洵の秘密
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目を覚ますと、何もかも真っ白な部屋はまるで病院のようで、私を少し憂鬱にさせた。春香に会う前に一ヶ月ぐらい下宿のできそうな旅館を探そうと思った。十年前に家族旅行で来たとき泊まったある旅館は、旅館権下宿屋をしていた。『杜の都』でまたコーヒーを飲みたかったし、そのついでに駅の旅行案内に寄って訊けばいいと思った。
普段は決して早起きといえる私ではないが、日本に来てからは、時差のせいか私の体の中の時計は少し狂ったようで、朝六時になるとぴたっと目が覚めた。大都市の仙台といっても朝の六時はやはり人の数は少ないが、後三十分もすればラッシュアワーに入るのだろう。もしかして杜の都はまだ開いてないのかもしれないと思ったが、店に近づくと、すでに香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。
扉を押して入ると、昨日と同じマスターがカンターの向こうで、コーヒーを飲みながら朝刊を読んでいた。入ってきた私と目が合うとマスターは、新聞を閉じて、いらっしゃいませと笑って言った。
私はどこに座ろうかとテーブルを一瞥したが、なぜか惹かれるように、カウンターのスツールに座っていた。
「今朝は何がよろしいですか」
私は昨日のマスターと洵が飲んでいたブルーマウンテンのことを思い出した。
「ブルーマウンテンをお願いします」
「はい、承知しました。昨日良いのが入ってね。僕も久しぶりにおいしいのが飲めて喜んでいたところですよ。ひょっとして、お客さん昨日もここに来られませんでしたか」
「ええ。お客さんのこと皆覚えていらっしゃるんですか?」
「そういうわけでもないんですけど。ここは駅でしょ、何度もこられるお客さんも結構いますけど、通りすがりの一回きりのお客さんが多いいですから、そういう人は覚えてないけど、でも印象的な人っているでしょう。そういう人はもちろん一回きりでも覚えていますよ。お客さんはどっかちょっと雰囲気が変わっていたから、覚えていたのかな」
「雰囲気?」
「ええ、普通の奥さんって感じじゃないでしょ」
「そうですか」
「失礼ですが、お仕事お持ちですか?」
「ええ。まあ。翻訳の仕事しています」
「やっぱりねえ。普通の主婦とか会社員とか、学校の先生とかお医者さんとか、そんな感じじゃないような気がしました。
さあ入りましたよ。僕の自慢のコーヒーです。えっと、トーストかなんか召し上がりますか?」
「じゃあ、トーストお願いできますか」
「仙台一番のパン屋のパンですからね。たかがトーストといってもここのトーストは最高ですよ。ちょっと待ってください」
マスターは食パンの塊を出すとと二センチぐらいの厚切りにしてトースターオーブンに入れた。
「どうですコーヒーは?」
「マスターがおっしゃるように、本当においしいです。まろみと香り、コーヒーの濃さも、温度も完璧です。アメリカではこんなにおいしいコーヒーなんてとても飲めませんわ。アメリカ人は味音痴の人が多いし、質より量のほうを重視していますから」
「お客さんは、アメリカにおいでだったんですか?」
「いえ、向こうに住んでるんです」
「なるほど、そうでしたか。それで分かった。どことなく違うと思ったわけが」
「そんなに違いますか? アメリカ帰りとか、西洋かぶれとか?」
私はマスターのコメントにおかしくなって笑って言った。
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないんです。本当に。いい雰囲気、いい感じっていうのかな。中年になるとなんだか新鮮さって失われていくでしょ。へんにどっしりしていて、でもあなたはそうじゃなかった。僕毎日いろいろな人を見るでしょ。それで素敵な人に出合えると、その日に光が射したようで、もっとおいしいコーヒーが入れられる」
「マスターご自身も、面白い方ですね。日本の一般の中年男性という風には見えませんわ」
「それはそれは、ありがとう。お世辞にしても嬉しいですよ。せめて心だけは新鮮でありたいと常々思っていますからね」
「いえ、本当です。お世辞なんかではありません。
私仙台、十年ぶりなんです。昨日も二十五年も前の友達に、偶然会って、晩御飯を一緒に食べたり、まるで学生時代に戻ったようでした。きっと今回は一人旅で、母親をやらずに、開放感があったから、きっといつもより違って見えたのかもしれません。一人旅っていいかもしれません」
「仙台にはどうして?」
「仕事です。翻訳の仕事を依頼されたので。それに娘がここの大学に来ていることもあって。仕事を兼ねて、娘の様子を見て、後は私のバケーションって言ったところです」
「そうでしたか。いいですね。はいトーストの出来上がり。おいしいパンはそれだけでおいしいですけど、トーストしたらやっぱりおいしいバターをつけなくちゃね。このバターもぼくの自慢でね、ローカルの農場から買っているんです。それにカリカリとした表面に、ナイフでバターを塗るときの音がね、何度聞いても好きで、子供のときを思い出すんです。もう一杯ブルーマウンテンはどうですか?」
「はい、お願いします。わあー、すっごいトーストですね。おいしそう。本当のパンの香りがさっきからしてきて。あら、当たり前ですよね。でもアメリカの普通の店で買うパンは、パンの香ばしい香りってないんです。自分で焼けば別ですけど。
そのトーストにバターをつけるときの音、私も覚えています。私まで懐かしくなってしまいました。夕べも友達においしい家庭料理の店に連れて行ってもらって、おいしいものをたくさん食べました。日本って本当に食生活が贅沢な国ですよね。じゃあ、いただきます」
マスターは新しく入れたブルーマウンテンのコーヒーカップを古いのと置き換えてくれた。
トーストはマスターが自慢するだけのことはあり、カリカリとした表面につけられたバターがちょうどよくしみこみ、ふんわりとした温かな中身と調和して口の中で溶けるようだった。
「おいしい! 本当に」
「それはよかった。お客さんに、ひと言おいしいって言ってもらえるのが一番嬉しい。
昔のお友達に偶然会ったといわれましたけど、それってすごいですね。僕なんて仙台生まれで、仙台の学校に行って、仙台駅に店をもっているって言うのに、昔の友達に会うなんてこと、一年に一回もありませんよ。もしかしたら、僕がここにいるから、やつら僕を避けて通っているのかもしれないな」
マスターは楽しそうに笑った。私はこの店とマスターにすっかりうちとけていた。しばらくぶりで帰ってきた故郷は、十年前に家族旅行できたときとはぜんぜん違って、私を旅行者としてではなく、ここの住人として受け入れてくれたようだった。
「私の偶然あった友達って、マスターもご存知の人です」
「僕が知っている人?」
「ええ、洵さん。橘洵さん」
「洵さん? えっ本当ですか。いやー、それは本当に偶然中の偶然ですよね。昔の恋人ですか?」
「えっ?」
私は顔がほてるのを感じた。
「すいません。冗談ですよ。僕ちょっとなれると、すぐ冗談が出てきちゃうんです」
「いいんです。彼、洵さんとは学生時代ちょっとつきあっていたこともあったんです。振られちゃいましたけどね」
「そうですか。彼もあなたと結婚していたら、違った人生が送られたかもしれませんね」
マスターの顔が曇った。
「洵さんに何か?」
「聞いてないんですか」
「何も」
「そうですか。昨日一緒に食事したとおっしゃったから・・・」
「彼は、幸せじゃないんですか。昨日はお互いに、家庭のことはほとんど話しませんでしたから。洵さん・・・病気とか?」
コーヒーが急に苦くのどを通った。
「いや、洵さんは健康ですよ。でも病気の息子さんがいてね」
「病気の息子さん? 癌ですか?」
「癌だったほうがむしろよかったかもしれませんね。でも洵さんがあなたに言わなかったのなら、僕が言うべきことじゃないと思いますから、何も聞かなかったことにしてください。すみませんでした」
「私たち、電話番号も住所も交換してないんです。お互い、昔のことは昔って感じで、好い再会だったというだけです。私の今回の旅行に良い思い出を作ってくれました。だから、きっともう会う機会もないと思います」
「そうですか。僕なんか余計なことを言ってしまいましたね。すみません」
「いえ、そんな。でも・・・もしよかったら・・・息子さんがどんな病気をしているのか教えていただけませんか。夕べ彼とても楽しそうにしていたんですけど、なにか、直感かしら、ほんの一瞬でしたけど、私、彼が幸せなのかなって思ったんです」
マスターはゆっくりとコーヒーカップを持ち上げ、残っていたコーヒーを飲み干した。
「洵さんが自分から言わなかったことを話すのは気が引けますが、あなたが彼の昔の恋人だったといわれ、もうお会いにならないことだろうとお察ししたうえでお話します。
洵さんは家庭のことを言わなかったのではなくて、言えなかったのじゃないかと思います。洵さんが僕の店に来るようになって、六年になります。僕がちょうどこの店を開けた年でしたから、よく覚えています。
当時洵さんはT大学の助教授でした。そのころは毎日、学校に行く前にコーヒーを飲みながら、授業の下準備をしたものに、目を通すのが日課でした」
マスターは空になったコーヒーカップを持ち上げ、空だったのが分かると、コップに入っていた水を飲んだ。
「息子さんが二人いて、おおっぴらに自慢をしたりはしませんでしたが、時たま二人の話をすることがあると、とても嬉しそうでした。それが五年前のことです。上の息子さんが、放課後バスケットボール部で練習をしていて急に失神したんです。そしてそれ以来ずっと昏睡状態が続いているそうです。家族の人たちのショックは並大抵のものではありませんでした・・・僕も一時どうなることかと思いました。洵さんは病院の帰りに寄って、コーヒーを飲んでいくのですが、彼を見ていると僕まで辛くなりました。僕が何を言ってあげても彼の心を癒すことは不可能な気がしました。僕にできることは一生懸命においしいコーヒーを入れてあげることぐらいでした」
マスターは一息ついた。彼の顔がきゅうに光をなくし、疲れたように見えた。
「そうでしたか」
私はショックだった。私の記憶に残っている洵は、ちょっと気位の高い、素晴らしく頭の優れた、個性的な、けれども幸せな家庭の青年だった。
昨日だって、ほんの瞬間を除いては、こんなに辛いことを心に秘めているなんて想像さえつかなかった。それなのに、私はただ自分だけ、懐かしさと郷愁に浸っていたのだ。
「でもね、洵さん元気になりましたよ。一時本当に心配しましたけどね。大学を辞めて、いまはK新聞の編集長をしてるそうです。息子さんの様子はあまり変わりはないようですが、完全な昏睡状態というのではないようで、ほんのまれにですけど、目を開くそうです。でも何の反応も、感情もまったくないようです。そのまま五年も寝たっきりですが、洵さんはあきらめてはいないようです。奇跡でも起こればいいですね」
「私にも娘が二人いるんです。洵さんやご家族の痛みがどんなに深いか、少しは感じられます。昨日はそんな事情とは知らずに、私は心無くも、旧友に会えて自分だけ喜んでいたんですね。打ち明けてくれればよかったのに。でも・・・クラス会みたいに、会ってすぐに別れる友に、私が同じ立場でも打ち明けたりしなかったと思います」
「洵さんもきっとあなたに会えて嬉しかったと思いますよ。彼が元気になったって言いましたけど、決して五年前の生活に戻ることはできませんから。でもタイムマシーンにでも乗ったように、あなたが突然現れ、洵さんを昔の幸せだったときに連れ戻してあげたんじゃないかと思います」
「そうでしょうか」
私は洵の私に言いたくなかった、いや言わなかったことを聞いてしまって良かったのかどうかわからない。
知らずに洵が幸せな生活を送っていると思っていたほうが私にとっては良かった。洵は昨夜あんなに屈託なく楽しそうにしていたのは、マスターが言っていたように、一時の辛いことからの息抜きだったのかもしれない。彼の心の痛みを思うと私の心もまた鉛のように重くなった。