反して、彼の心の痛みの深さを告げていた。
冷たい夜気が首筋から背中へと伝わった。
「藤子は精神的にも、肉体的にも疲れ果てていたらしい。僕は仕事の忙しさに紛らわせ、彼女にすっかり任せきりにしていた。どうせ僕が行っても、誰が行っても、何の反応もない俊を、世話もせずに最初にあきらめてしまっていたのは僕だった。
幸に回診に来た看護師のおかげで俊はまた、かろうじて生命を取り留めることができた。藤子は俊を楽にしてやりたい! 私が楽にしてやる!と言ってずいぶんと暴れた・・・・
看護師の報告によって、病院側は、事情も事情なので、藤子のした行動を殺人未遂という形には持っていかないことにしてくれたが、藤子は付きっ切りでの看護は許されないことになった。
彼女の情緒不安定が問題になり、精神科の医者に見てもらうようにすすめられた。藤子は実家に帰って治療をしている。事件以来彼女の中の何かが壊れてしまったようで、僕や息子たちのことは忘れてしまっている」
私たちは駅前まで来ていた。私は言葉もなくただ彼の隣を歩いた。洵の痛みをひしひしと感じながら、何も言えなかった。
「雪乃、何も言わなくていいんだ。君がせっかくバケーションに来ているのに、つまらないことを聞かせてしまったね」
洵は私の心を見抜いたように言った。
「そんなことは・・・」
「僕は大丈夫だ。今はね。確かに辛かったことはあったさ。でも勇がいる。そしてあいつは俊に奇跡が起きると信じている。奇跡は起こらないかもしれない。無駄な医療費を使っているかもしれない。でも心臓が動いている。頭脳がなぜか俊に眠っているように指令を出している。僕も信じなきゃいけないんだ。 僕や勇が奇跡を信じている限り、俊は生きていると僕は思う。いや、思おうとしているといったほうが正しいかな」
汽車が到着したのだろう、駅の入り口から人々が堰を切ったように流れ出してきた。その流れに対抗して、私と洵は駅の構内に足を向けた。
「君はやっぱり飲めないんだろ? じゃ、コーヒーにしようか」
「私のことならかまわないで、お酒の付き合いぐらいできるわ」
「そうか。君にそう言われたら、きゅうに飲みたくなったよ」
洵が案内してくれた店は、小さな煙っぽい店だった。昔の洵から想像していた私は、お袋の味というか、赤ちょうちんぽいお店なのにちょっとびっくりした。
そんな私の心のうちを察したように洵は「僕の行く店は、もっとおしゃっれぽい店かと思ったかい」と微笑んだ。私は的を突かれて「えっ、そんな・・」と否定しかけたが「うん、正直言って、ちょっと意外だった」と認めた。
「君が覚えている学生時代の僕は、自分自身今思えば、どのぐらい僕そのものだったのかな。ずいぶんと粋がっていたから」
「私もそうよ。特にクールなあなたについて行こうと、がんばったしね」
私は笑った。しゃべり方までなんだか学生っぽくなっている自分に気がついてよけいおかしかった。
懐かしい思いが胸を膨らませた。私は隣で一人で晩酌をしている洵をチラッと見た。彼の目じりの小じわが、見えない自分のそれを思い出させた。二十五年の月日は私たちを変えたんだなあとつくづく思った。
「ここにはよく来るの?」
「ああ、一人になりたいときたまにね。なんだか落ち着くんだ。ぼやーっと一人で飲んでいても、誰にも気兼ねいらないし」
「でも、今夜は私にお酌させて。とはいっても、アメリカではそういう習慣なんてないし、父はお酒は飲まなかったから、気が利かないかもしれないけど」
「ありがとう。じゃ頼もうか」
洵は私に徳利を渡し、杯を差し出した。
「二十五年か・・本当にそんなに経ってしまったんだね。たいしたもんだ。あれから四分の一世紀が過ぎ、僕の人生の半分が過ぎたってことだからね。君の二十五年はどんな人生だった」
「そうね・・・あまり考える余裕なんてなくて、がむしゃらに毎日を過ごしてきたって感じかな。
最初のうちは特に言葉のハンディが多くて。毎日いつになったら、ほかのみんなと同じように話し、分かることができるのかなって悩んだわ。アメリカに来て十年ぐらいは日本語で書いてあるものはいっさい読まなかった。というより、読む暇と余裕がなかった。でもね、ジャーナルを書くことや、詩を書くことはやめられなかったけどね。昔英語ができることだけを望み、アメリカやヨーロッパにあこがれていたけど、近所の大学で、日本語を教えるようになって、改めて日本語や日本に向き合ってみると、いかに私が日本人で、日本が好きなのかが分かったの。それだからかしら、ものを書くことがやめられないのは。
あのね、わたしには春香の他にもう一人高校生の娘がいるのよ。ごく普通の家庭。」
「普通ということは幸せなんだ」
私は洵の顔を見た。優しい温かな顔だった。
「ええ」
「いいことだ」
私はそうやって喜んでくれる洵の優しさと、彼の口に出せない痛みを思って心が重かった。
空になっている洵の杯に私はお酒を注いだ。洵は軽く杯を上げて私に微笑んだ。
洵は藤子さんのことも、俊君のことももう何も言わなかった。人に話すことは慰めになる、けれど時には口に出すことで痛みをもっと深くすることもある。そんな洵の気持ちが私には手に取るように分かった。
私が仙台に一ヶ月ほどいると言ったので、何かあったときにはと、洵は彼の携帯の番号を私の携帯に入れてくれた。
程よく飲んだと思ったけれど、洵はぜんぜん酔っているようには見えなかった。
町の眩い灯りで星はほとんどその姿を消していた。月もそびえるビルの連なる峰のどこかに隠されているのだろう。
「久しぶりの都会の街灯りっていいわ」
「そうかい。僕は星が懐かしいよ。月ですら地球から遠のいてしまったかのようだ」
「私の住んでいるところは田舎で、街灯もないでしょ、だから夜は真っ暗。その代わり満天の星が見られるわ。月もとっても明るくて、本が読めるほど。
春香が夏休みで帰ってくるから、そのとき勇君と遊びに来たら」
私は言ってからすぐに自分が迂闊だったことに気づいた。
「あっ、ごめんなさい。俊君に誰も会いに行ってあげられなくなるわね。本当にごめんなさい」
「いや、いいんだ。気にしなくて。勇も僕も俊は大切さ。でも俊が倒れてから、僕たちはバケーションなんてとったことはないから、勇さえその気になれば、特に勇にとってはいい機会かもしれない。その時は頼むよ」
「ええ、もちろん」