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杜の都  作者: 武田道子
5/18

勇くんの話

     5

 「お母さん。お・か・あ・さ・ん」

 「あらっ、春香」

 「なーに、ぼんやりして。疲れたの?」

 「ううん。ちょっと考え事してた」

 「待った? 遅くなってごめん。携帯入れたんだけど・・・お母さん電源切ってたでしょ」

 「うん。今日は仕事の電話とか受けたくなかったから。ほかに何も予定もないし、春香と一緒に誰からも妨害されずに、一日過ごしたいと思って。あなたを待っている間、こうしてぼんやりと仙台の町や人を見るのは楽しいわ」

 「下宿見つかった?」

 「ええ。宮町に。まだ行って見てないんだけど、一緒に行って見る?」

 「まだ見てないのに決めちゃったの?」

 「ええ。駅の喫茶店のマスターの家の離 れを貸してもらえることになったの」

 「お母さんの知り合い。そのマスター?」

 「知り合いって言えば知り合いかな・・・昨日あったばかりだけど、お母さんの昔の友達の知り合いだから」

 「へーすごい。昨日だって、学生時代の友達に偶然会って、一緒に晩御飯を食べたりしたんでしょ。すごい運だね。でも良かったじゃない。住む場所見つかって。一緒に行ってもいいけど・・・お母さん、今夜一緒にご飯食べれる?」

 「そのつもりだったけど。どうして?」

 「うん。友達を紹介しようと思って」

 「男の子?女の子?」

私は「男の子」という答えが返ってくることを予測しながら、あえて尋ねた。

 「男の子」

 春香の顔がポット桜色に変わった。

 「かれ?」

 「そんなんじゃないよまだ」

 「と言うことは可能性もなきにあらず」

 「いやだ、お母さん。私の友達に会うの好きじゃない」

 「・・で、どこの国の人?」

 「日本人」

 

 私は内心ドキッとした。春香は晩熟で、高校のときも男の子の友達はいたが、ボーイフレンドなんかはいなかったし、日本のドラマを見ていて、私がこの男の子、素敵ねと言っても、日本人の男の子には関心ないわなどときっぱり言っていたのに。紹介したい相手がいるなんて。いつから私の小さかった娘は大人になったのだろう。

 「そうか。光栄ね。それじゃどこかおいしいお店に案内してね」

 「私たちがよく行くお好み焼き屋さんがあるんだけど、そこで良い?」

 「お好み焼きねー。それは懐かしいな。私も学生のときよく行ったわ」

 「良かった。それじゃちょっと携帯にメッセジ入れておく」

 春香はコバルト色の携帯にすばやくメッセジを打ち込み送信した。

 私の学生時代とはずいぶんと違うものだ。私は今でも、昔もらった手紙は大切にとってある。美しい書体、力強い書体、言葉や内容もさることながら、字がその人を伝えてくれた。

 今はいったい何が、人の見えない部分を伝えてくれるのだろうか。

 

 杜の都のマスターの家の離れは、思ったよりも広く、住み心地がよさそうだった。

 立派な桜の木がちょうど茶の間兼居間の前で桃色に翳り、あちらこちらに花が開き始めていた。

 こんなところに数週間でも住んだら、アメリカに帰りたくなくなるのではないかと心配になるぐらいだった。バス停も五分ぐらいのところにあり、東照宮まで歩くのにも、ちょうどいい距離だった。

 それこそ初対面のマスターにこんな素敵な場所を使わせてもらえるなんて、今回の一人旅は、運が一緒に旅をしてくれているらしい。私たちは東照宮から市バスに乗って、一番丁へ向かった。


 「お母さん、勇君」

 「勇です。はじめまして」

 「はじめまして。春香がお友達を紹介してくれるって言うので、楽しみにしていたんですよ」

 勇君は照れくさそうに春香のほうをチラッと窺った。

 「うちのお母さんは私や妹の友達と話すのが好きなの。ねっ、そうでしょ」

 「そうよ。若い人たちと話すの楽しいし、私も頭も心も古くなりたくないと思っているから。私もこの仙台で学生時代をすごしたの。春香から聞いていたかしら」

 「はい。春香さんが仙台の大学に留学したのもそのためだって、聞きました」

 「昨日も一番丁や、大学近辺に行ってみたのよ。うんと変わっていると思ったらそうでもなくて、思い出と現実が一緒になったような気がしたわ。それでも、市電が地下鉄になったり仙台駅がずっと大きく、近代的になってはいたけど、道路なんかの名前や、デパートのあった場所なんかは、もちろん変わっていなかった。

 それに偶然に、一番丁でばったり大学時代の友人と会って一緒に夕食を食べたりして、すっかり学生気分になって楽しかった」

 「ねっ、良かったでしょ。私を仙台の学校に入れて」

 「はいはい、とっても良かったですよ。お母さんお腹がすいちゃった。このお店昔風で、あったかくていい感じ。注文は二人に任せるわ。お好み焼きなんかも、本当に二十五年ぶり」

 何もかもが、突然永い眠りからさめたように、私の心をうずかせる。

 春香と勇は頭を寄せ合ってメニューを検討している。ふと私は勇の横顔を見つめた。色白で、鼻の線がくっきりと、美しい顔をしている。華奢な体の線に繊細な感じがするのが、青年というには早すぎるような、あどけなさを感じさせる。春香のような晩熟の子にはちょうどいい相手かもしれない。あの横顔誰かに似ているような気がするけど・・・

 三人でこんなに食べれるのかと思うほど、二人は注文をしたが、やはりどんなに華奢に見えてもさすが男の子、底なし沼のように、どんどんとお好み焼きが、口から吸い込まれていく。その食べっぷりのよさに、私はすがすがしさを感じた。

 「ほら、お母さん、どんどん食べて、勇は、食べるのと同じぐらい、焼き方も上手なのよ」

 「何だよ、それ。あっ、すみません。僕一人で食べていて、どうぞ」

 勇君は焼きたてのシーフードお好み焼きを、私の皿にとってくれた。

 「勇君は料理が好きなの?」

 「はい。親父、あっ父と二人なので、僕が学校から早く帰るし、父を待っていたら、いつまでたっても夕食にありつけないので、僕がいつの間にか作るようになりました。でも作り始めたら、面白くて、毎晩何を作ろうかなんて考えるのが、結構楽しいんです」

 「春香、よく聞いておきなさい」

 「お母さん、知ってる? 料理を作るのが好きな人は、おいしいおいしいって食べてもらえる人が必要なのよ。二人して料理を作ったら、誰も喜んで食べてくれる人がいなくなるでしょ。だから本当は私もやりたいんだけど、あえて勇君を立ててあげて、私が味を見る役をしているの。日本の男性って、立てられるのが好きなのよ。ねっ」

 春香はいたずらっぽく笑って勇を見た。勇君は決まり悪そうに苦笑いをして「そうってわけでもないと思うけど」と刷毛で鉄板に丁寧に油を引きながら言った。

 「どこでそんな自分の都合のいいことだけ覚えてきたのかしらね。それにしてもちょっと会わないうちに日本語がずいぶん上達したわね」

 「そう思う? へへっ。料理よりは可能性があるかも。ねえ、どうお母さん,美味しい?」

 「ええ、とっても。ただ懐かしいだけじゃなくて、日本の食べ物はみんなとっても美味しい。食材を何かに変えてしまうんじゃなくて、その物を生かして、料理することを日本人は良く心得ているわ。

 急に翻訳のことを持ち出すのも変だけど、料理って私のやっている翻訳に似ていると思う。本来の文章の意味やニュアンスを変えずに、けれどぎこちなくならずに、生きた日本語に訳す。料理を美味しく作るのと同じように、文学の美味しさを伝えるって楽しいことよ」

 「すっごいですね。僕なんか語学は苦手だから、外国の本が読みたければ、翻訳に頼るしかないですから。でも料理と引き換えに、春香さんが英語手伝ってくれるので助かっています」

 「良かったね、春香。あなたでも役に立つことがあって」

 「失礼ね。こう見えてもクラスでは、教授のアシスタントをしているし、家に帰れば、私もいろいろ一人でやるのよ。掃除、洗濯、食事の用意とね」

 「そんなの当たり前でしょう。まったく」

 つらっとして言うわが娘の頭に軽い拳骨を一つ落とした。

 「いたーあい。でも私案外好きなの。自分でいろいろ家事みたいなことするの。時には面倒なことはあるけど、たいていは家事をしてると、何にも考えずにいられて、リラックスできるから」

 春香は拳骨の当たった辺りを、さすりさすり言った。

 「そう。ならいいけど」

 勇は食べるのを止めて、そんな私たちのやり取りを見ていた。



 「勇君、今日も寄って行くんでしょ。ちょっと遅くなるかもね」

 「春香は来なくていいよ。お母さんがせっかく見えているんだから」

 「私のことならいいのよ。二人で予定があるのなら、気にしないで。明日帰るわけでもないし」

 「勇君、私一緒に行くわ」

 勇君はチラッと悲しそうなまなざしを私のほうに向けた。

 「僕には、病気の兄がいるんです・・・寝たままで・・・ずっと寝たままで・・毎日会いに行くんです。父が行けないことが多いから特に」

 「でも、勇君は、お父さんも、お兄さんがいつか良くなるって信じているのよ。私もきっと良くなると思う」

 春香の口の両脇がピット上がった。昔から自分の意志がかわらないことを見せるときの彼女の癖だ。

 「僕、食べ過ぎちゃった。お好み焼き大好物なんです。兄はたこ焼きのほうが好きだったんですけど、たこ焼きはテーブルで自分の好きなのが焼けないでしょ。お好み焼きならできる。お好み焼きとたこ焼きと両方ある店もあるんですけど、そこは焼いてもらったのを食べるだけでつまんないんです。

 父が食通で、一か月に一度か二度は外に食事に連れて行ってもらえて、僕と兄でどこにいけるか選ばしてもらえたんです。兄は洋食が主で、いつも高級レストランを選んだ、でも僕はいつも安い食堂なんかを選ぶので、兄とは良く言い争いしました。僕庶民的にできているんです」

 勇君は白い清潔そうな歯を見せていった。

 「庶民的でなにが悪いの? こんな美味しい食べ物なんて、どんなにフランス料理が素晴らしいといったってないわ。それに名前がいいと思わない? 『お好み』なんて優しい思いやりのある響きがあると思うわ」

 春香はぷっと口を尖らした。

 「日本語の音の響きにこだわるなんて、あなたも日本語が本当に解ってきたってことかしら。お母さんちょっぴり嬉しくなちゃった。  

 語学はなまで理解できるのが一番いいもの。

 ねっ、勇君、訊いていいかしら。お兄さんのこと。どんな病気なの?」

 勇君の顔が固くなった。薄い翳りがさっと顔を掠めた。勇君は鼻から深く息を吸い込むとゆっくりと話し出した。

 「五年前です。兄の学校は男子校でした。兄はフレンチホルンが大好きで、オーケストラに入ってました。父には、言ってなかったけれど、将来は音大に進みたいと僕に言ってました。

 この学校は文科系のクラブと同時に、スポーツのクラブにも入らなければなりませんでした。それで兄はバスケのクラブに入って、放課後練習をしていたんです。ある日、練習中突然倒れて意識がなくなりました。原因不明瞭の急性脳溢血と病院で言われました。

 それ以来ずっと寝たままの状態が続いています。時々目を開けることがあります。でもただ開けるだけです。何の反応もありません」

 勇君の声がかすかに震えた。春香が心配そうに彼のうつむいた横顔を見ている。私の心が、ずしんと重くなった。急にのど元まで食べた物が突き上げてきた。

 「あれ、春香もっと食べてくれよ。せっかく焼いたんだぜ。お母さんもどうですか」

 勇君は何かを払い落とすかのように、髪の毛を左手でかきあげていった。

 私は勇君の顔を見ると、もういらないとは言えなくて、彼の前にお皿を出した。

 この子まさか・・・洵の息子・・・? 私は正面から勇の顔を見た。洵にはぜんぜん似ていないが、色白で、鼻の通った細面の顔は、そうだやはり、田村藤子に似ている。さっき勇の美しい横顔を見て誰かに似ているように思ったのは、藤子だったのだ。


 「私のこと、雪乃さんって呼んでいいのよ。そのほうが慣れているし」

 私もまた、精一杯明るい声で言った。

 「あっ、すみません。お母さんだなんて」

 勇君は赤くなってあわてていった。 

 「お母さんて呼ばれるのぜんぜんかまわないけど、名前で呼び合ったほうが、もっと大人同士って感じしない」

 「はい」

 「それから、ごめんなさい。私、余計なことを聞いてしまって。やじ馬のつもりじゃなかったのよ」

 「いいんです。事故があってからもう五年にもなっていますし、春香さんのお母さん、あの雪乃さんには、知ってもらったほうが、僕もすっきりします。それからもう一つ、父と母は以前に離婚して、都合で僕は母とはずっとあっていません。えっとこれぐらいです。僕の家庭のこと」

 「ありがとう、話してくれて。勇君の焼いたお好み焼き、本当に美味しいわ。久しぶりですっごく食べてしまった」

 勇君は何もなかったかのようににこっと白い歯を見せた。


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