若菜と勇
この小説を書き始めてもう7年ぐらいにもなり、もうやめようかと思いながら、仙台には懐かしい思い出があるので、やはり最後までと思いまた書くことにしました。時間を空けてしまったので、以前に読んでくださった方には、もしかしたら最初からまた読み直さなければならないかもしれません。お詫びいたします。また始めて読んでくださる方には心から感謝いたします。
18
「勇君、英語ずいぶん上達したね。先生がいいからかな」
若菜は勇が作ってくれた夕食の大好物のコロッケを美味しそうに口に運びながら言った。
「それにしても若菜ちゃんの料理は今だにさえないけどね。昨日は目玉焼きをご飯に乗せて刻み海苔とネギをのせて醤油をかけたのが晩御飯。写真はプロだけど料理の才能の方は・・いまいち・・食べる方はかなり才能が豊かだけどね。そこんとこ春香ちゃんによく似てるよ」
ふん、私は料理が好きで上手だけど、今手を抜いているだけ。だって夏休みじゃん。と頭の中で言って舌を出した。
「お姉ちゃんの代わりに、英語をタダで教えてあげてるんだから、晩御飯ぐらいじゃ足りないくらいよ。英会話クラスなんて結構高いのよ。勇くん、そんなお金ないでしょ」
「いや、ちゃんとバイトのお金は全部貯めてるよ。足りないかもしれないけど・・なんとかやっていくつもりなんだ」
「なんとか何をやるつもりなの?」
「医者になろうと思う。アメリカのメディカルスクールは4年生大学を卒業してからでないと入れないから、僕にとっては都合がいいんだ。日本の大学は最初から医学部を受けなければならないし、今から編入は一般の入学試験より大変らしい。今の大学は専攻が理系だし、アメリカの大学でもそっちの方はついていける自信があるんだ」
「そうだったんだ。すごいね。お姉ちゃんんが勇くんはすっごく頭が良いって言ってたもの」
「へっ、そんなこと言ってた? 僕は要領が良いだけさ。親父も一度は医者を目指して国立を受けて一回で受かったんだけど、自分は文科系がいいって、一年でやめて翌年文科系の大学を受験してそこに入ったんだ。親父が医者にならなかった分、僕に責任が回ってきたのかもしれない。うちは病人が家族の半分いるからね」
勇の口元に寂しそうな笑いが広がった。
「どこのメディカルスクールに行くか決めたの?」
「まだ。いろいろ調べているけど、やはり西海岸の学校の方を考えているんだ。西海岸の州はあまり堅苦しくないし、封建的でもないからね」
「名門校を狙ってるの?」
「そういうわけでもない。僕の語学力の方も考えなければならないし、学費のこともあるし、推薦で入れそうなところ・・があればそれに越したことはないから。これからが勝負さ」
「メディカルスクールは学費がかかるものね」
「サンフランシスコの近くなんていいなと思っているけど、生活費が高すぎる」
「若者の憧れの場所だもんね。頭が良く、何かの才能に秀でて、コンピュータ関係ができればお金の心配なんていらないわ」
「医者の卵は駄目か・・」
「どっちにしてもメディカルスクールと法学部の生徒ははどの大学でも遊んでる暇はないものね」
「若菜ちゃんも大学行くんだろ。どこに行きたいの?」
「まだ分かんない。でもワシントン州からは出られないわ。学費が3倍かかるの」
「写真の勉強するんだろう」
「うん、写真だけで生活できるかどうかわからないから、ジャーナリズムの方に行くと思う」
「そうっか。若菜ちゃんもそう見えてちゃんと考えているんだ」
「えっ、なにそれ! 勿論考えてるよ。一応アメリカに住んでいるんで、自立は妨げられない事実なのっていうか、それが家のモットー。キャリアをしっかりと持ち、納得の行く仕事ができ、かつ生活ができる。家のお母さん、厳しいのよ」
「日本女子みたいに結婚がゴールだとは思わないの?」
「まさか! でも好きな人がゲイみたいだから・・・そうじゃない人に巡り合わなきゃ、一生写真と生きることにする!」
勇がぷっと吹き出すと、ご飯粒が舞った。
「うわー、汚い!」
「ごめん、ごめん」勇は吹き飛んだ米粒を拾いながら、「ツバはね、人でも動物でもファーストエイドなんだ。今んとこ病気もしてないから、若菜ちゃんの食べ物に少々飛んでも大丈夫。安心して食べて」
「そんな問題じゃないよ。まったく」
「ところでその好きな人、今の学校の友達?」
「うーん、違う」ちょっと考えた末若菜にしてはあまりはっきりしない口調で答えた。
「そうか。まあいいけど。ちょっと難しいっていうか、片思いで終わりそうっていうか。あっ、ごめん」
「いいよ。事実だし。本当にただの片思いだから。どっちにしても向こうは気付くことはありえないし。さっきのはただの冗談」
「へっ、若菜ちゃんって案外可愛いとこあるね〜。残念だよ。そいつはこんな可愛い子に思われていて、ゲイなんだから。何だったら、僕の友達紹介してやろうか。みんないいやつだし、ゲイじゃないからね」
「なにそれ。可愛いとこあるって!これでも学校では・・・まあそんなことどうでもいいよ。紹介もいらない」
若菜はコロッケを手で取ってがぶりとかぶりついた。口いっぱいになったコロッケをこぼさないように、手で口を覆って、勇の色白 なほっそりした整った顔を見た。きれいな顔だ。まるでアニメに出てくる少年のようだ。勇の友達はゲイじゃないんだ。でも日本だし、カムアウトまだしてないってこともあるし、勇だってきっと誰にも言ってないと思う。お父さんには言えないよね。
「なに、僕の顔にご飯粒でもついてる?」
勇は若菜の視線に気付いて、自分の口の周りを手のひらでぐるりと拭いた。
「まあ、気向いたら言って。いつでも紹介するから。でも夏休みが終わったら帰っちゃうんだろ」
そうだ。九月にはアメリカに戻らなければならない。急になんとも言えない寂しさが心の中にサーっと押し寄せてきた。胸がキューンと締め付けられるような寂しさだった。だれかと離れたくないと心底初めて思った。ただの友達、お隣のお兄ちゃん・・ではやっぱりだめなのだ。
急に口を動かさなくなった若菜に「もうお腹いっぱいか?」と勇はコロッケがまだ皿の半分残っているのを指さして言った。
若菜だって、つい最近自分自身で気がついた気持ちだ。そもそも春香のボーイフレンドだと思っていた。春香だって俊くんのお見舞いを始める前までは、勇くんのこと好きだと思っていたのじゃないか。もちろん勇くんががゲイだということも知らなかったはずだ。でも若菜には分かる。春香が今はかなり本気で俊くんのことを思っていることを。でも寝たっきりの人をどうしたらそこまで好きになれるのだろう。同情でないことは分かるけど、現実味がないことも確かだ。でも俊くんは生きている。目も開く。最近は前よりも回数が少し増えたらしい。もしかしたら完全に目が醒めるときがくるかもしれない。・・・でも5年?6年?の失った時間をどう対処できるのだろうか?今完全に意識が戻ったとして、俊くんはまだ高校生。浦島太郎ほどではないけれど、友達はもう大学も卒業しているはずだし・・・
勇くんはお姉ちゃんのことどう思っているのだろう。あっそうか、ゲイだから最初からお姉ちゃんとは友達の感覚?勇くんも色々複雑な感情を処理しているんだ。それにしてもなんでゲイなの! あんなに頭が良くてイケメンだっていうのに。わたしはさっさと諦めるより仕方ないか。夏休みが終わればどっちみちアメリカに帰らなければならないし・・でも勇くんはメディカルスクールにくる! あぁ〜分かんない。なんで人の気持ちってこんなに複雑なんだろ!
若菜は母の借家の風通しの良い縁側でごろりと仰向けになって、さらさらとそよぐ桜の葉が光や影でその色を変える様子をカメラに収めながら、とりとめもなく湧き出てくる思いに浸っている。
メールの着信音。カメラを置いて携帯を取り上げると勇くんから。
『アルバイトしないか』
『なんの』
『カメラマン』
『何を撮るの』
『題は旅する人』
『街で見かけた人、電車、バス、飛行機、駅、道、どこでも良い。若菜にぜひ頼んでくれって頼まれた』
『私に?賞をもらったから?』
『それもあると思うけど、君の写真がとても気に入ったそうだ。君にすぐにでも会いたいそうだ。いま時間ある?』
『時間ならあるよ。今、宮町のお母さんの家に来てるけど』
『じゃあ、今から迎えに行く』
『バスで行けるよ。場所は?』
『親父の車借りてるんだ。今から行く。住所教えて』
仕事か〜。初めてのカメラマンの仕事!
ちょっと怖いな〜
十五分ほどすると携帯が鳴った。携帯に出ると、今ついたからということ。桜の木が見たいというので若菜たちがいつも通用門に使っている裏木戸を開けると、細身のジーンズにゆったりとした白地に紺色の細いたてのストライプのコットンシャツを着た勇が待っていた。グラリと心が揺れる。
「どうぞ」
「うわー、すごい木だ!」裏庭に一歩はいるなり、勇が叫んだ。
「本当に見事な木だ。しかも普通の家の庭にこんな立派な桜の木があるなんて、信じられないよ。春には桜がすごかっただろう。庭で花見ができるなんて、まるで平安時代だね」
勇は頭をそっくり返してさわさわと揺れる青葉の天蓋を見上げている。
「枝っぷりもいいね。ツリーハウスが作れそうだ。大人だけじゃなく子供にも夢の木だね」
「勇は全く都会子だね。私のアメリカの家なんか、森の中って感じだよ。それにお母さんが桜の木を数本植えたから、この木のようには年期がないけれど、ダイニングからもお花見できるし」
「へぇ、若菜ちゃんは恵まれているね。だから感性が豊かで、いい写真もたくさん撮れるんだね」
勇は桜の木と若菜を代わる代わる見ながら一人で頷いている。
「約束何時? 行かなくていいの?」
「おっ、やばい。行こ行こ!」